いつもの喫茶店で

彼と出会ったのはいつもの喫茶店だった。高校生の頃から通いつめている父の知り合いがオーナーをしている喫茶店。レトロな内装と趣味のいい陶芸のコーヒーカップや陶器が並べてある、素敵なお店だった。

 

今はもうオーナーも亡くなって店を畳んでしまったが、生きていればいまだに現役で流行りの喫茶店だったかもしれない。
私は大学生だった。父が私を溺愛して箱入り娘のように育てていたので、ずっと高校から女子高で大学も女子大という徹底ぶり。

 

中学も厳しいところだったので男の子と親しく付き合ったりする機会というものがほとんどなかった。恋愛未経験で大学生まできてしまった私は、男の子に免疫がないまま20歳を迎えようとしていた。

 

「あの、これあなたのしおりですか?」
初めに声をかけてきたのは彼だった。私は喫茶店のいつもの席でお気に入りの作家のミステリー小説を読んでいたのだが、急に声をかけられたことに動転してあたふたしてしまった。

 

なんせ、男の人に免疫がなくてお店や大学でもぎこちない対応しかできないような有様だったからだ。何とも恥ずかしいことではあるが、私は声を上ずらせたまま、
「あ、あ、はい、あの、すいません」と視線をその声の主の胸の辺りでぐるぐるとさせた。人見知り人間にとって、人の目を見て話すというのはなかなか難しいものだったからだ。
差し出されたしおりを半ばひったくるように奪うと、そのまま俯いてしまった。
当時は本当に読書娘、という感じで長い黒髪に眼鏡の何のおしゃれさもない女子大生だった。こんな地味な見た目の女子で人見知りなんて、と当時は随分と気に病んだものだったが、今となっては懐かしいなぁと思えるほどにはいい思い出だ。

声をかけてきた男性は私のそんな無礼な振る舞いに怒るわけでもなく、呆れるわけでもなく、逆に興味を示したようにすぐ近くの席に座った。
私は心臓が飛び出るのではないだろうか、と思うくらいにドキドキしていた。男の人を意識することなんて普段の生活ではほとんどない。唯一、本の中で登場する男性たちについて妄想するくらいのものだった。

 

実物に話しかけられて、そばに座っている。そんなことがこんなにもドキドキすることなんて。今では笑ってしまうが、あの頃の私は少女のように純粋だった。
「あのしおり、この街の大きな書店で限定としてもらえるやつだよね」
ぼそっと、呟くように言ったその彼の言葉に、私は伏し目がちにして俯いていた顔をあげ彼を見つめた。初めてまじまじと彼の顔を見た。とても薄い、という言葉が出そうなくらいさらっとした雰囲気の顔をした男性が私を見ていた。動揺のない、一切揺らぎのない表情で少し微笑んでいた。色素の薄そうな白い肌に薄い唇、大きくもなく小さくもない切れ長の瞳。ああ、この人は今読んでいるミステリー小説の中に出てくるミステリアスな容疑者の一人、みたい、という私独特の印象だった。年はたぶん私より何歳か上だな、でもやっぱりミステリアス。

 

しばらくぼけっと彼の顔を眺めてフリーズしていると、不思議そうな顔をされた。
「あれ、違ったかな?」
男性は頭を掻きながら困ったような顔をした。
「あ、い、いえ、そうです。あの大きい書店でこの、ミステリー小説買った人だけに貰えるものなんです」
私は焦って早口でそう言うと、目の前にあるコーヒーカップに入ったこの店のオーナーオリジナルのブレンドコーヒーを流し込んだ。ミルクたっぷりのお子様味だけれど。
男性はその様子を少し面白い、とでも思ったのかうっすらと微笑んだ。
「僕もその小説持ってるんだ。ミステリー小説が好きでさ。この前出たばかりのそれ、読んでみたくて買おうと思ってたんだけど、あの書店でキャンペーンやってるって知って行ったんだけど、完売でさ。しおりも貰えなかったし。残念だな、って思っているところに、君がカバンからこのしおり落とすのを見かけてさ。ついつい声かけちゃったわけ」
軽い口調でそう言ってから、彼もすーっと吸い込むようにコーヒーを流し込んだ。オーナーの趣味の陶芸で作った、きれいな茶色のカップが美しい。
「はあ、そ、そうなんですか」
私はどう返事をしていいのかわからず、あいまいに返事をした。緊張しているからか、やたらのどが渇いてコーヒーに手が伸びる。というより、ずっとコーヒーカップを握りしめたまま口元の辺りで遊んでいた。どうしていたら自然なのか考えれば考えるほど、自分の行動がおかしなものに思えてきて顔が赤くなったのを覚えている。

 

それから彼は私に話しかけ続けた。あくまでしつこくなく、自然な言葉だったと思う。私が緊張しているのがたぶん彼にも伝わっていて、それを察して優しくゆっくりとした口調だった。喫茶店の落ち着いたジャズの音楽と彼の優しい声色が、話を聞いている途中でも心地よく感じ始めて私は徐々に心のバリアを取っていった。私は心のどこかで男の人は怖いもの、というイメージもあり苦手意識を持っていたものだったが、彼にはそういうところがなく、自分が自分でいることに自然でいられた。男の人の前で取り繕わなくていい、ということはこんなにも心地いいのか、という気付き。私は彼の話に引き込まれていった。

