冷めたコーヒーと温かい時間

冷めたコーヒーは美味しくない。
初めてそのことに気が付いたのは、彼氏と別れたときだった。

スマホのアラームに急かされながら、カーテンを開ける。朝日が眩しくて、つい目を細める。中古で買ったコーヒーメーカーに水道水を注いで、ペーパーフィルターにコーヒー粉を入れセットする。スイッチを押してコーヒーが出来上がるのを待つ間に、顔を洗う。化粧水や乳液をして日焼け止めを塗るころには、甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。その香りで、いつも目が覚める。私の朝は、この瞬間始まる。

テレビをつけていつものニュース番組を見ながら、出来立てのコーヒーをお気に入りのカップに移す。そこにコーヒーフレッシュを入れる。焦げ茶色の液体の中に白い線が広がり、放物線を描きながら混ざり合い、ミルクブラウンへと色を変えていく姿は美しいし、見ていてとても楽しい。今すぐにでも飲んでしまいたいが、猫舌なので我慢。化粧台の隅に置いて、飲み頃の温度になるまでメイクに集中する。

カップから立ち上る白い湯気から、いい香りが広がる。ああもったいない! そう思いながらも、この香りが部屋に充満していくのも悪くない。顔が出来上がるころにカップに口をつけると、ちょうどいい温度のコーヒーが口の中に広がる。

「あ」

いつもなら家を出る時間までコーヒーを堪能しながらだらだらと過ごすのだが、電話が鳴ってしまった。ため息をつきながら出ると、同僚が急な風邪で休むことになり、今日の急ぎの仕事を頼みたいという内容だった。一通りのことをメモしていると、出勤時間が近づいていた。電話を切って、半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干す。まだ春になりたての肌寒い気温のせいで、すっかり冷めていた。

「う、酸っぱい」

香りも抜けきって、酸味がやけに強調されている。私はこの味があまり得意ではない。
そう、ブラックコーヒーよりも苦い思い出……彼氏と別れた時のことを思い出すからだ。家を出て歩きながら、鞄に入れていたタブレットの清涼菓子で口直しする。一度よみがえった記憶は、そう簡単には消えてくれなかった。

***

「別れよう」

頭が真っ白になった。
大学時代から交際して五年記念日。できたばかりの素敵なカフェに連れられたから、結婚の話でも出るのかと思ってうんとおしゃれにしていった。それがより私をみじめにさせた。

「別れるって、どうして?」
「なんか、飽きちゃった。わかるだろ? オレら、倦怠期通り過ぎて空気みたいな関係じゃん。一緒にいても前みたいに楽しいって思えないし、新鮮さがない。オレらそろそろ結婚を考える歳だろ。だから今別れて、心機一転新しい人を見つけよう」
「何言ってんの!? 私は結婚したいよ」
「オレはお前に情はあっても愛はない。悪いな。じゃ」

テーブルの上に千円札が置かれて、彼が去っていった。
頼んだコーヒーを一口も飲むことなく話が終わり、私の恋も終わってしまった。

しばらく席で放心していたが、だんだんと店内が混んできたので慌ててカップに口をつけると、冷たくなって香りの抜けた酸い液体が口の中に広がった。

ふたりでコーヒーを味わいながら、ケーキも頼んだりして、素敵な未来を語らいあう。そんな出来事を想像をしていたのに、まさか別れを告げられるなんて考えたこともなかった。カップルや夫婦でにぎわう店内で、二つ分のカップと適当に置かれた千円札の前に、ただひとり冷めたコーヒーを口に含む私。あまりに対照的な風景に、胸が苦しくなって涙がこぼれた。

一度泣いたら止まらなくなって、壊れた蛇口みたいにどんどん溢れてくる。この顔で会計をして街に出る勇気はないので、ハンカチで必死に抑えながら、彼の残したコーヒーにも口をつけて、涙が引くまでの時間を稼いだ。涙の塩辛さと、冷めたコーヒーの酸っぱさを、私は一生忘れることはないだろう。あれほどに美味しくないコーヒーをこの先飲むことはないことを祈って。

***

今日はふたり分の仕事もしたし、嫌なことも思い出した。最悪の一日を洗い流すべく、気分転換でもしようと街をさまよう。するとあの店にたどり着いた。彼と別れたカフェだ。

そういえばここのコーヒーを飲んだのは一度だけだし、しかも最悪のタイミングだった。出来立てのコーヒーはどんな味なのだろう。店先に立つと、ふわりとした香りが私を包んだ。疲れがとれていく。その香りに誘われるように、店内へと入った。

橙色の落ち着いた照明に、どこかで聴いたことのあるジャズが流れている。マスターは初老の男性で、いかにも人がよさそうな容貌をしている。店内にお客さんは四名。読書をする男性、パソコンで作業する女性、たのしそうにお話をする老夫婦。居心地のよさそうな雰囲気で満ちていた。

なんとなく以前彼と座った席につき、当時頼んだコーヒーを選ぶ。こういう時、つくづく思う。私は変化というものが苦手だ。朝は決まった行動がしたいし、仕事も前日に決めていた段取りじゃないと嫌だ。きっとそういうところがつまらない女だと、元彼に思われていたのだろう。

