レンズの向こう

カシャと音が響いて僕のスマートフォンの画面いっぱいに繊細なラテアートが浮かび上がる。平日の夜8時半。ここは大通り沿いにあるコーヒースタンド。「だいぶ寒くなりましたよね」と小さなカウンターの向こうから声がかかる。この繊細なラテアートを作り出した張本人だ。

 

このスタンドの閉店時間は夜9時。閉店時間に間に合えばほぼいつも仕事帰りにここに寄っている。かれこれ半年ぐらいか。幸い僕は夜にコーヒーを飲んでもすんなりと眠れるたちで仕事帰りのこの一杯を楽しみにしている。バリスタは男女合わせて何人かいるのだが、小さなスタンドなので店頭に立っているのは大体一人ずつだ。今日は僕と同年代のクールな髪型をした彼がスタンドに立つ日だった。彼が出してくれるカフェラテはいつも美しいラテアートで彩られている。ここのカフェラテはスモーキーな中にも甘みがある好みの味で、それだけで十分満足なのだが、綺麗なラテアートがそこに添えられればその美味しさは何倍にも増す。さっき撮った写真は後で僕のSNS上にアップされることになるだろう。

 

世界中にユーザーがいる、写真がメインの、あのSNSだ。僕は写真が特別にうまいというわけでも、コーヒーの写真を撮ることに情熱を燃やしているわけでもなんでもない。ラテアートの写真以外にも、たまに行くバスケットボールチームでの写真、うまかったラーメンの写真、友人とのふざけた写真、そんなものが雑多に並んでいる。ここのラテアートの写真を撮るのは、いつ誰に淹れてもらっても到底自分には作り出せそうにない美しいアートが差し出されて写真を撮らずにはいられないというのが一因だ。もう一つは、この写真を撮って帰り道でアップすると、なんだか平凡だが、今日もよく働いたという気持ちになれるからだ。そんなわけで僕のSNSアカウントにはこの店の繊細なラテアートがいくつも並んでいる。
そのSNSをやり始めたのは特に深い意味はなく、友人と遊んでいるときに勧められたからだ。アカウントを作りその友人をフォローすると、芋づる式に他の友人とも繋がった。こんなにやっている奴がいるのかと驚かされた。写真というのは不思議なもので、しばらく会っていない友人でもその投稿を見ているとなんだか近況をよく知っているようなそんな気持ちになる。最初はそんな風にして友人をフォローしたり、されたりという使い方だったのだが、そのうちに全く知らない誰かを恐る恐るフォローするようになった。別に恐れるものではないと笑われるかもしれないが、僕にとってそれはなんだか少し緊張感をはらんだ不思議な行為だったのだ。どこの誰とも知らない、そんな誰かの写真に惹かれて、その人の投稿を追う。その人のことを何も知らないのに、その人の生活が少し見える、不思議だと思う。いわゆる著名人やタレント等ではなく、一般の人ながらもそのSNSの世界で爆発的な人気を誇る人がいること、フォロワーを増やすのに躍起になる人がいること、プロでなくても美しい写真を多く発信している人がいること、友人以外をフォローするようになって知った。本当に興味深い。誰かの写真を見て気になったコーヒーショップに足を運んだこともある。新しいうまい店に出会うきっかけをもらえるなんて本当にありがたい話だ。
帰り道、先ほどの彼が淹れてくれたラテアートの写真をアップして、タイムラインをぼんやりと眺める。「あ」と一つの写真に目が止まる。同じ店で同じカフェラテを注文し、そのラテアートを撮影したものだった。投稿者は「ビーさん」だ。いや、「ビーさん」というのは正確な名前ではない。僕がその人に勝手につけた僕の中だけでのあだ名である。その人のアイコン写真がいくつかのビー玉がキラキラと光る様を撮った写真だから、だから「ビーさん」。なんとも単純な理由である。ビーさんは都内に住んでいる女性だ。ビーさんは僕と同じくあのコーヒースタンドの常連だ。それ以外のことは何も知らない。ビーさんの写真はいつも綺麗だ。スマートフォンで撮っている僕と違い、デジタル一眼レフで撮影しているらしい。ビーさんは月を撮るのも好きなようで月の写真もたくさん並んでいる。他に多いのは鳥の写真。ビーさんは鳥を飼っているようで、鮮やかな色をした小鳥の写真も多い。ペットを飼ったことがなく、動物にもあまり興味のない僕にとって、鳥がこんなに美しくかわいらしいものだというのは、ビーさんの写真を見て初めて知ったことだ。ビーさんが都内に住んでいる女性だと知っているのは、プロフィールにそう書いてあるから。ビーさんの投稿する写真にビーさん自身が写り込んでいることはないので、ビーさんが一体どんな人物なのか僕は全く知らない。

 

