コーヒーに恋した国

一杯の コーヒーから
夢の花咲く こともある
町のテラスの 夕暮に
二人の 胸の灯が
ちらりほらりと つきました

一杯の コーヒーから
モカの姫君 ジャバ娘
歌は南の セレナーデ
あなたとふたり 朗らかに
肩をならべて 歌いましょ

一杯の コーヒーから
夢はほのかに 香ります
赤い模様の アラベスク
あそこの窓の カーテンが
ゆらりゆらりと ゆれてます

一杯の コーヒーから
小鳥さえずる 春も来る
今宵ふたりの ほろにがさ
角砂糖二つ 入れましょか
月の出ぬ間に 冷えぬ間に

 

以上、紹介しましたのは昭和14年の大ヒット曲である「一杯のコーヒーから」という歌の歌詞全文になります。

 

今回紹介していくフランスという国は、上記の「一杯のコーヒーから」にもあるように「コーヒーに恋した国」と言えるようです。
フランスという国がどのようにしてコーヒーと出会い、そしてその想いを募らせ、独自の飲用文化を築いていったのかについて歴史上の出来事と一緒に紹介していきたいと思います。

 

1669年オスマン・トルコの特使であったソリモン・アガという人物がパリへと派遣され、ブルボン王朝・ルイ14世に謁見されました。
謁見する時に1杯のコーヒーを王へと献上したのですが、王はその芳ばしい「トルコ式のコーヒー」に瞬く間に心を奪われてしまったとされています。

 

アガの屋敷にはトルコ風の家具調度品や東洋磁器があしらわれており、屋敷へと招かれた上流階級の人達は初めて目にするトルコ風の髪型や服をもてはやすとともに、「アルコールとは異なる魅力を秘めた飲み物」に心も体も陶酔したそうです。
アガがコーヒーを献上した後には、フランスの各街でカフェが誕生していき人々が気軽にコーヒーを飲める場所が得られるようになっていきました。
アガが行った「喫茶外交」が、今現在も相思相愛となっているフランスとコーヒーの「運命的な出会い」となりました。

 

植民地におけるコーヒー栽培を軌道に乗せていたのは、オランダの方が先でフランスよりも半世紀も早いものでした。
しかし、当時のコーヒー市場は主に原産地に精通したアラブの商人たちが独占していた為、貴族等の特権階級の人々でさえも、コーヒー豆の入手はそんなに簡単にいくものではありませんでした。
そんな状況もあり、フランスは植民地でのコーヒー栽培へと踏み出すことを考えるようになりました。

 

1714年にオランダ・アムステルダムの市長からルイ14世宛てに1本のコーヒーの苗木が贈られました。
パリの植物園でとても大切に育てられたこの苗木を足がかりにして、フランスは西インド諸島・カリブ海の島々といった植民地におけるコーヒー栽培へと
夢を託していきました。

その先駆けの一人であり、今もその功績を讃えられているのがフランスの軍人であったド・クリュー大佐です。
1720年植物園から苗木を貰い受けたド・クリュー大佐は、フランス領マルティニーク島へ移植を試みるのですが、海賊に襲われてしまい失敗に終わってしまいました。

 
それから3年後、自分の分の飲み水でさえも与えながら苗木を守り、厳しい航海を乗り越えた末にようやく移植を成功させました。
この1本の苗木からはじまったマルティニーク島でのコーヒー栽培は、1740年代に入るとその数を1,900万本を数えるまでに成長し、豊かな実りをもたらしてくれました。

 

その後、更にフランスが西インド諸島でのコーヒー栽培を推し進めていった結果、1791年にはフランス領ハイチ島のコーヒー生産量がヨーロッパやアメリカのコーヒー需要の何と50%をまかなうまでになりました。この結果は驚異的と言え、フランスのコーヒーに対する想いの深さが感じられます。
また同じ年のハイチ島ではコーヒーには欠かすことのできない砂糖も世界消費のおよそ40%にあたる量を生産したという記録が残っています。
マルティニーク島を拠点としてその後、ジャマイカや南米へとコーヒーの栽培地は拡大していきました。

 

ここで少し「フランス」と「コーヒー」をキーワードにしたエピソードを1つ紹介したいと思います。
ある日マルティニーク島の老婆が、この島で生まれた娘にコーヒー占いを行い娘に対してこういいました。
「あんたはファンファーレが鳴り響く男の妻となるだろう。80年も人を占ってきたがあんたのように数奇な運命は初めてだよ。」
その少女の名前はジョセフィーヌといい、彼女はその後、占いの通りにパリで皇帝ナポレオンの皇后となりました。

パリの街角にカフェが並ぶようになり、貴族社会だけに限らず庶民の暮らしの中にもコーヒーは深く根付いていくことになりました。
フランス流のコーヒーと言って直ぐに思い浮かぶ1杯に「カフェ・オ・レ」があります。
18世紀の後半以降になってくると、朝搾りたての牛乳が各家庭へと届けられるようになります。コーヒーに牛乳、砂糖、蜂蜜等を加えて作る質素でありながらも栄養価の高いカフェ・オ・レは庶民の朝の食卓に欠かす事のできない存在として定着するようになりました。

最近カフェでも見かけるようになった「ベトナム式コーヒー」は、コンデンスミルクを入れたグラスの縁にセットしてコーヒーを抽出するのですが、この器具もフランスの統治下時代にベトナムへと伝えられたものです。新鮮な牛乳が確保しにくいベトナムにおいて、
常温保存が可能なコンデンスミルクを用いたこの飲み方は「ベトナム風カフェ・オ・レ」とも言えます。
また、エスプレッソ・コーヒーを注ぐ小ぶりのカップを「デミ・タス」と呼ぶのですが、DEMIとは半分の、TASSEとはカップを意味するフランス語になっています。
このように私達の身近な所にも、フランスのコーヒー文化の影響を受けているものが沢山あります。

フランスというフィルターを通して覗き込んだコーヒーの世界には、コーヒーに対して情熱を注ぎ込んだ人達が織りなすドラマが描かれていました。
原産国であるエチオピアを旅立ったコーヒーは、現在では50カ国以上の国々で栽培され、数え切れないほど多くの国の人達がコーヒーのある生活を楽しんでいます。
もはや国籍を失ってしまったと言っても過言ではないくらいのコーヒーという飲み物は、単なる美味しさという次元を超えて、飲んだ全ての人達に幸せの香りを届けているのかもしれません。

さぁ皆さんは今、どういう想いを抱いてコーヒーを飲んでいるのでしょう。

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