コーヒーと桜並木

もうすぐ桜が満開になる。
長い冬を乗り越えて、やっとトレーナー1枚で少し汗ばむくらいの気温になり、ムートンコートを着て凍えながら歩いていた通勤の駅までの徒歩片道20分が、気持ちの良い散歩道になっていった。

 

朝は家の傍のコーヒー店で購入したカフェオレを駅まで歩きながら飲むのが少し贅沢な日課だ。冬の道は辛いが温かいコーヒーに癒され、夏は冷たいコーヒーでリフレッシュしている。

 

3月下旬頃。寒い日もあれば気持ちの良い晴れた日もあり、いつの間にか頼むコーヒーはホットからアイスに変わり、ふとこのアイスカフェオレを見て、ああ季節が正式に変わったんだなと改めて感じて少し切なくなった。

彼と別れたのは丁度1年前。春。
今くらいの気持ちの良い季節だった。

 

私たちは一緒に住んでいて、毎日誰かが家にいる事が嬉しく、幸せなんだと感じていた。
どこへ行くにも一緒で、一人でいる時でさえ彼のことを考えていた。
今思うと私の生活は彼で成り立っていたんだと、少し依存傾向のある自分を恥ずかしくも思ってしまう。

 

一緒に買った家具や食器などもまだ残っている。
彼が好きでまだ捨てられないという訳ではない。別れてしまうと思い出の品物は全て捨ててしまうという女性もいるが、私は捨てることは今までの出来事を否定するという感覚があり、それは許せなかった。
時間が経ち気持ちが慣れてそれが風景として同化していく事を願って、ただそれまでを耐えている。
ただ1年経った今も風景として捉えることは出来ずにいて、これでいいのかと自分でも疑問に思ってしまうのだが、変なポリシーでやっぱり捨てられずにいる。

 

お互いコーヒーが好きで、食後には必ず一緒にコーヒーを飲むのが定番だった。
まだ就職したての私たちには少し高かったけど、毎日のことだしと思い切って買ったコーヒーメーカーもは二人の思い出の象徴のようにキッチンの目立つ場所に置いてあり見るたびにチクチクと胸を刺す。

 

彼と私のコーヒーが好きな理由は一緒だった。
疲れてホッと一息つきたい時。食後や散歩、好きな人と座って話をする。いろんな事のきっかけになるし、何より美味しいコーヒーを飲むと幸せな気持ちになれる。
1年中、季節を通して毎日飲んでいたように思う。
タバコは吸わないのでタバコを吸う人の気持ちはわからないが、似ているような気もする。

 

ある春の日、二人で車でどこかに行こうと何の計画も無しに無鉄砲に飛び出した事がある。
「りかはどこに行きたい」
「うーん、急だし分からないな、どこでもいいけど桜が見たい」
「桜って今咲いてるの、こっちではまだ咲いてないじゃん」彼は少し笑った。
「うーん、でもこないだテレビで琵琶湖のどこかに綺麗な桜並木があるって言っててもうすぐだって言ってたよ」私はかなり曖昧な情報を彼に伝えた。

 

「そうかあ..綺麗だろなあ..」
ぼんやりと携帯で行き先を調べ出した彼は「よし、行こう」と急に積極的になり車を走らせた。
走る事5時間。思い立って飛び出したものの道に何度か迷い結局周辺に着いたのは夕方に近かった。
「りか、ごめんな、結局こんな時間になって…疲れたよね」
「ううん、全然大丈夫だよ、車でドライブしてるだけでも楽しいもん」
本当に楽しかった。
好きな人と個室の中でずっと一緒にあーだのこーだの話しているのは楽しくて時間を忘れる。
好きな人とコーヒーと音楽。最強の組み合わせだ。
これが嫌いな人だったら、最悪だとも思う。

 

目的地に着いた。
あれ、場所間違えてるのかな、と思うほどに殺風景で人もいない。
ただの道でその道を挟むようにまだ何も春の色に染まっていない大きな木が何本もある。
この場所で桜が満開であれば最高のロケーションだろうなという何もない並木通りだった。
地図はあっている。
どうやら場所を間違っているわけでもなく、時期を完全に間違っていたようだ。

 

「・・・ごめん」
何故かまた彼が誤ってきたので、私は訂正した。
私が何も考えず、とっさに行きたいと言った私の責任だ。彼は悪くない。
まあ特に何も考えず大丈夫だろうとお互いの情報を信じ勢い任せに走った二人共が悪いといえば悪いのだが。

 

少しの無言の後、私たちはこの殺風景な場所に5時間もかけて来た事が面白くなってきた。
5時間あれば思いつかないが多分もっと有効な休日を満喫できていたはずの、それくらいの時間だ。
お互いのため何となく笑ってはいけないと思ったが、我慢出来ずほぼ同じタイミングで吹き出した。
「俺ら何しにここまで苦労してきたんだろうな」
「これ…また5時くらいかけて帰るんだよね」
何故か二人とも涙が出るほど笑っている。馬鹿馬鹿しい。悲しいけど面白い。そしてその感情を共有している事に何となく幸せを感じていた。

 

折角だから車を降りて散歩しようという事になり、本来桜並木で人がたくさん賑わっているであろう場所を手をつないで二人きりで歩いた。誰もいないのが逆に贅沢に感じた。
見えるのは琵琶湖。浜辺では地元の中学生らしき少年二人がバットを振って練習している。静かな波の音。これはこれですごく綺麗だ。

