モカにつられて

カーテンからうっすら漏れるひかり。夜のうちに着いた寝癖に手を伸ばし、カーテンを開ける。いい天気だ。
こうしてまた今日も、なんの変哲もない一日が始まる。ただ、少し違うことは、やけに目覚めが気持ち良くて。いつもなら、正午を過ぎてから目を覚ます休日だが、まだ時計は十時を過ぎたくらいだった。スケジュール帳は、最近忙しい日々を過ごしていたせいで、何も記しておらず。今回の休日はなんの予定もなかったのを覚えている。そうだ。今日はどこへ行こう。という気の向くままの日も久しぶりだ。
ふと思い出したかのように、あれに行きたい。あれ、とは、大好きなあの人の作品。あの人の作品が飾っているという噂を数日前に仕入れておいていた。あれが見たい。でも、あれを見るには、場所が少し遠くて。普段はなかなか行けないところだ。
あれを見るためになら、時間など惜しまず必ず見に行くのが、私のポリシーだ。あの人には恩がある。だからこそ、今がタイミングなんだ。そうと決まったら、早速支度をしなくちゃ。街から離れた、ちょっと向こうの、あのカフェへ行こう。
さらに目を覚ますためにシャワーを浴び、その瞬間もふと考える。今日は、一体どんなトキメキを与えてくれるのだろうか。あの人の作る物はとても素敵な物ばかり。一つ一つが手作りで、一つとして同じ物がない。まるで誰かに宛てて作られたかのような。作品から溢れ出す、あの人の暖かさと。そして、思い浮かべる、出会ってから今までのこと。全てが虜にしてくれるのだ。シャワーのカランを回し、水を止め、髪から滴る余計な水分を手で流していく。気持ちはもう、雲の上にいるような気分で。

 

そのまま脱衣所に行き、体から垂れ流れる水を、柔軟剤の香りと、ほのかに太陽の匂いが染み付いたタオルで、ドライしていく。髪を乾かし、化粧は目立たず、しかし品が感じる程度に仕上げる。服装も、今日は休日といえど世間は平日なので、それに伴う格好をまとい。趣味の一貫として買っていたが、最近の繁忙により活躍出来ていなかったデジカメを忘れずにカバンにしまう。
まだ少し肌寒い三月ではあるが、今日は天気も良いので、連日のこもり切った部屋に外の空気を吸い込ませた。雲一つない空を見上げ、私も深呼吸する。今日は、本当に気分が良い。最後に鏡を見て、私は家の扉を閉めた。

 

カフェの場所は、路面電車がすぐ正面を横切るようなところである。電車という交通手段もあったが、あえて自転車を選んだ。今日行く場所は、行ったことのない土地。まだニットとコートが手放せない時期ではあるのだが、天候も最高なので、散歩がてらのサイクリングがよく似合う。用意していた手袋をはめようか悩んだが、今日は不要なようだった。
自転車にまたがりペダルを踏み込む。右に一回、左に一回、そしてまた一回、また一回。平日だというのに、ランチタイムと重なり、人がそれなりに歩いている近所。そんな光景が、なぜか懐かしく感じる。追い越す人々も、今は休憩という最高の時間なのだ。皆んな腹を空かせ、仕事の合間のちょっとした時間を目一杯太陽に照らされようと、外に出たい、と。そう思えた。
さらにペダルを踏み込む。普段あまり通らない道。通り過ぎるたびに、ご飯屋さんからは、美味しそうな何かの匂いが漂う。
坂を登りきると、もっと太陽に近づいた気がした。目の前に広がるのは、買い出しでもしているのかな、とか、ママチャリを必死に漕いでいるお母さんとか、作業服を着ている人、またはスマホ片手に早足で歩く営業マンだったり。普段なら見ることのなくなった他人の騒々しさ。それもまた心地良い。
さらに車輪が加速する。下り坂の中、風の抵抗で顔が歪む。排気ガスのにがい味が口に入る。普段、嗜むタバコとどちらが体に悪いのか。そんなことを考える。禁煙は長くて一年半しか続けられなかった。そっからは、吸ったりやめたりの繰り返し。いつになったらまたやめられるのか、それは誰にも分からない。自分で決めることだ。自分がやめたかったらやめたらいいし、やめたくなかったらやめなくていい。そんなことも頭によぎるのは、今日が休日だからだ。そんなにがさも、共にしてきて今がある。
この街の良いところも悪いところも含め、行き交う人々、全てが知人でもなんでもない。困った人に差し伸べることのない手ですらも、皆何かを思い生きている。そんな街。だけども、そんな中でも、私は私なりの生き方で生きてみよう。そう思えた時に出会ったのがあの人の作品なのだ。

 

あの人の作品にかかった息吹が、私の、この生活を変えてくれた。それは、変容だったといえるだろう。その変容の時期に、分かったからこそ出会えたものだ。もし、分かっていなければ、今も、その端正に仕上げられた繊細なラインが素晴らしいと気づくことは出来なかった。
あの人の作品の特徴はラインである。手書きにも関わらず、ブレのないその線からは、今の私の教科書とも思えた。心が真っ直ぐを望んだ。子供の頃の純粋さとか、表裏のなさだとか、そんな一見未熟な感じがするあの人の作品。それが私の魂を震わせた。次第に、あの人と出会い、会うたびに歓迎され、声をかけて頂いた。私の気持ちはさらにあの人に攫われてしまった。この街では感じることのなかった暖かさ。あの人が持っていたし、あの人の周りも持っていた。

