コーヒーの香りをまとった彼

感情を揺さぶる香りが私の歩く足をふと止めさせた。通り過ぎようとしたその店は隠れ家のように外壁を植物に覆われ、落ち着いた赤色のドアから薄暗い明かりを漏らしてひっそりとそこに存在していた。そう、私の感情に訴えかけてきた香りは華やかなコーヒーの香りだった。

無意識に店のドアを押し中へ入っていた。鼻からめいっぱいコーヒーの香りを吸い込み目を閉じていた。そうやって昔の記憶を手繰り寄せ波風たった私の心を落ち着かせようとした。

「いらっしゃい」
ふいに落ち着いた男の声が聞こえた。
「あ、すみません。」
「なんで謝ってるんですか?」
と男は優しい笑顔で柔らかく笑いどこの席にされますかと訪ねてきた。
周りを見渡すと客は私だけだった。
「カウンター席でお願いします。」
「よかった。嫌われてなくて。あの1番奥のテーブルでって言われたらなんか寂しいなと思って。」
2人で軽く笑った。

もう一度軽く鼻から香りを吸い確認した。
「いい香り このコーヒー豆はなんですか?」
「コロンビアですよ 華やかな香りでしょう?飲みやすくてオススメですよ。」
「それでお願いします。生クリームをのせてください。あれ、美味しくて好きなんです。」
「かしこまりました。」

そうだ コロンビアだった。一気に昔の記憶が鮮やかに蘇ってきた。彼はコーヒーが好きで人一倍こだわりをもち私にいつもうんちくを語っていた。得意げに話す彼の口調や表情は嫌なものではなく私はそれを聞きながらほほえましく笑っていた。彼が私に初めててすすめてくれたのはコロンビアコーヒーだった。
「コーヒー初心者のおまえにはこれをすすめる。」
「私は初心者じゃない。店に入ればコーヒーを註文して飲んでるし。」
「じゃあ何を註文してるん?」
「えっ?ホットコーヒー1つって。」
「ほらほら初心者。こんなにたくさんの個性がそろってたら興味を持って選ぼうと思わんの?これを飲んで感想を俺に聞かせてよ。」

「めんどくさい男~」なんて言いながらカップを口に近づけるとふわっと華やかな香りがした。一口飲んでみる。
「あっおいしい。飲みやすいね。」
「え?感想はそれだけ?お前食レポできない奴だな。これは甘みやコクや苦みのバランスがいいマイルドな味のコーヒーなんだよ。」
「あっでも私には苦いかも。」と彼の言葉を遮った。
「すまんマスター、ウインナーに今からできる?」
ウインナー?と言葉の意味がわからず目を丸くしていた私の飲みかけのコーヒーの上に白くてきれいなふんわりした生クリームホイップが付け足された。
「何これ、デザート?おいしい!私これ気に入ったな。」
「甘味と苦味のコラボレーション最高だろ?」
そう得意げに笑った彼の顔が鮮明に蘇ってきた。

彼とはよく気が合った。私は大学生で彼は4つ上の社会人だった。友人の紹介で知り合うことになったのだが初めて会った彼はふんわりとコーヒーの香りをまとっていたのをはっきり覚えている。
香水の魅惑的な香りでもなくコーヒーのおいしそうな香りが気さくで爽やかな印象の彼にとても似合っていた。
「お気に入りのコーヒーショップがあってさ、さっきまでそこで本読んでたんだ。今度一緒に行こうよ。とっても居心地がいいから」

それからはデートをする度に必ずコーヒーショップに立ち寄り一緒にコーヒーを飲んではマスターも交えて談笑したり彼のうんちく話を聞くのがお決まりだった。私はその和やかで平和な空気が好きだった。いつまでも続く時間だと思い込んでいた。

付き合い初めて1年後私は東京での就職が決まり地元を離れる事になった。彼にはその事でずっと相談していたがひとつも反対はされなかった。彼とは遠距離になってしまう。しかしお互いに干渉し合う関係ではなくそれが二人にとってはとてもいい距離感でのつきあいだったのだ。そんな付き合いを続けてきたので私にとっては遠距離はさほどネガティブな事とはとらえていなかった。お互いがお互いを必要としている。私達は口に出さなくても心でつながっているんだ。そんな素敵な関係なんだ。

東京へ発つ日も彼と例のお気に入りのコーヒーショップで楽しく談笑した。
「なるべく帰ってくるようにするね。連絡できる時はするから。」
「お前の性格だったらほとんど連絡よこさないだろうな、まめじゃないし。まぁ、無理はするなよ。お前なら頼もしく向こうでも楽しくやれるだろう。俺もこの店で気分転換してぼちぼち自分の仕事頑張るわ。」

向こうでの暮らしは楽しかった。仕事で多少の嫌な事があっても彼の言うとおり頼もしくきりぬけて暮らしていた。ある日の休日の朝、宅急便が届いた。彼からだった。中を開けるとコーヒーミルと彼こだわりのコーヒー豆が入っていた。そういえば楽しみにしとけよって言ってたなと思い出した。
コーヒーに疎かった私も彼のうんちくに付き合っていると自然においしいコーヒーの煎れ方をマスターしていたのだ。だがコーヒーの種類はさほど覚えていなかったりする。ゆっくりコーヒー豆を挽くと華やかな香りがふわっと香った。いい香り。休日の朝に飲む煎れたてのコーヒーの味は格別だった。うんちくを側で聞けないのが残念なところだ。コーヒー豆が入った袋の裏の表記を見るとコロンビアと書いてあった。うんちくが聞けないので何気なくスマホで検索してみる。ああそういえば彼が私にはじめておすすめしてきたコーヒーだったな。懐かしいや。

