ほんのり香るコーヒーと窓辺にすわる私とネコ

窓辺の隙間から朝のかぜが吹き込んでいる。

私は眠気まなこの目元をこすりながら、窓辺のいつもの席に腰をおろした。

何も考えないように外を眺めていると、少しづつほんのりとコーヒーの香りが鼻をかすめる。

この場所にこの時間座ることを予想して、私は毎朝30分だけ早起きしてコーヒーメーカーをセットする。そして30分後にここに座る私に、毎日必ず決まったようにコーヒーの香りが、私の鼻の中を通り過ぎるのだ。

その香りは時間とともに、私の脳を刺激する。

 

窓辺のテーブルには、私より先の常連がいる。ネコのミータである。

長いしっぽをふわっとゆっくり上げては下しながら、窓辺のテーブルの上に腰かけている。そして私の顔を見るなりひと鳴きすると、また何も無かったような表情をして窓の外を眺めるのだ。

ミータの長いしっぽの先は、いつも水色のシャツの袖口付近にあたっていた。その袖ぐちの先の手には真っ白なコーヒーカップがあり、袖口から伸びた手はカップを優しく握っている。

水色のシャツは主人のお気に入りのパジャマであった。

主人は毎朝このテーブルの私の前の席に座っていた。そしてその前には、必ず窓辺に顔を向け背中を主人に向けたミータが座っていた。ミータの長いしっぽは、今日と変わらずふわっと上げては下しながらゆっくりと主人の袖口をかすめていたのだ。

ここに越して来たのは十二年前。古い集合住宅の一部をリフォームしてからのことだ。ミータはまだ子猫であり、私も主人もまだ若くお互いに忙しく仕事をこなしている共働きの夫婦であった。

正直古びて汚らしいこの家を、私はどうしても気に入ることができずにいた。しかし主人の親の勧めもあり購入したのだが、私はいつも主人に不平不満をぶつけていた。

そんな私がいつも怒りの声を上げる時間になると、どこからとコーヒーの香りが部屋の中を漂うのである。
ミルを挽き手際よくコーヒーメーカーに豆をセットする。真っ白いカップに半分までお湯を注ぎ、パールがかった小さな粒子の砂時計をひっくり返す。
何事も気持ちから入る人であった。

 

お互いの生活の中でも朝の時間を大切にしたくて、演出にもこだわる人である。
砂時計のパールがかった砂の色は、海辺の砂をイメージしているらしく、主人のお気に入りの水色のシャツは海の色を演出しているらしい。

馬鹿げてると笑う私の横で、目を丸くして私を見る主人。
そんな二人を見ながらあくびをするミータ。いつもの朝は必ずいつも通りに来るのだと、信じて疑わなかったのは私だけであろうか。

ご機嫌斜めの私の頭は神経も鈍っているのか、コーヒーメーカーからのコーヒーの香りはほんのりと薄づいた香りに感じる。

そして段々とコーヒーの香ばしい香りが私の鼻をかすめた瞬間、私の苛立った怒りの気持ちが静まってゆくのである。主人は微笑みながらコーヒーを注ぐ。

コーヒーの香りは、主人にしてみれば唯一の私の怒りを抑えるコントロール手段だったのだ。

ミータがこの場所を選んだのは、何もこの席が特別に外の景色が良いからではない。
この席の前から見えるとなりの家の狭い路地裏に、黒い毛並みをしてゴールドの瞳をしたネコが通り抜けるのを見るためだ。

毎朝同じ時間、同じ場所をそのネコは毎日通り過ぎてゆくのである。そしてその横には必ず水色の袖口があり、ミータは嬉しそうに長いしっぽを振るのである。主人とミータが窓辺のお気に入りの席を選んだのはそんな時期である。

そんな頃である、私にも窓辺の席を勧める主人。そのテーブルには入れたてのコーヒーが置かれてあった。私は嫌々と言いながらも、ついコーヒーの香ばしい香りに魅せられて席に着いたのだ。
色々な会話をした。子供の話、親の話、友人の話、テレビの話題や何でもない世間話など会話はつきなかった。

その横でミータは、じっといつものように主人に寄り添いながら座っていた。

 

ある日珍しく主人と大喧嘩をした。お互いもう若くはない歳を迎えていたので物の投げ合いなどはなくなったものの、歳を重ねた夫婦は今度はお互いの言葉を交わさなくなっていた。
喧嘩から役三か月ほどは、お互いの仕事の忙しさも合わさってか、全くのすれ違い生活と気持ちのずれとも重なり会話どころか目を合わすことも無くなっていた。勿論、窓辺の席に私が座ることなど到底無いに等しかった。

そんな中でも毎日同じ席でお互いの心境を語りあっていたのか、毎日同じ光景を過ごしていたのは主人とミータである。
何を思い何を感じて、毎日窓の外の景色を眺めていたのか今となりそのことを知っているのは私の隣にいるミータだけである。

