大人の嗜み

中年の峠がおぼろげに見えてきた頃、急に己の無趣味がひどく恥ずかしいことのように思えてきた。

 

同僚達はそれぞれ、ゴルフ、車、旅行といった具合に何らかの趣味を持っているようだ。それが純粋なる好奇心からなのか、取引先のお偉方との頼りなげな接点を作る為なのか、はたまたその両方であるのかは知る由もないが、少なくとも皆ある程度は楽しんでいるように見えた。素直な人間であれば、彼らに話を聞き、その中で自分に合いそうなものについてさらに教えを請うのであろうが、なにせこの歳まで無趣味、イコール友人も少ない、すくすくと捻くれて歳を重ねてきたのが私だ。

 

何かを始めるにしてもいい歳の大人の男として「気の利いた」ものでなければ、などと世界中で誰一人として気にもしない米粒ほどの自尊心を抱えながら、帰りの駅の前にある喫煙所で紙カップに入ったコーヒーを啜っていた時にふと思いついた。

「これも趣味になるじゃないか。」

これ、すなわちコーヒーのことである。といっても今まで口にしてきたコーヒーはほとんどが缶コーヒーかインスタントコーヒーで、たまに喫茶店に立ち寄った時でも「ブレンド」以外は注文せず、メニュー表の下の方に書いてある1杯1000円以上もするような横文字の銘柄を見ては、「政治家が飲みそうだな」などと思っていた。しかし、よくよく考えてみればわずか1000円でなにやら高尚な気分に浸れそうなのは、コスト的に見れば悪くない。

 

会社の同僚に見咎められてもまるで心配ないし、週に1、2度だけ1000円を浪費するだけであれば妻もうるさく言うまい。我ながら良いアイディアが浮かんだものだと思いながら家路についた。

夕食後、洗い物をしていた妻に向かい、
「ちょっとコーヒーを嗜(たしな)むことにしたよ。」
と報告した。妻は洗い物の手を止めこちらを振り返る。小さく薄い唇が「たしなむ?」と声を出さずに動いた。なんだか不安になった私はソファに座りなおし、
「ちょっと良いコーヒーでも飲んでみようかと思う。」
と言いなおしてみた。そうなの、とだけ言い洗い物を再開した妻であったが、片づけが終わり水音が止んだ時、
「じゃあお土産買ってきてね。」
とだけ言った。

その週末、私の「趣味」がスタートした。昼飯を食べてから家を出て、近所の商店街の何度か行ったことのある喫茶店へ向かう。

 

洒落た店ではないが、まずは近隣から攻めていこうという計画だ。外出するときは、夏ならポロシャツ、冬ならセーターといったぐらいのファッション感覚しか持たない私だったが、今日は白いボタンダウンのシャツにジャケットを羽織っている。ハットでもかぶろうかなどと思ったが、そんなものは我が家のタンスには入っていなかった。店に着き、白いあごひげをたくわえた店主に会釈をし、メニュー表に目を落とした。

 

「ブレンド」よりずっと下、どこかの山の名前のようなメニューがあり、終わりに「No.1」という文字が付いている。そのもう少し横には価格、1400円。予想外だ。都会の方の喫茶店で1000円ぐらいのものを見た私は、都心から離れた自宅のあたりではせいぜい700円ぐらいだろうとあたりをつけていた。すこし躊躇ったが、何事も最初が肝心だ。

 

さらには「No.1」というのも良い。大人の趣味にふさわしいスタートじゃないかと思い、既に何かを成し遂げたかのような面持ちでオーダーした。15分後にコーヒーが運ばれてきた時、私は古本屋で購入して10ページほど読んだだけの「罪と罰」の文庫本をテーブルの隅に押しやり、店に備え付けのゴルゴ13を読んでいた。何の変哲もない白いカップとソーサーに入った、何の変哲もなく見えるコーヒー。

 

せっかくなのでブラックのまま口をつけてみる。美味い、気がする、多分。芳醇な香りが鼻に抜け、ているのかなこれは、多分。まぁ最初はこんなものだろうと誰かに言い訳するように何度か頷き、もう一口すすった後、本に戻った。1時間後、ゴルゴが何度目かの依頼を果たした頃、コーヒーもなくなった。伝票を持って席を立った時に妻への土産のことを思い出し、レジ脇のショーケースに置いてあったロールケーキを2つと、この店のオリジナルブレンドの小袋を買った。

 

家に帰り、夕食を食べた、いつもなら日曜の夜はビールを飲むが、この日は食後のコーヒーを飲むことにした。買ってきたロールケーキを皿に取り、テーブルに並べたところで妻がコーヒーを運んできた。何を話すでもなく甘いケーキを口に運ぶ。ぼんやりとしていると妻が話しかけてきた。

「どうだったの?良いコーヒーは。」

なんと答えて良いものか迷ったので、

「うん、まあまあだったかな。」

とだけ答えた。

 

「コーヒーって言えばさ、」

思い出したかのように妻が言い、軽く笑った。

「何?」
「いや、コーヒーって言えばさ、付き合ってた時遊園地で飲んだなと思って。」

妻の言葉に、劣化したフィルム映画のような風景がおぼろげに蘇る。

「あの時さ、すごく暑い夏の日だったのにあなた間違えてホットコーヒー買っちゃって。しかもブラックで。自動販売機だったから氷とかミルクを足したりするわけにもいかなくて、結局、売店でソフトクリーム買ってさ、苦さと暑さをソフトクリームでごまかしながら、汗ダラダラ流して飲んだよね。」

当時はまだ2人共大学生で、確か2人で遠出したのは初めてだった。それでなくても緊張していた私は、そのミスをやらかした時には走って逃げ帰りたいような気分だった。妻が、その時は彼女だが、笑いながら売店でソフトクリームを買ってきてくれた時には、なんだか力が抜けてしまった。結婚したのはその3年後だ。

 

今、目の前で少しシワは増えたがあの頃と同じ表情で笑う妻を見て、少し鼻の奥がツンとした。慌てて下を向き、コーヒーを啜る。美味い、すごく美味い。香りが芳醇なのかどうかなんてわからないし、多分どこかの山の名前の品種の豆でもないと思うが、なんだかとても、多分一番美味いと思った。この妻と出会って結婚してここまで暮らしてきた私は、きっと1人でコーヒーを飲んでも美味いと感じることはないのかもしれない。

 

律儀にコーヒーとケーキを交互に口に運ぶ妻を横目に、私は次は何のケーキを買ってこようかと考えていた。妻が笑いながらまた何事か話し、私はそれに頷く。当分はこのままでいいと思った。

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