幸せに幸せに……

私が彼に恋をしたのは、きっと私にも普通に接してくれたから。中学生の頃、私は周りの人たちとうまく馴染めずにいました。

 

人付き合いが苦手だったのは、今も昔もあまり変わっていないのだけど、子供の頃は特にそれが強かった気がします。本当はもっとみんなといっぱいお話ししたい。もっとリラックスして会話をしたり笑いたい。そう思ってみても、自分の容姿にも正確にも全く自身がなかった私はそれができない。しかも、私には私に全く似ていないすごく美人な妹がいたもんだから、余計に自信を無くしていました。

 

思春期に入った男の子たちは、やっぱり可愛い女の子を好きになる。明るくてキラキラしている子と一緒にいたいと思う。そりゃあそうだ。私が逆の立場であっても、きっと同じように感じていたでしょうから……。妹は、勉強も運動もできる上、さっぱりとした明るい性格で、本当にみんなから愛されていたっけ。中には、妹と仲良くしたいがために、私に近寄ってくる男の子さえいました。それも複数人。
そんな中での学生生活は、私にとっては苦痛以外の何物でもなく、いつしか私は現実逃避さえするようになっていました。妄想の中の私は、明るくて綺麗。そして、友達もいっぱい。そうやってココロのバランスをとっていたんでしょう。こんな思い出したくもない私の中学時代の中に、たった一つだけあったかくて優しい思い出があるのです。

 

同学年だった彼と知り合ったのは、そんな全く楽しくない日々の中。ある日、隣のクラスから一人の男子が私のいる教室にやってきたのです。数人の男の子たちと楽しそうに騒いでいる彼を見ても、その時は全くなんとも思いませんでしたが、あることがきっかけで心惹かれることになったのです。いつものように机に向かい一人で本を読んでいた私に突然声をかけてきたのです。しかもすごく普通に、ナチュラルに。普通の友達に話しかけるように……。

「何してんの?それ面白いの?」

たった一言のこの会話。でも、私はとっても嬉しかったんです。だからどうした?って思う人もいるかもしれません。でも、私はなんだかとても幸せに思ったんです。その日の帰り道、とっくに日が暮れていて、真っ暗な空を見上げながら彼の言葉を思い出しながら歩く時間。満点の星空は、いつも以上に輝いて見えました。それはまるで私を祝福しているかのよう。あの日の空は、本当に綺麗でした。後で知ったんです。

 

これが私にとっての所謂「初恋」ってやつだったんだと。それからというもの、どうしても彼のことが気になってしまう私。体育の時間に、彼がグラウンドを先頭を切って走っている姿を見ては嬉しく思う。野球部の選手に選ばれたと聞くと、まるで自分のことのように嬉しく思う。あの日、彼が私に声をかけてくれた日から、私の学生時代はがらりと変わっていきました。しかし、そんな幸せな日々はそう長くは続きませんでした。中学三年生になっていた私は、数か月後には高校受験。彼が希望している学校と私が行きたい高校とは違うことも知っていたので、中学を卒業したらもう彼に会えないことも覚悟していました。

 

本当はちょっとだけ思ったんです。私も志望校を変更して彼と同じ学校に行こうかと。そうしたら、これからも彼の姿を見ながら高校生活が過ごせるだろう。でも、本当に心とは不思議なもので、私はそれを選んだりはしなかったのです。彼が大好きだからこそ、私も頑張りたい。それが、なんて言うか彼への恩返し、感謝の気持ち。そんな複雑で理解不能な思いがしたのです。今でも、この時どうして私がこんな風に考えたのか分かりません。謎のままです。

中学校卒業式の後、私は心の踏ん切りをつけたくて、そして私に優しくしてくれたことに感謝していることを伝えたくて、勇気をもって彼に缶ジュースを差し出しました。涙一つこぼさない卒業式でしたが、この時ばかりは胸がいっぱいで今にでも泣いてしまいそうでした。何を言ったら良いのか分からず、何をすべきかもわからず……。私が差し出した缶ジュースを手にすると、彼は少し驚いたようでしたが、すぐにポケットからコインを取り出して、私に一本の缶コーヒーを買ってくれました。自動販売機の前で、数多くある飲み物の中、彼は迷わずコーヒーを選んで私に手渡しました。

「はいこれ、お礼。お前も頑張れな。」

これが彼と話した最後の記憶です。今はもう彼の声も顔も覚えてはいません。あれから数年後、私は彼の言葉を胸にめちゃめちゃ勉強して希望していた大学に入り、そこでも頑張って資格を取得。ずっとなりたかった職に就くことができました。高校卒業後、大学進学と同時にずっと他県で暮らしていた私ですが、一度だけ故郷に帰ったことがありました。成人式があると聞き、故郷に戻り出席。彼に久しぶりに会えると期待しながらの出席だったのですが、そこに彼の姿はありませんでした。彼は、高校を卒業してすぐに就職したのだと風の噂で知ったのですが、仕事が忙しかったのか来てはくれませんでした。