同じコーヒースタンドの写真をよく投稿しているビーさんの存在に気づき、フォローし始めてしばらく経つが、コメントというのをしたことはない。僕はただぼんやりとビーさんの写真を眺めているだけだ。ビーさんの写真は何というか僕の好みだったし、同じ店の常連ということはいつか店でビーさんに会うのではないか、あるいはもう居合わせたことがあるのかもしれないなどと思うのだが、具体的に何か行動を起こそう、ということにはつながらなかったし、そんな発想もなかった。
次の日曜日、休日出勤をせざるを得なくなり、それでも昼過ぎまでに仕事を切り上げて帰り道についた。帰り道、いつものコーヒースタンドに寄る。普段平日の夜にしか行かないので知らなかったが、休日のしかも昼間ということで店はかなり混雑していた。別にはやっていない店などとは思っていなかったが、これだけ賑わっているのを見ると何だかびっくりする。スタッフも二人だ。注文の列が少しできているのでおとなしくそこに並ぶ。ちょうど注文するタイミングの女性にスタッフが言っているのが聞こえる。「いつものでいいですよね?」「うん、お願いします」そう答えた女性の肩にはバッグとカメラがかけられていた。そんな人はいくらでも見かけるので何てことないのだが、何故だか気になった。その女性の「いつもの」というのはホットのカフェラテらしい。レジの並びにあるカウンターに腰掛け、「これも一緒に撮っていいですか?」とスタッフに訊いている。クリスマスが近づいてきたこともあり、店内にはちょっとしたクリスマス飾りがいくつか置かれていたのだが、彼女はカウンターに置かれていた小さなトナカイの置物を指していた。「もちろん!」とスタッフが笑顔で答える。カフェラテを受け取った彼女は、肩にかけていたカメラを下ろし、そのトナカイとコーヒーカップを写真におさめていた。僕はその様子をずっと何となくこっそりと眺めながら自分の注文を済ませ、彼女から離れた位置に腰掛けた。「彼女がビーさんじゃないだろうか?」根拠はないがそんなことを思い始めていた。眺めたところで名前が書いてあるわけではないのだが、僕は彼女を相変わらずチラリチラリと眺めながら、カフェラテを飲んだ。彼女はささっと飲み終えると「ごちそうさまです」とにこやかに告げて出て行った。肩にかかるぐらいの髪、黒いジャケット、黒い細身のパンツに細いヒールの靴。彼女が出て行った後も僕はぼんやりとその姿を思い浮かべていた。
その夜、僕は妙に緊張しながらSNSでビーさんの投稿を見た。最新の投稿はあのコーヒースタンドの繊細なラテアートが施されたカフェラテと、ちょこんと置かれたトナカイの置物。やはりあれがビーさんだったか。何の根拠もなかったのに僕は何故だか納得していた。あれがビーさんでなかったら他の誰がビーさんなものか、と勝手に納得したのだ。「今日、同じ時間に僕お店にいました」とコメントを書きかけて、慌てて消した。だから何だと言うんだと思ったし、ビーさんが困惑するのではないかと思ったから。
次の一週間はまたいつもどおりに過ぎた。僕も何回かあsのコーヒースタンドに行ったしビーさんも何回か行ったようだ。しかし僕が店に行くような時間にビーさんを見かけたことはなかった。そして一週間後、自分でもどうかしていると思ったのだが、日曜日の昼過ぎ、僕は休日出勤でもないのにわざわざその店まで出かけて行った。もちろん、またビーさんも来るのではないかと思って。その日曜日もやはり店は混雑していた。僕に気づいたスタッフは「今週も休日出勤ですか?やっぱり年末近づいて来ると忙しいんですねー」なんて言ってくれる。「まあそんなところで…」と僕は曖昧に返事をして店内を見回す。ビーさんはいない。そりゃそうである。そんなに都合よく遭遇することなどないだろう。さっさと飲んだら家に帰って掃除でもしよう、と思ったことろで、ビーさんが店に入ってきた。彼女は日曜日のこの時間にここに寄るのが習慣なのかもしれない。ビーさんはやはりホットのカフェラテを注文し、やはりカウンターに座って写真を撮っている。本当に気恥ずかしい話だが、どうやら僕はビーさんのことが気になって仕方ないらしい。ビーさんが店から出て行くまで、僕はちびりちびりと自分のカフェラテを飲みながら、ちらりちらりとビーさんを眺めていた。
その夜またも緊張しながらビーさんの投稿を見ると、やはり今日のカフェラテが投稿されていた。コメントを書きかけてまたやめる。何をしているんだろう、僕は。何だか情けなくなりつつ、翌々週の日曜日の昼過ぎ、またそのコーヒーショップに行った。何故翌々週にしたかというと、そんなに毎週日曜日に通いつめたらバリスタ達から不審に思われるだるという僕の勝手な自意識過剰故である。そしてその日もやはりまたビーさんに遭遇した。その日は冷たい雨のせいか店内は少し空いていて、バリスタの一人とビーさんが話していた。よくないと思いつつ耳をそばだてる。どうやらビーさんはこの近くの子ども向けの理科の実験教室でスタッフの仕事をしているらしい。日曜日の午後にクラスがあるので、その前にここでカフェラテを飲んで出勤というのがいつものパターンのようだ。子ども向けの理科実験教室なんて僕が子どもの頃にはなかったが、最近は学校での理科実験の機会が減っていることもあり、わざわざ通う子どもも多いらしい。そんな風に話を盗み聞きしながら、ビーさんの白衣姿を勝手に想像する。ビーさんの「ごちそう様でした」という声で我に帰った。
ビーさんの姿は知ったものの、名前も知らない。ビーさんのことをほとんど何も知らない。それなのに馬鹿げているかもしれないが、僕はビーさんときちんと知り合いになりたいのだということに気づく。そんなことはしたことがないし、うまくいくなどとも思えないけれど、クリスマスにビーさんとまたあの店で遭遇したら、その時こそ声をかけてみよう。今年のクリスマスは日曜日だ。実験教室が休みでなければ、ビーさんはまたきっと昼過ぎにあの店にやって来るだろうから。

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