少し歩くと一軒少し古い喫茶店があった。
茶色い屋根の看板に、昔ながらの雰囲気が漂い、中を少し覗くと一人の60代くらいのおじさんが一人でカウンターに座りテレビを見ている。
中はアンティークな濃い茶色のテーブルと椅子に、カウンターにはフランス人形のようなものが置かれていた。古い柱時計のようなものも見える。

 

私たちはこの雰囲気のあるお店に興味が湧き、中に入る事にした。
丁度ゆっくりと座ってコーヒーも飲みたかった。

店に入ると優しそうな白髪の髭のおじさんは、少しキョトンとして、若い私達を見て
「いらっしゃい、今日はどうしたの」
と不思議そうに尋ねた。
この時期のまだ桜も咲いていないただの場所に私達のようなお客さんが来る事が珍しかったようだ。

 

彼は少し照れながら事情を話すと、おじさんは笑った。
私達もつられて笑った。
「ここは毎年桜並木の咲く頃は、雑誌やテレビも取り上げるからお客さんも押し寄せて、屋台もいっぱい出てね、まあでもその時期限定だからうちも普段は地元の人ばかりでね」
おじさんは優しい目を細めて笑いながら言った。
「まあ誰もいないしゆっくりして行ってよ」
まだ少し肌寒かったので、私たちはホットコーヒーを2杯頼んだ。

 

おじさんは綺麗なアンティークなカップに上品に入れたコーヒーを持ってきてくれた。
独特の苦くて渋みのある香りでこのお店の雰囲気にぴったりだ。
おじさんはコーヒーを運ぶと、気を使ってくれたのかはわからないが、またカウンターに座り音量を少し下げテレビを見始めた。

 

まだ3月の下旬といえど日によってはコートが欲しいと思うくらいの日もあって、今日はいつもよりも寒く、熱いコーヒーは香りも良く体も温まりホッと安心できた。
味もしっかりとした濃くて深みのある味で、いつもカフェオレでブラックはあまり飲めない私だが、このコーヒーにミルクを入れるのは勿体無いと感じた。

 

私達はこのコーヒーの美味しさや、この店に来れたのが運命だったんだよなどと、
この5時間かけて何もなかったが幸せな1日を大いに楽しんだ。
もう正直桜なんてどうでも良く感じていたし、何よりこれだけ笑い合えたことが嬉しかった。
そしてまた5時間かけて家路に着いた。
この香りとこの喫茶店とおじさんの風景は今でも記憶の中でかなり繊細に思い出すことができる。それほどに何故か強烈な印象があったのだ。

それから暫くしたのち、私達は別れる事になった。
初めはただの小さい喧嘩だったのが、短期間で何故かもう一緒に入れなくなる程の関係になっていた。
もう喧嘩の理由なんていうのは忘れていた。
私達は仲が良かったが、それでも少しずつお互いに我慢する事も多かったので、それが積もりに積もっていたのだと思う。
お互いのことを考えると、離れた方がいいという事になった。
恋愛というものはいつどうなるのか何て本当にわからないものだ。
あれだけずっと永遠に続くのだと思っていた事が少しのきっかけで壊れてしまう。

 

確かな未来や約束というものなど無く、今幸せで大切だというその時の感情こそが確かなのだと思う。
もしかしたらまた付き合えるかもしれないとも思ったが、今はそんな事は考えない方がいい。
考えると何かを期待してしまうのが怖く、別れを決めた。

彼は出て行った。

一人の生活に戻ったが、日常は変わらず、変わってはくれず、また毎日を過ごさなければならない。またあの駅までの徒歩20分を一人で歩かなくてはならない。
彼と別れてから初めての冬はとても寒く、朝は唯一コーヒーの温もりを癒しに頑張るぞっと小声で自分に言い聞かせて歩いた。
二人で歩く事に慣れていた私にはこの20分はとても寂しく過酷な道のりだった。

 

ただこの冬が終わるともうすぐ正式に春が来る。
別れてから1年という変わり目は、私にとっては何かを変えるきっかけだった。
思い出は思い出で、楽しかった、幸せだったのだと気持ちを切り替えて前に進みたい。

そう。季節ももうムートンコートはいらず、トレーナーや羽織のシャツで通勤できるようになった時。
いつもの朝のコーヒーが、ホットからアイスを注文する事で季節が変わったんだと思った瞬間、一年が経ったのだと改めて実感したこの気持ち。
寂しくて切なかったあの気持ちこそが、切り替わるチャンスなのかもしれない。

 

彼とあの喫茶店で飲んだコーヒーも熱いホットだった。
あの時のおじさんの入れてくれたコーヒーの味は永遠に私達は忘れないものになっていると思う。それはこれからどんな人と出会い付き合っていっても、あの味は二人だけのものだ。
それはどれだけ時間が経とうが永遠に変わらない。

 

いつもの通勤道。駅までの道には桜が満開に咲いている。ピンクの美しい花びらが落ち地面にも染まり、日差しも差し暖かい。
ああ、もう毎日熱いコーヒーを飲まなくなるのか、と冷たいカフェオレに口をつけながら、今日も思いを巡らせて歩いている。

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