まぼろしを追いかける

コーヒーの香り、それは香ばしくて幸せが深まっていく秋のように空へ舞い上がっていくような心地よさが胸いっぱいに広がる。
引き立てのコーヒー豆の香りはもうたまらない。幸せの香りといっても良い。
そんな空間に、もしずっと居たとしたら、感覚がマヒしてしまって、もう素晴らしい香りを楽しむことができなくなるのではないか、とリコは考えてしまう。
若しくは、香りになれてその素晴らしさを少しも感じられないようになってしまう。
それが、もしかすると、結婚ではないか、と最近は思うのだ。
リコが会社のCAFEでコーヒーを飲んでいると、先客の男性や、後からCAFEへやって来た男性が必ずやって来る。
この間は、新家さんがリコに、「今日は飲みに行きましょうよ。」と誘ってくれた。
もちろん、リコは承諾した。予定がある訳ではないし、会社の帰りに一緒に食事できる人がいれば、居ないよりもずっと素敵な事なのだ。
しかし、新家さんは、先月、サチ先輩と結婚したばかりなのが気になるところなのだ。
その夜、会社の反対側にある河原に面したバールで新家さんとアンティパストをつついていると、自然と近くに寄り添うようになって、肩が触れたりする。
カウンターが狭い所為なのだけれも、ワインも進むうちに、もう少し近くてもいいかな、とだんだん人が近くなってくるのだ。
サチ先輩が家で食事など作っていればどうなるのだろう。サチ先輩は、会社の受付嬢であり、全男性社員の憧れと言っても過言ではない。
新家さんから誘われたという事は、先ず、勲章になるといえるものだ。
しかし、新家さんを惑わせたなどと、噂が立っては、リコの立場は危うくなる。しかし、そんな、噂こそが、魔性の女、という不思議のヴェールを作り出してリコの可能性を高めてくれるかもしれない。
新家さんは、結婚一か月で、もう他の女と一緒にご飯を食べて見たくなった、つまり息抜きをしたくなってしまったわけなのだ。
これと同じ症状の男たちが、会社のCAFEでリコを待ち構えている。
リコは、殆んど毎日誘ってもらえるという幸運にある。
しかも、その事を幸運と思える様子。まだ、慣れ親しみ過ぎて、しあわせを感じられなくなったわけではない。
しかし、先日は、お局がCAFEにやってきて言ったのだ。
何時までも遊んでいると、行き遅れてしまうわよ、と言ったのだ。
局は髪を肩の所で真っ直ぐに切りそろえた六十歳を目前にした女性だ。若い頃美人だった人。品の良い女性だ。
彼女に、そんな事、どうだってよいでしょう?と言えなかった。代わりに、リコは、行き遅れてはだめですか?と聞くことにした。
すると、局は、頷いて、そうなのよ。タイミングが大切なの。結婚していない男性の方がだんだん少なくなってくる。そのうち私みたいになっちゃったらどうするの、と言って肩をすくめた。
彼女は来月定年するのだ。ずっと付き合ってきた部長と別れて自分だけ定年退職する。部長には家族がいるけれど、彼女には居ない。
この理不尽を局は言いたかったのであろう。
局とリコは、ブラックコーヒーを飲み干して、キャラメルマキアートを同時に頼んでいた。
なんかね、上手くいかない時には甘い物が飲みたくなって、局が少し笑って言う。
リコは頷きながら、自分もいずれ、局の様に、ここに座っている姿になるのだろうか、と首を傾げた。
だからって、誘ってくる男を断らなければならない事はないはずだ、と思い改めて甘い飲み物をCAFEに残して席を立った。
その夜も、隣の課長と一緒に飲みに行く予定があるのだ。
何処へ誰と飲みに行って、どこに泊まってどっから出勤しようが、リコの自由なのだ。
この世代に姦通罪はないし、リコは浮気をさせたわけではない。一緒にご飯を食べるだけなのだ。
だから、局の様になることもないだろう。もしかすると、局のように、儚い契りではあるが、部長とのような関係にもリコはならないかもしれない。
希薄な人生、リコはため息をついた。
このCAFEのコーヒーの香りの様に、立ち上っては消えて行ってしまう蜻蛉のような人生になってしまうかもしれない。
だからって、男の誘いを断る道理はない。
リコは、誘いを受けて、隣で食事するだけで結構満足しているのだ。
恋愛に発展しないのは何故だろう。
それ以上、相手は誘ってこない。
何故だろうと、考えて、遊び人で有名な課長を捕まえて聞いてみることにした。
「どうして、私と付き合おうっていう人がいないの?」
「君は、真面目だから。君と付き合ったら結婚しなければならないと思ってしまうんだ。」
「では、真面目ではないように見えるように振る舞えばよいのかしら。」
「遊びたいのか、結婚したいのか、もう決めているのだろう。」
「どっちだってよいのだけれど。」
「局のような人生になりたくはないと思っているね。」
「そうなの。でも、彼女だって、そうなりたいと思ってなったわけではないわ。」
「そうだな。だれだって一人きりを望んでそうなる訳ではないのだからね。」
「課長は?」
「最近、実は妻と別れられたんだ。」