目を疑ったのも束の間。今までの、この場所で起こってきた悔しさや、悲しみ、不安を全て取り除いてくれたのだ。自由に生きるあの人と対極的な私。何かに取り憑かれていたかのように、しがみついていたものが、本当に必要なものだったのか。今となってはそれが分かる。この世の素晴らしさに目を向けた瞬間だった。

それから、私は生活を見直し、出来るだけ、自分の好きだと思う時間に専念した。だって、これは私の人生だから。私のしたい事をする。それが私の今の目標なのだ。しかし、その目標もなかなか上手くいくものでもなく、昨夜は締め切りに終われ、なんとか仕上げて寝た次第。でも、それもまた今日、こうして追いかけているくらいだから、そんな事も乗り越えるのは容易く感じる。早く、早くと、焦る気持ちと、せっかくの風景をもっと見ていたいという気持ちを葛藤させながら、私はさらに先に進んでいった。
歩道橋を抜けると、街の雰囲気がガラッと変わる交差点。錆びたシャッターが目立つ街並みまで進んだ。でも、まだ半分しか進んでいない。ここを越えてからは、未開拓の地だ。ペダルを漕ぐ足がだんだんと減速していく。ちょっと疲れた。でも、不思議な感覚に溺れていく。

 

自転車は、人一人通れるくらいの狭い路地に入る。近所を犬と散歩中のおばあちゃんとすれ違う。春の芽吹きを感じるように、菫(スミレ)が咲き乱れる。そして、線路があの人との距離を少しずつ近づけてくれる道しるべ。どれも、この街の知らない表情。こんな場所があったなんて、と息を呑んだ。ああ、なんて素晴らしいんだろう。
また、少しだけ広い道路に出ると、カンカンカンと、踏切が鳴り出した。ここまで来たら、あと目と鼻の先にカフェはある。路面電車がカタンコトンと鳴るリズムに合わせて、私も最後までペダルを踏み込む。胸のリズムも、それに合わせて踊り始める。電車が通りすぎて、公園を横目で追い抜き、長かったサイクリングがとうとう終わった。辺りには、焙煎された挽きたてのフレッシュな香りが、客、一人一人を丁寧に迎え入れるかのように充満していた。

 

まだ開店して間もない、真新しい店内に入る。昼食用のサンドウィッチと、あと、今日はカフェモカにしよう。店員に注文を言い、会計を済ます。
店内に置かれたウッドカウンター。その真上に、その横に、プラントの植木鉢のペイントだって。あの人の作品が全て目に入るくらい、ちょっと小さめな店内。そこに、ペットとして飼っているトイプードルが、ワンと吠え、私に近づいてくる。そして、出入口や、すでにくつろいでいる客のところを行ったり来たり、走り回る。小洒落たカラフルな家具に囲まれ、なんとなく恥じらってみた。初めて来た場所なのに、なぜか新鮮さとかはない。

 

あの人がいた形跡があるからか、それともただ頑なに気取っているのか。いや、なんて言ったって、あの人の作品があるのだから。ほら、また歓迎してくれている。やっぱり、あの人の魅力は計り知れない。
上半身が見えるくらいのオープンな厨房から、店員のおじさんが注文したものを運んできた。エスプレッソとほんのり甘さが混ざった、とってもシンプルな香り。そして、とろけるくらいのベーコンとチーズ。それにトマトとレタスを挟み込んだ、華やかな彩りのサンドウィッチ。マスタードのスパイシーな香りが鼻をそそのかす。今日は起きてから何も口にしていなかったので、思わず口内で唾が出始めた。美味しそう。その一言に尽きる。
思えば、始めの衝撃もこんな感じであった。
私は、アートは好きでいたのだが、アートに関してはなんの興味も示さなかった。ただ、なんとなく好き。なんで好きなのか、そんな事を考えたこともなかった。まるで、この間までのルーティンを繰り返す日々のように。理由なんてなかった。この街を選んだとこも、この街で出会う人々も、この街での日々も。私には意味のあるようで、意味のないものばかりだった。
ただ、仕事をするために。ただ、目の前にいるから。ただ、過ぎてゆくから。
好き、という気持ちがよくわからなかったのかもしれない。全否定はしないが、今思えばもっと選択肢があったはずだ。そんな後悔じみた気持ちでいて、必死になって考えた。

 

私は何が好きで、何を求めて、何か出来たことがあったのだろうか。なぜ、今ここにいるのか。なにが楽しくて生きているのだろうか。社会という波に飲まれ、大切なものを忘れかけていたのではないか。複雑なものに囲まれ、複雑な感情を抱きながら、日々を送ることほど非情な時間はないだろう。それから、好きだという感情を心に秘めていることを辞めた。

 
そして、間もなくして出会ったあの人の作品。その時の衝撃と、照らし合わせる。そうだ。私は、これを求めていた。これが好き、なのだ。だから、私は追いかけるのだ、どこまでも。
残っていたカフェモカを全て飲み干す。私の心を満たしていく。ありがとうございました。ごちそうさまでした。そんな言葉を言える人間になりたい。ただし、それを分かっている人間にしか、言葉は届かなくて。
店をあとにした。肌寒い空気が私を包みこむが、今は温まった体が、そんなことをこれっぽっちも感じさせない。

まだ見たこともない暖かさが広がる三月。迷いや戸惑いは冬という季節を越えた。寒さを耐え忍び、悦びの春がもうすぐ訪れる。好きという気持ちを胸から覗かせ、向かう先々。その道は限りなく真っ直ぐと見えている。そう、確信がある。どんなに冷たい空気でも、ここはやけに暖かい。
今日飲んだカフェモカは、そんな、この街の味がした。

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