 

普通の女子大生にとって、カフェでこうやって男の人と隣で話すことなんてなんてことない普通のことなのかもしれない。けれど当時の私にとっては、物凄い事件のようなものだった。本の中でイメージしていた男性との妄想が、現実のものとして目の前にあることにドキドキしてしまった。このコーヒーの美味しいいつもの喫茶店で、素敵な男の人とひとときを過ごせることに。これからもこの人とここで会えるのだろうか、という淡い期待が胸の奥に広がった。

 

彼ときちんと話したのは本とコーヒーのことだった。それ以外の会話は天気だとか当たり障りのない短いものだけで、ほとんどの会話が本とコーヒーに関することだった。彼は近くの大学の非常勤講師だった。7歳も年上だったのだ。第一印象は数歳上かな、という感じだったが意外と年上だった。若く見える人のようだ。童顔ではないものの、雰囲気がとても若く思える。ここの喫茶店に来たのは私に会った日が3回目だったらしく、彼も読書にここを利用しているということだった。

彼が話した通り、ミステリー好きの彼は同じく読書しているミステリー本を読む私に興味を覚えて、しおりを拾ったことももちろんきっかけであったが、それ以外にも興味があって話しかけた、というようなことを少し照れながら話してくれた。普段あまりそんなことはしないのだよ、とまた照れくさそうにぼそっと呟いている彼がとてもかわいく思えた。

 

彼と私の出会いはコーヒーの香る素敵な喫茶店だったのだ。それからこの出会いをきっかけにしてデートが始まるかと思いきや、しばらく私たちは待ち合わせをするわけでもなく、何となく自分たちの都合のいい日に喫茶店に出向き、相手がいることを期待しながら通う、という割と遠回りなことを続けていった。

 

待ち合わせをすれば相手に会えるのにもかかわらず、なんだか気恥ずかしさもあったのか、一通り会話をしたらそのまま別れる、というようなことを繰り返していた。今日は相手が来るのかどうか、期待に胸を膨らませつついつもの席で読書をして待つ、という何ともまどろっこしいやり方だった。会える日もあれば、会えない日もある。3日に一回会えればいい、というところから、段々と相手のスケジュール具合もわかるようになり、何度かそういったことを続けるうちに会える頻度は上がっていった。

 

二人がちゃんと付き合い始めたのはこのコーヒー店での出会いから半年ほど経った頃だった。奥手な二人だったので、デートまで漕ぎつけるまで4か月、そこから数回デートを重ねてようやく付き合うことになった。もちろん、私の父親には内緒の交際だった。大学生にもなって何故内緒にしなければならないのか、というところだが、そこは箱入り娘として育てられた私なので、父の反対にあうのが怖くてしばらくはひた隠しにしていた。デートの時間は門限をきちんと守るし、怪しまれないように家の中では必要以上にウキウキしないようにしたし、匂わせるような行動はなるべくしないよう気を付けていた。

 

それでもバレるときはバレるもので、私は母親だけには彼の存在を話してあったのだが、母がちょっと口を滑らせてしまい、一気にバレてしまった。父としてはまだ受け入れがたかったのか、しばらくは許しが出なかった。発覚したときはしばらく落ち込んでいたし、私をデートに行かせたくないようだったが、それも彼が家にあいさつに来てから一気に和解へと繋がった。

 

父は彼のことを気に入ってくれたのだ。とても意外だったが、彼の物腰の柔らかさや不思議な雰囲気が父を安心させたのか、意外にも割とすぐに打ち解けていくのが分かった。これまで散々男から私を遠ざけていた父が、初めて男の人と会うことを許してくれたのだった。後日、大分後だが母に事情を聞いたところ、あの彼と知り合った喫茶店のオーナーであるマスターが、彼のことについて詳しく父に話してくれたようで、割とすんなりと許しが出た、ということだったらしい。あのコーヒー香る喫茶店が、私たち二人を出会わせて、結び付けてくれたのかと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになる。今でもコーヒーを飲むたび、そのことをずっと思い出す。

 

オーナーのオリジナルブレンドコーヒーのほろ苦い味と香りが記憶に蘇って胸をいっぱいにする。またあの味が、あの香りが、目の前に現れてくれないだろうか、とついつい思ってしまう。

私と彼は結婚した。あれから5年後のこと。オーナーが亡くなった知らせを聞いた1年後のこと。私たちは夫婦になり、今私は妊娠している。新しい命をお腹に宿している。妊娠期間中はコーヒーが飲めなくて本当につらいけれど、カフェインレスのコーヒーや彼が飲むコーヒーの香りを嗅ぐと、いつも思い出す。

 

私たち家族はコーヒーによって結び付けられた。二人の恋の始まりの味はコーヒー。家族の始まりの味もコーヒー。いつか生まれてくる子供も、この苦いコーヒーの味が大事な思い出になる日が来るといい、と思いながら今を生きている。

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