「はあ」

思ったよりも大きなため息が出て、慌てて口を押えた。すると隣のテーブルに座っていた、読書中の男性と目が合い、顔を赤くしていることを自覚しながらも会釈をすると、その男性は柔らかく微笑んだ。

「あの……。突然失礼しますが、以前ここで泣かれていませんでしたか?」
「え!」

本当に失礼なことを! と少しむっとするが、なによりもその男性が私を覚えていたことに驚いた。そういえばその時は自分の涙をこらえることに必死で、周りの目など気にしてなかった。彼の記憶に残るほど、私はみっともなかったのだと落ち込む。

「あ、気を悪くさせたのならすみません。あのとき、僕は今と同じ隣の席にいて、泣いていたあなたに声をかけることができず、後悔していたので」

申し訳なさそうに頭を下げた男性に悪意がないことを知り、私は慌てて手を振り否定した。

「あ、いえいえ。お見苦しいものをお見せしてしまってすみませんでした。あのとき初めてこのカフェに来て、やけくそで冷めたコーヒーを飲んだので、今日は飲みなおそうかと思ってこちらに来たんです! もう立ち直っていますよ」

空元気に笑うと、それを見抜かれたのか、男性は何も言わずに頷いた。
そうしているうちにコーヒーが届いた。いい香りが目の前に立ち上り、思わず生唾を飲み込んだ。ころんとした可愛らしいミルクピッチャーを傾け、ミルクを注ぐ。焦げ茶色の液体が白いドレスをまとうように色を変えていく。

「コーヒー、お好きなんですか?」

男性に声をかけられ、頷く。

「はい。詳しくはないんですけど、コーヒーを飲まないと1日が始まらないくらいには好きです。あ、でも……」
「でも?」

首を傾げる男性に、苦笑いを浮かべてしまう。こころが弱っているから、そんな時はつい弱音がこぼれる。

「冷めたコーヒーは嫌いです」

そろりと彼の顔を盗み見ると、相変わらず人畜無害なにこにこした笑顔をたたえていてほっとする。

「たしかに、コーヒーが冷めると飲みにくくなってしまいますよね。でも、面白いじゃないですか」
「面白い?」
「コーヒーって、豆や焙煎、抽出の仕方や温度で味が変わる。ひとつとして同じものはない。生き物みたいじゃないですか。僕がコーヒー好きな理由はそれです。飽きないから」

そう言われて、胸が痛んだ。
私はまさに「飽きた」と言われて別れを告げられた女なのだ。

「私、変わるものってちょっと怖いです。人の気持ちだって簡単に変わるし、変わってよくなることって少ないじゃないですか」
「そうですか? 冷めたコーヒーを飲んで不味かったってことは、冷めたコーヒーを飲まないと気づけなかったことじゃないですか。これからは冷まさないように気を付けようって、気づけるじゃないですか。いいことです」
「ポジティブですね」

私にはない考え方で、話しているとこころがすっと軽くなった気がする。

「……あ!」
「どうしました?」

話に夢中になって忘れていた。今度こそ淹れたてのコーヒーを飲もうと思っていたのに、手元にあるコーヒーからは、もう湯気が出なくなっていた。

「失敗です。今度こそ冷まさないようにって思ってたのに」
「今度こそ?」
「以前、ここで泣いていたときも、コーヒーを冷ましてしまったんです。ああ、最悪だ」

今日はつくづくついていない。

「すみません。僕が話しかけたせいですよね。新しいコーヒーをご馳走します」
「あ、いえいえ! 私が悪いんです! 気を遣わせてすみません!」

大慌てでカップに口をつける。もしかしたらまだ冷めていないのかもしれない。
口内に流れたコーヒーは、たしかに冷たかった。だけど。

「美味しい……!?」

不思議なことに、以前飲んだ味と違っていた。
酸味はあるものの、香りもちゃんと残っているし、これはこれで苦みの味わいが深い。嘘だと思い二口目も飲んでみるが、やっぱり美味しかった。
いつも家で飲んでいる温かいコーヒーよりも!

あのときは、悲しい気持ちと一緒にコーヒーを飲み込んだから、よけいに不味く感じてしまったのだろう。
なるほど、たしかにコーヒーは生き物みたいだ。日々変化して、面白い。
再び口に運べば、いつもとは違う舌触りとまろやかさが広がる。

冷めたコーヒーは不味い。
そんな真っ黒な思い出を、今日の出来事が塗り替えてくれた。焦げ茶色のコーヒーに、大好きな白いミルクを注ぐように。

「あの、本当にすみませんでした。ぜひ温かいコーヒーも飲んでください。僕がおごります」

そう言う男性に、私は首を軽く横に振った。

「いいえ。……でも、今度また、このお店に来ます。その時は、ご一緒してもいいですか? コーヒーのこと、もっと教えてください」

冷たいコーヒーを飲んだのに、心はすっかり温かくなった、春の夜。どんなコーヒーも、どんな人生も味わいたい。そんな変化を楽しむことを教えてくれた男性に微笑み、再び冷めたコーヒーに口をつけた。

きっとこの先、どんなことがあっても、コーヒーが大好きなことは変わらないのだろうな。

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