コーヒーが苦かったからなのかな。

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休憩中に彼はコーヒーを飲んでいた。

大学三年生の春休み。遠距離恋愛していた彼氏とは別れちゃったし、アルバイトもしてなくてお金は無かったし、そんな散々な私を見かねてか、友人の千恵子が時給の良い短期のアルバイトを紹介してくれた。
「条件もいいし、かっこいい人も来るかもよ!」
別に彼女の言ったことを真に受けたわけじゃないけれど、この行き詰まった状況をどうにかしたかったし、その話を受けることにした。

アルバイト当日。仕事内容は、イベント会場の案内係だった。そんなに難しい仕事ではない。配られたイベント用Tシャツに着替えて、控室で時間が来るまで待つ。
「お疲れ様です。」
ハスキーボイスの声が聞こえると同時に、一人の男の人が部屋に入ってきた。長身で色白の知的で整った顔。正直めちゃくちゃタイプ。
「お、お疲れ様です」
なるべく平静を装い返す。彼はニコッと笑い、軽く自己紹介をして、その場を去って行った。
仕事中も彼のことが気になって、ちゃんとお客さんに案内出来ていたのかも怪しいぐらい。
休憩時間、思わず彼を探した。彼はコーヒーを飲んでいた。缶を持つ手が綺麗で、目が離せない。どうやら私はどうしようもなく彼に恋をしてしまったようだった。
仕事も終わり、そろそろ帰る頃、また彼とすれ違った。連絡先を聞きたい。そう思ったけれど、初対面だし変に思われるかもと思ったら、結局「お疲れ様です。」と言うのが精一杯だった。

 

それからの数日間、私はあの日のことを激しく後悔した。私はいても立ってもいられず、ダメ元で千恵子に彼の連絡先がわからないか訊ねてみることにした。
偶然にも、千恵子の友達が彼と昔付き合っていたらしくて、その彼女から連絡先を聞くことが出来た。
「あいつはやめといた方がいいと思うけどなぁ。」
その際に彼女はそう言っていたらしいけど、まだ未練でもあるのかな?と深くは考えていなかった。

無事に彼の連絡先を聞けたので、その日のうちに彼にメールを送った。すぐに返信の着信音がなった。
彼は私のことをちゃんと覚えていてくれて、それだけですごく嬉しかった。彼の趣味は音楽で、たまにライブも行ってること。パソコンにも詳しくて、ブログを書いてること、今彼女はいないということ。彼は色々な話をしてくれた。話は盛り上がり、今度友達も交えて会おうということになり、私は千恵子を誘った。

 

その週の金曜日に飲みに行くことになった。前回会った時は、アルバイト中で、あまりおしゃれをしていなかったので、この日は張り切ってちょっとだけ短いスカート。集合場所は焼肉屋。彼おすすめのお店らしい。彼も友達を連れてきていた。
久しぶりに会った彼はやっぱりかっこよかった。
しばらくすると、彼は千恵子に向かって聞いた。
「千恵子ちゃんはあいつと友達なんだよね?」
あいつとは前の彼女のこと。
「あいつと付き合ってる時、浮気がバレて別れちゃったんだよねー。そしたら別れ際にビンタ一発お見舞いされたんだ。」
彼の友人がすかさず「こいつはたくさん武勇伝持ってるからね!」と笑う。
私と千恵子は絶句する。
グッジョブ!彼女!
いや、そうでなくて…。
あれ?初対面の時とだいぶ印象が違うぞ?思わず彼にそう伝えると、彼は「真面目そう?よく言われる!」と笑った。
あぁ。知的イケメンって得だな。
そしてこの日、現在付き合っている彼女がいるってことも知った。

彼らはもう一軒行こうと誘ってくれたけど、とりあえず心を落ち着かせたかった私は、彼らと別れて千恵子とタクシーでの帰った。
タクシーでの帰り道、
「で、どうするの?」と聞かれる。
「うーん。最初とだいぶギャップあってビックリしたけど…とりあえず頑張ってみるよ」
千恵子は驚いて「ギャップって悪い意味じゃなくて?」と言ったけど、必要以上にでしゃばらない彼女は「そっか。」と言って黙った。

もっと彼のことを知ってみたいと思い、数日後、私は今度は二人で会おうと誘った。彼はすぐに承諾してくれた。一応彼女のいる相手なので、万が一何かが起こってはいけないと思い、今度はパンツスタイルで出掛けた。
おしゃれな洋風居酒屋で、二人並んで座りながらたくさん食べて、飲んで、話して、笑った。
二軒目のバーでしばらく飲んだ後、彼は「もう遅いし、家でコーヒー飲んでいかない?」と言った。
「えっ…それって…」
「大丈夫。何もしないから。」
彼は笑ってそう言う。
男のこの言葉を信じてはいけないということを知るのは、もうちょっと先のことだった。

彼の住むアパートへ二人で帰る途中、何だか彼の様子がおかしい。どうやら彼女が何度も彼に電話してきているらしいのだ。
「ちょっとごめん。」
彼はそう言うと、彼女に電話をかけ直す。
「ごめん。彼女が今から家に来るって言うから、近くのカフェでちょっと待ってて。」
仕方なく、私はしばらくカフェで時間を潰すことにした。なかなか彼から連絡が来ない。
「あぁ。なんだかバカみたい。」そう思って「もう帰ろう。」私はそう決めて、彼に電話しようとしたその時、やっと彼からの着信があった。