今日もまた同じ時間をミータはここにいる。かれこれこの家に越してきてから、一番長い時間をこの場所で過ごしているのもミータかも知れない。
ミータのしっぽをかすめる水色の袖口は今はもう無いが、今はそのしっぽを私の腕に向けているミータ。

 

私の目の前に座っていた主人。同時にミータの見ていた黒い毛並みのゴールドの瞳をしたネコ。
きっと今の私の気持ちと同じ感覚で、きっとミータも窓の外を眺めている気がした。女同士別に何の会話もない。ミータは何も語らないから、私も余計なことを言わずにすんでいる。毎日あること無いことの小言を言っては、また余計な口を挟む。着飾ったあり得ない演出を楽しむ主人とは違い、私は常に現実を生きていた。
だから意見は合わず、主人は自然と黙り込む。そんな二人の間にいるミータは、何も語らない。

主人にとって一番居場所が良かったこの席は、ミータが居たからこそ成り立っていたような気さえする。

私と飲むコーヒーは美味しかったのだろうか?
私と話す時間は楽しかったのだろうか?
私と恋をして良かったのだろうか?

コーヒーの香りがこんなに落ち着くと感じて何年の時を過ごしてきたのだろう。

 

ここに座っていると、何も変わり映えしない時間空間さえも愛おしく感じる今日この頃である。

今なら水色の袖口をつまんで、「素敵な色ね」なんて言ってみたり、砂時計をひっくり返した時間の分だけ主人の顔の観察をしてみたり、もっともっとしておけば良かったなんて思えて仕方なくなってくる。

私だけが一方的に話さないで、もっと主人の会話も頭の中にインプットしておけば良かったなんて思えてしまう。

ほんのり香るコーヒーが、香ばしいコーヒーの香りに変わるまでに嘘でもいいから、「良い香りね?」なんて言えたら良かったなんて考えてしまうのも、過ぎた過去があるからかも知れない。

今となってつくづく主人が煎れてくれたコーヒーが愛おしく感じて仕方ない。

今日も相変わらず私とミータはいつもの窓辺に座っている。
いつものように、ほんのりと香るコーヒーを楽しみながら何も語らずそれぞれの時間を楽しんでいる。

見えるのは動く雲と、太陽といつもの少し先の建物ぐらいである。他には何も映し出されることのないお決まりの外の景色だが、それと同時に変わらないのがほんのりとしたコーヒーの香りである。
一つだけ変わったのは、私の白髪の数とミータのか細くなった鳴き声ぐらいだ。そうやっていつかは私もミータもこの席からいなくなっていくのだろう。

そんなある日のことだ。水色の袖口がとなりに現れた。しっかりと手には真っ白いカップを抱えている。

私は夢を見ているのか、はたまたこの場所からついに消えたのか、そんなことを思っていた。
主人が居なくなってから、私の腕に長いしっぽを振り下ろしていたミータのしっぽの向きが元に戻っていた。

しかしミータも私も何一つ変りはないが、水色の袖口は少し細くなっている。
そっとその腕の方向から顔を除くと、そこにはしわも白髪もない若い肌艶の良い青年が腰かけていた。

それはまさしく主人ではなかった。主人の面影を残した息子の姿である。

彼も何を話すでもなく、じっと窓を見つめながらコーヒーを飲んでいる。

私は何故かおしゃべりになった。あの日のように、子供のころだった息子の話、祖父母の話、友人の話、テレビの話、何でもない世間話に一つだけ加わったのは主人との思いで話である。

こんな時は不思議なものである、愚痴や悪口にネガティブな話題は一切しようとしないからだ。

一方的に話かける私の横で、ミータはあの日と同じように黙って長いしっぽを息子の水色の袖口に置いたまま聞いていた。

そんな私を息子もまたあの日あの時の優しい眼差しで見つめる主人と同じ瞳で、私を見ていた。
何も変わらない時間と空間だが、確かに時は変わっている。

変わっていないのは、この部屋から見る窓辺の景色と私とミータそして、ほんのりと香るコーヒーだけである。

いつしか息子もまた私とミータと主人の見ていたこの景色を、香りを愉しむのだろうか。
そこには息子の恋する女性が座り、その横にはミータらしきネコが居るのだろうか。
ふとそんなことを考えていた。

私はここに居なくなるまでいったい何度恋をするのだろう。

主人に恋して、窓辺の景色に酔いしれてほんのりと香るコーヒーに恋をした。
ミータもきっとそうに違いない。

姿かたちは違うけれど、同じおんな同士の変な勘である。
今日はやけにミータの気持ちがわかるような気がする。

隣の家の路地裏の黒い毛並みのネコの姿はもうないが、水色の袖口の先にあるちょっとしわ寄せあったあの笑顔も今はないが、同じ時間空間の中で今日も私とミータはここで窓の外を眺めている。

私の右手には白いカップに入ったほんのり香るコーヒーと、パールかかった白い砂の砂時計。
そしてその横には、長いしっぽを振り下ろすミータが居て、そのしっぽの下には水色の袖口が今日もある。
どこからともなく、私の鼻にはほんのりとコーヒーの香りが漂ってくるのだ。

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