「遊びすぎで?」
「やっぱりそう思うかい?」
「多分、皆がそう思いますよ。」
課長は遊び人で有名なのだ。課長相手に本気で勝負していく女もいないのだ。それくらい札付きのワルと言えるのだから、普通の女は騙されたりしない。
双方合意の上でなければ、事態は進んだりしない。
「課長、別れられてどんな気分ですか?」
リコが尋ねると、課長はニヤッと笑った。
「そう、悪くないんだ。実は、そう悪くもない。しかし、現実には、養育費や慰謝料が必要だからね。」
「そうですか。課長と一緒になろうとしたら、養育費と慰謝料を払い続けなけれならないのですね。」
「辛いだろうな。新しい人なんか見つけるかな。」
「大丈夫ですって。」
リコは言いながら、何となく、課長が可愛らしく思えてきた。
もしかすると、こんな所に出会いは隠れているのかもしれない。課長との時間を過ごした後に一人考えながら家路についた。
それから、暫く会社でCAFEへ行くのをやめた。
まじめに仕事をすることに決めたのだ。
CAFEへ行っていた時間も実は勤務時間中なのだった。
真面目に働いてみれば、良い出会いだってあるのかもしれない。
そう考えて、何事にも流されることなく、時を過ごすことをリコは考えた。
夜、一人の時間は、飲みに行っているのをやめて一人になってしまった分、さみしさなど感じている場合ではない。
そう思って、会計士の学校へ行く事に決めた。
アフターファイブという時間がある。夕方から、専門学校へ行って会計士のコースを学ぶのだ。
元々数字は得意分野なので、難なく頭にないってくる。
半年後の簿記の試験にもクリアできた。そして、その三か月後には会計のテストに突入するのだ。
リコは、毎日会社への帰りに専門学校へ行くのだが、睡眠時間を削っての勉強も苦にならない。
それは、その専門学校にもCAFEが有ったからかもしれない。
夜、専門学校のCAFEで勉強していると、回りも皆、真剣に勉強している姿に見える。
その中で、好意的な視線を感じる事があるのだ。良く見ると、講師の男性が、勉強している皆の上に温かいまなざしを降り注いでいる。
その男性こそは、リコが見てびびびときた男性だったのだ。
翌日も、良く見てみると、男性講師はCAFEに居た。
話してみるとリコよりも三つ年上で会計士の資格を持って、この学校で教えているという。
ここのCAFEではコーヒーの香りはしない。
もうその香りになれてしまったから、香りが感じられないのか、それ以上の物を見つけてしまったから、コーヒーの香りに気づかないいのか、リコは春の霞みを眺めるように講師をうっとりと眺めてしまった。
そんな視線に気づかない男はいない。
講師も、生徒との恋愛が、巷でうるさく言われているのが分かっている。
そのために、リコをまず、卒業させようと考えた。
会計士になるまでに、猶予五年間、必死にサポートするのだ。
まぼろしを追いかけるのだ。
恋愛という幻と会計士という現実の間で、恋愛を制御できるだろうか。
リコは考える暇もなく、日夜勉強に励むように心がけた。
会社でも、昼休みにも会計の勉強をするようになった。
こんなに頑張っているのに、報われるとは限らない。
それが、国家資格なのだ。甘くない。
先生は、何だか、言っていた。君が会計士になったら、僕は君と、と言っていた。
あれは聞き間違えだったのダロウカ。
もし、聞き間違えだっても構わない。
勉強している間は先生と一緒にいらるのだから。
会社ではCAFEにすっかり来なくなったリコを、面白くなくなった真面目なな女として蔑んでいた。
蔑まれても構うものか。
どこまで真直ぐに進むしかないのだ。
只、国家試験合格に向けて。
これはもう恋愛の感情を踏まえていられない。
化粧をせずに学校へ行くようになってしまった。
しかし、これではいけない、と思い余って、お手洗いでお化粧を直した。
歯磨きだって欠かさない。
だって、成就した暁にもう一つ成就させる目的があるのだから。
夢に向かって頑張れる。
専門学校のCAFEでは先生の視線が背中をぽしてくれるから。
三年が経ち、四年が経った。科目は随分と合格した。
五年で全科目合格は、決して悪くない時間だ。
そのころにはリコも四十歳になるだろう。局に一歩近づいている。
しかし、リコには先生がついているのだ。
先生は未だ独身だ。独身で四十二歳だ。
二人の結婚生活について語ったことはまだない。しかし、それはもう目前なのだ。勉強に勉強を重ねて。ついに試験にすべて合格した。
そして、リコは先生からのポロポーズを待った。
しかし、先生は何も言ってこなかった。
どうしてかしら、リコは改めて周りを眺めてみた。
すると、教室に、二十代の生徒が何人も増えている。しかも可愛らしい女の子が何人もいて、先生に熱い視線を注いでいるではないか。リコは目の前が暗くなった。それでも人生は続いていく。

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