「もう帰ろうと思ったよ。」
「そう言うと思って、急いで彼女を帰したよ。」
「彼女何だったの?」
「なんか美味しいコーヒー豆が手に入ったとかでやって来た。普通それくらいで来るかね…。」
ため息をつく彼。
「いや、それって他の女連れ込もうとしてるのバレてるんじゃない?」と思ったけど、なんとなく口に出さず「ふーん。」とだけ言っておいた。彼が今夜選んだのは私なのだ。

 

彼の部屋に上がり、しばらく話していると、「お風呂使う?」と聞かれた。
「いや、そんな初めて伺ったお宅でお風呂を借りるなんて図々しいかなと…」と今更何言ってるんだという答えを返す私。
「あ、そう?じゃあ俺だけ入ってくるから、その服パジャマにして。」と、彼のスウェットを渡される。彼の匂いに包まれて、ドキドキしながら彼を待つ。
お風呂から上がってきた彼が、少し電気を落として音楽をかけた。音楽好きな彼なのだ。私の知らない、けれどゆったりとした心地いいジャズだった。暗がりでふと目が合うと、「するしかないよね?」と言って彼は私を抱き寄せた。

 

こういう経験は初めてだったので、少し戸惑ったけれど、それ以上に彼が好きだったので、私は彼を受け入れた。最高に幸せな時間だった。
朝が来て、彼は私を抱き締めておはようと言ってくれた。
彼はキッチンに立ち、「コーヒーいる?」と聞いたけど、「ごめん。コーヒー好きじゃない。」
「じゃあ紅茶でいい?」
「うん」
「砂糖かミルクいる?」
「何も入れないのが好き。」
「俺と一緒。それが紅茶の正しい飲み方なんだよ。」
そう言って笑ってくれた。それだけで、胸の奥がギュッとなる。

帰り際、送ってくれた時に「4月になったら、俺就職だからなかなか会えなくなるかもね」と私より一つ年上の彼は言った。ふと寂しそうな顔をすると、「大丈夫。なるべく頑張って連絡するよ。」そう言ってキスしてくれた。ほんのりとコーヒーの香りがした。

4月になると、ほんとになかなか連絡が取れなくなった。最初のうちは忙しいから仕方ないなと思っていたし、私も就職活動が本格的になってきて、自分のことで精一杯だった。第一志望の会社は最終面接まで行ったけど不採用で、かなり落ち込んだ。気分転換に久しぶりに彼のブログを覗いてみる。
「ライブ決定のお知らせ!

そこにはそう書いてあった。連絡する時間は無かったくせに、ライブの練習する時間はあったんかい!と突っ込みたい衝動をとりあえず抑えて、急いでその日にちをメモして、千恵子に電話した。彼女は「え?まだ続いてたの?」と意外そうな反応だったけど、快く私とライブに行くと約束してくれた。続いてるというか、私が一方的に追いかけてるだけなんだけど、とりあえずそれは黙っておいた。

ライブ当日。ちょっと雰囲気変わったなと思って欲しかったので、前髪をアップしておでこを出したヘアスタイルにしてみた。会場には女の子もたくさんいる。
ステージ上に彼が現れると歓声が起きた。約三ヶ月ぶりに見る彼は、少し痩せて、またかっこよくなっていた。彼はベースを弾いていて、相変わらずその指は綺麗で、私を魅了した。彼の演奏する曲は、知らないものだったけど、あの日聞いた曲と似た、ゆったりとしたジャズのようなもので、やっぱり心地良かった。
ライブが終わり、勇気を出して彼に話しかけた。
「おー!久しぶり!」
相変わらずの屈託の無い笑顔で、私の方を見てくれた。
嬉しくて私も笑顔になる。
軽くお互いの近況報告をし合っていると、背の高い綺麗な女の人がやって来た。
「こんばんは。お友達?」透き通った声で、彼女は聞いた。
「うん。前のバイトで知り合ったんだ。」
彼は特に動じずに答えた。
私は聞いた。
「はじめまして。彼女さんですか?」
彼女は首を振って、笑って答えた。
「いいえ。婚約者です。」
まさかの婚約者。何を言っていいのかわからない私。
「お付き合い長かったんですか?」
なるべく声が裏返らないように聞いた。
「三年ぐらいですね。」
ーかぶっとるやん。
呆然とする私に気付いてか気付かないでか、彼女は会釈して席を立った。
彼は私を見て言った。
「髪型変えたんだね。かわいいよ。」
ーちっとも嬉しくなんかないやい。
落ちるところまで落ちて、泣くことすらできなかった。
季節はもう初夏。蝉がうるさい。今日は日差しが強くて、ちょっと痛いくらいだ。この季節にリクルートスーツは結構しんどい。恋愛に振り回されていた自分を呪う。今日は午前中に筆記試験を終え、午後からは別の会社の面接、その後は大学に戻って、進路相談に乗ってもらうというなかなかのハードスケジュールだ。面接前に少しだけ時間が空いたので、お昼ご飯兼休憩の時間を取ることにした。飲み物が無かったので、自動販売機に行った。ふと彼が好きだったコーヒーが目に入ってしまったので、思わずそれを買って、近くの公園のベンチに座って飲んでみた。
「うぅ。やっぱり苦い。」
コーヒーが苦かったからなのかな。
そう言った私の目からは涙がこぼれていた。

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