 

ただ、卒業後も何度か彼と会ったことがある同級生がいて、同級生の口から彼のことを少し聞くことができました。お互い東京で暮らしていた二人は、ある日とあるカフェで待ち合わせをしたのだそう。自分は、気の知れた友人との再会だと思い、ワクワクしながら喜んでその日を待ったのだと聞きました。シンプルなTシャツとジーパンでカフェに向かったのだけど、彼の方は想定外でびしっとスーツを着て待っていたんだそうです。上から下までかっこよくおしゃれして自分を待っていた彼の姿を目にして、彼は必死に都会の人間になろうとしていたんだなと思ったのだそうです。二人が待ち合わせをしたそのカフェで、二人がいったいどんな会話をしたのかはわかりません。でも、この話しを聞いて、私は思ったのです。もう、私が知っている大好きだった彼はどこにもいないのだろうと。もしかしたら、彼がこの成人式に来なかったのも、都会の人間になりたかったからなのかもしれません。過去の全てを一切忘れて、前だけを見て生きていこうと決意したから。そう思ったら、両目から淋しさが溢れてきました。涙ぐむ私の顔を見て、彼と東京で再会したと話してくれた友人も何かを悟ったのかもしれませんね。でも、優しいのです。その同級生も何も言ったりしませんでした。

 

あれから20年。私は結婚して、子供にも恵まれています。私が愛した夫は、私との共通点がたくさんある人で、だからこそ多くを語らずとも分かり合える無二の親友でもあります。この人と結婚して本当に良かったと思っていますし、子供もかけがえのない私の宝ものです。もしかしたら、私は一生結婚せず独身のまま生きていくのではないかとも思っていたので、人生はやっぱり何がある分からないものですね。彼が今どこでどうしているのか全く分かりませんし、分かる必要もないのでしょう。20年前、東京で彼とカフェで待ち合わせをしていた同級生とは、どういうわけか腐れ縁で、今でもなんだかんだ言いながら交流があります。

 

今では、逞しい立派なお父さんになっていますし、子供たちもみんないい子です。聞くところによると、早くして結婚したその同級生は、間もなくおじいさんになるのだそう。それがおかしくておかしくて、ついついいじってしまう私です。すでにあだ名も決まっていて、みな同級生のことを「ジイ」と呼んでいるのです。同級生もまた幸せそうで、私はそれもまたとても嬉しいのです。

 

東京に家族で遊びに行った時、何気なく入ったカフェで、ふと古い記憶を思い出していました。20年前、故郷と過去を捨てて東京に飛び出て行った私の初恋相手は、田舎では到底目にすることなどないこんなお洒落な喫茶店で、何を思い何をしたいと考えていたのでしょう。いずれにしても、私のことなど一切思い出すことも考えることもなかったのでしょうね。

 

私は、中学生の頃、彼に出会って彼から声をかけてもらえて、生まれ変わることができました。もしあの時彼と知り合うこともなく自信がないままで学生生活を送っていたら、大学での幸せも就職先での面白さも味わうことなどなかったのだと思います。そして、たぶん、今の夫にも巡り合えませんでしたし、可愛い子供たちに出会うこともできなかったでしょう。だから、今、心から彼に感謝しているのです。

「私ね、昔、この人の為なら死んでもいいって思うほど好きになった人がいたんだよ。」

笑いながら彼について夫に話すことがありました。中学生ごときで、死ぬも生きるもないのでしょうが、あの頃すべてのことから追い詰められていた私は、本気でそんな風に思っていたのです。どこにも居場所がなかった私にとってたった一つの希望の光……。

「そうか、いい人に出会えてよかったな。」

私の夫はそう言いました。もしかしたら、夫にとってもそんな存在がいたのでしょうか?人付き合いが苦手で、ずっと独りぼっちだった私の夫。私にプロポーズする時、「私のことを好きじゃなくてもいいんです。嫌いじゃないなら結婚してください。」なんて、何とも謙虚すぎるおかしなことを言った夫。そんな夫にとって、生きる希望となってくれていた人がいるのなら、私はありがとうって思うのです。日曜日は、雨の音を聞きながら二人でコーヒーを飲んでから一日をスタート。苦くてどこか切なくて、でも力強くて。そんな魔法のようなコーヒーを飲んでいる時、今を大切に生きて行こうって再スイッチが入るのです。私が今幸せであるように、初恋を教えてくれた彼もまた元気で幸せでいることを祈っています。恐らく、これから先も彼に再会することはないのでしょう。故郷から随分離れているところに暮す私の心もまた、故郷からはだいぶ離れているからです。

20年前、確かカンコーヒー一本の値段は、今よりも安かったような気がします。時は確かに前へと流れているのでしょう。

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