コーヒーのお兄さん

私がコーヒーをよく飲むようになったのは23歳の頃でした。その頃ネイリスト2年目だった私は、講師試験を受けるために毎晩営業終了後のサロンで実技試験の練習をしていました。
営業終了後と練習の間の少しの休憩時間に、近くのチェーンのコーヒーショップに行ってあったかいラテを買って飲むようになりました。それが私の晩御飯代わりであり、ほっと一息つける瞬間でした。
毎晩コーヒーショップに通ううちに自然とスタッフさんとも顔見知りになり、そのスタッフさんの1人が彼でした。
彼は当時28歳で私の5つ上でした。いつもにこにこしていて、ラテを作っている間話しかけてくれました。人見知りな私も少しずつ話せるようになっていきました。
最初はただの「優しいコーヒーのお兄さん」とだけ思っていました。
当時私には4年間付き合っていて、一緒に暮らしている彼氏がいました。ただ、長く付き合っていく中で彼に対する不満や諦めが募っていて、もはや恋愛感情はなく、惰性で付き合っていました。ひどい言い方ですが、家賃を半分払ってくれる同居人という感じです。私はネイリストになってから毎日頭の中はネイルのこと、サロンの仕事のことや試験のことばかり。自分のことで精一杯で、もう彼氏のことが頭の中から消えていました。誰かを好きになったり、ときめいたりなんてもう何年も感じたことのない感情でした。
でも、ある日気付いたのです。ラテを買いに行くとき、「今日はあのお兄さんいるかな」と思っている自分に。そして、お兄さんがいないとがっかりしている自分に。
いつの間にかラテを買いに行くことより、お兄さんに会えることの方が楽しみになっていました。
そしてとある休日の夕方。休みを使ってサロンで練習をした後、なんとなくいつものコーヒーショップへ行きました。するとその日はあのお兄さんがいました。
「今日は私服なんですね。お休みなんですか?」と話しかけてくれました。
「そうなんです。練習帰りです。」
「そうなんですね。僕、今日はもうすぐ上がりなんですよ。」
「あ、そうなんですか!」
「もしよかったら、ご飯でもどうですか?」
「……!え!え、い、行きます!」
「まじですか!じゃあ着替えてくるので少し待っててもらってもいいですか?」
こんな感じのやりとりでした。
こんなことってある?!突然すぎて頭の中が真っ白で、心臓がバクバクしていました。
ラテを飲みながら待っていると、
「お待たせしました!こんなことになると思ってなくて適当な服着ててすみません…。」というお兄さん。
とんでもない。初めて見るお兄さんの私服は私のどストライクで、とてもかっこよかったのです。ますます緊張していく私…。
そして、お兄さんのおすすめのお店に連れて行ってくれました。
そこでお互いの話をしました。私達はきちんとお互いの名前も知らず、まずは自己紹介から。職場のみんなにはこう呼ばれてるとか、住んでる場所はどこか、この仕事に就く前は何をしていたか、家族構成や血液型…。そして、アドレスと番号を交換しました。
夢のようでした。
彼にはお付き合いしている彼女はいないようでした。
私は正直に言いました。一緒に暮らしている彼氏がいること。
お兄さんと一緒にご飯に行けるなんて最初で最期だと思ったし、嘘をつくのも変だと思ったので…。でも、「でも、本当はもう恋愛感情はない」とは言いませんでした。
お兄さんは実家暮らしで、私の住む駅より5つほど先の駅に住んでいるといいました。途中まで同じ電車だねと。
ご飯を食べて駅に向かっていると、
「俺の家まで行けば車があるから、それでもよかったらちょっとドライブでもする?」というお兄さん。
「ドライブしたいです!」
「よし!じゃあ一緒に車取りに行ってドライブしよう!」
まだ一緒にいれる!嬉しい!私はそんな気持ちでいっぱいでした。
一緒にお兄さんの最寄り駅まで電車に乗って車を取りに行き、ドライブをしました。
とても楽しい時間でした。でも、時間が経つにつれ、この楽しい時間が終わりに近づいていっているんだと思いました。私はもう完全にお兄さんのことが好きになっていました。
私達はその夜、1度だけキスをしました。