ある日久しぶりに連絡をした時彼の様子がおかしかった。あの陽気にうんちくを語る彼ではなくなっていた。私がまめに連絡をいれない間にいったい何が起こってしまったんだろう。彼には明らかに覇気がなかった。こちらの問いかけにも生返事しか返ってこないのだ。私はすごく動揺してしまった。とりあえずまた連絡するとだけ伝えて電話を切った。私はすぐにあのコーヒーショップのマスターに連絡をいれていた。

「彼は鬱病を患っているんだよ。ここ最近店にも顔を出してくれなくなってて心配してるんだ。」
「半年前に今の部署に異動になって彼は毎日激務をこなしていたみたいなんだけど彼の心の限界を超えてしまったんだろうね。店に顔を出しても思いつめた顔をしてずっとカップの中のコーヒーを見つめてるんだ。彼から話しかけてくる以外はそっとしてあげることに決めて様子を見守ってたんだけど。彼はしばらくすると店に来なくなったよ。」

私は知らなかった。彼から届いたメールで部署が移動になった事や仕事疲れるわーって言ってたのは知っていたがそんな思いつめた状態になっていたなんて知らなかった。いや、私は自分の事ばっかりで彼の事を気にかけていなかった。知ろうとしていなかったのだ。私達は心でつながっている、お互い干渉しない素敵な距離感の付き合いができるカップルなんだ。彼から連絡が来ないのも元気でやっている証拠なんだ。そう思いたかった。私は激しく自分を責めて動揺した。

それからはまめに連絡をするようになった。ベルが10回なり諦めたタイミングで彼はいつも電話に出た。電話に出るにも億劫な状態なんだろう。しかし彼は電話に出てこちらの問いかけに小さくうなずく声を出した。出てくれるだけマシだ。彼はいったいこんな私をどう思っているのだろう?今でも彼女として認めてくれているんだろうか?この電話も迷惑だと感じているのかもしれない。電話する度にいろんな不安がよぎった。いつも肝心の言葉が出てこない。喉元で言おうとしても飲み込んでしまう。私達は心でつながった素敵なカップルなんだ。こんな逆境も乗り越えられるんだ。
思い切って口にした。
「ごめんなさい。あなたがこんな辛い事になっていたのも知らなくて。こんな彼女でも一緒にまたコーヒー飲みに行けるよね?あなたのおすすめがまた飲みたい。」
長い沈黙が続いた後に「もう無理だわ。お前とは将来を思い描けない。」電話は切られた。
彼の言葉が私の自分勝手な心に鋭く突き刺さった。それから再び連絡する勇気はなく彼との関係は3年で終わった。これで二度とコーヒーのうんちくも聞けなくなった瞬間だった。それと同時に私にとってコーヒーは自分の未熟さを思い知らされる辛く苦い思い出の物となった。

はっと我に返ると目の前にはおいしそうなウインナーコーヒーがゆるやかに湯気をたて自分の心を洗浄してくれるような癒しに溢れた香りを漂わせていた。
ふと、カウンターの中にいる店主の男と目が合った。彼は優しい口調で話し始めた。
「コーヒーの香りを嗅ぐと人は周囲に優しくなれるそうです。香りは人をリラックスさせ癒しを与えます。アロマ効果ですね。」
「ある人を思い出してしまって。ぼーっとして恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
「プルースト効果っていわれるもので人は香りでその時の記憶や感情が蘇るんですよ。五感の中の嗅覚で思い出される記憶はより鮮明で感情的なものなのです。においの記憶は視覚的な記憶に比べて色あせないそうです。特に喜怒哀楽や恋愛感情に絡んだにおいの記憶はね。」
見透かされている気分だった。この店主は私の表情から何か感じ取ったのだろう。

一口、二口とコーヒーの味を確かめながら味わう。甘味と苦味のコラボレーション。そう彼は得意げに言っていたっけ。あれから2年近くがたつが彼はどうしているんだろう。昔の明るくうんちく話をしていた彼に戻れているのかな。彼は私を必要としていなかったという事か。彼は私に助けを求めてくれなかった。彼を受け止める心を持ち合わせていないと判断されていたのか。私はお互いに干渉しないなんて都合のよい言い訳をしていたのだ。私は自分の事ばかりで彼を助ける縄を投げかけずのうのうと楽しく暮らしていたのだ。そんな女との将来を思い描ける男がどこにいるのだ。彼が放った一言はもっともなのだ。いろんな思いがまた駆け巡った。でも私はあの和やかで平和な空気の中で再び彼とコーヒーを味わいたい。あの幸せだった時間を取り戻したい。

最後の一滴を飲み干すとネガティブな感情がすーっと抜けて行った。
やり直せる気がする。今更だけど。将来を思い描けないと彼は言ったが私には思い描ける。私には彼が必要なんだ。私が全て受け入れて彼を支えていきたい。今の気持ちにウソはない。迷惑がられるだろう。でもこのままこのコーヒーの香りで辛い気持ちを引きずりたくないのだ。これも自分勝手な考えかもしれないが今後はこの香りを二人で楽しい幸せな香りを思い出させるものにしたいんだ。」

「おいしかったです。この香りが本当に好きです。またお邪魔します。」
そう告げて店を出た私の足取りは軽かった。物置に直しこんでいたコーヒーミルを引っ張り出してコーヒーを淹れよう。そうだ新しい豆を買いに行かなきゃ。コーヒーを飲んだらさあ、彼に連絡しよう。

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