 

でも、私には彼氏がいる。中途半端は嫌だ。
お兄さんに送ってもらい家に帰ると彼氏が漫画を読んでいました。
「おかえりー。」
「…ただいま。….あのさ、別れたい。」
「………………….は?」きょとんとする彼。
「もう別れたい。これ以上付き合っていくのは無理やと思う…。私、好きな人ができた。」
「…….まじで言ってんの?」
「……うん。」
「…ちょっと1人で考えてくるわ。」そう言って彼は朝まで帰ってきませんでした。

彼氏の立場になって考えてみると、私のこの突然の別れたい宣言は寝耳に水で、とにかく驚いたと思います。
私は思い立ったらすぐ行動、というタイプで、こうと思ったらアクションを起こさないと気が済まないのです。
私はお兄さんを好きになってしまった。だから彼氏と別れたい。お兄さんと今後付き合えるのかは分からなかったけど、彼氏と別れて、お兄さんを好きだと堂々と言える自分になりたかったのです。自分勝手な考えですね。
結局次の日からは毎日別れ話が続きました。私は別れたい、彼氏は別れたくない。
それでも毎日仕事に行き、仕事の後は練習をして終電で帰る。そして家に帰ると別れ話。

 

お兄さんには、彼氏に別れたいと言った。とだけ言っていました。
何度かラテを買いに行きましたが、いつものようにたわいもないスタッフと客としての会話。
あとでこっそり、「彼氏とのことがスッキリしたら、またドライブに行こう」とメールが来ました。

そして結局1ヶ月ほどたった頃、彼氏が部屋を見つけて出ていきました。
寂しさはありませんでした。

そしてお兄さんに彼氏と別れたことを伝え、ドライブに行き、私達は正式に付き合うことになりました。

 

コーヒーショップのスタッフには付き合っていることは内緒だったので、ラテを買いに行ってもいつもの客のふり。
それが新鮮でとても楽しい。
同じ電車で帰って私の家でご飯を食べたり、休日にはドライブしたり。
私にコーヒー豆の種類やおいしいコーヒーの淹れ方を教えてくれたのも彼でした。
コーヒーショップではいつもラテを飲む私ですが、家では彼の教えてくれたようにコーヒーを淹れる練習をして飲むようになりました。

私はその間も試験の練習に励み、3か月後に無事試験に合格しました。その時も彼がお祝いしてくれたのです。

でも私達の付き合いは長くは続かなかったのです。
1年ほどたった頃から連絡が減り出し、たまに会ったとき、彼の車の中で女性のヘアピンを見つけたこともありました。
彼に他に好きな人が出来たようでした。

でも私は何も言えませんでした。
私は1年前に元彼に同じことをしたのだから。
お兄さんのことが大好きだったけど、もう私のことを見ていないお兄さんを見ているのも辛かった。

私達は別れました。
「でも、ラテはいつでも買いに来て。」
「うん。そうするね。」

それから3年間、たまにでしたが、私はいつもどおりラテを買いに行きました。
お兄さんもいつも通りラテを作って、たわいもない会話をして。
ただのスタッフと客として。

そして私はサロンを辞めて独立することになりました。
辞める最後の日にコーヒーショップへ行くと、お兄さんがいました。
「今日で辞めるので、もうここには来れなくなると思います。」
「そうなんですか。僕も異動になって、もうすぐ別の店舗へ行くんです。」
「そうなんですね。最後にお兄さんのラテが飲めてよかったです。がんばってください。」
「はい。お互いがんばりましょう!」

それから1度もお兄さんには会っていません。
今でもそのチェーンのコーヒーショップでラテを飲むことがありますが、あのコーヒーのいい香りを嗅ぐたびに、何か甘酸っぱいような、ほろ苦いような、でもふっと微笑むような、そんな気持ちが私の中にふわっとよぎるのです。

私にとって彼は元彼というくくりではありません。

私にコーヒーを教えてくれたお兄さん。

今でも私の中で彼はコーヒーのお兄さんとして思い出に残っているのです。

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