彼女が選んでくれたモカブレンド

私は北海道の田舎町で高校を卒業するまで暮らしていました。
今は50歳の半ばを過ぎた白髪まじりのおじさんです。
実家は農家だったので毎日の食事は畑で採れる野菜が中心で、肉は豚肉をたまに食べるのと、鶏肉は飼っている鶏が卵を産まなくなると祖父が絞めて食卓に上がるのを食べていました。
水以外で飲んでいたのは、ほうじ茶と煎茶が毎日飲む飲み物でした。
ジュース等は盆と正月に親戚が集まった時には好きなだけ飲めましたが、普段は殆ど飲むことがなくて畑で採れたトマトをジューサーで砕いたトマトジュースばかり飲んでいました。
小さい頃からそんな生活をしていたので、特に苦も無く当たり前の生活だと思っていました。
家にはインスタントコーヒーは有りましたが、本格的に豆を挽いて淹れたコーヒーは、あの時に初めて飲みました。
それは高校2年生の春のことでした。
私に初めて彼女が出来たのです。
それまで女の人と付き合ったことがなかった私は、彼女とどう接していったら良いのかが分からなくて正直戸惑っていました。
そうして高校生の学校帰りのデートの定番だった喫茶店に彼女と入りました。
私は慣れた雰囲気を装っていましたが、実は喫茶店に入ることも初めてで、ましてやコーヒーを飲むこと自体が初めてでした。
彼女を見ると何度も来て慣れているような感じだったので、これは絶対に知ったかぶりをしていると窮屈さがみえみえだなと思い、恥を忍んで正直に初めて喫茶店に来たことを話しました。
すると彼女は何とも言えない可愛い笑顔で「店に入った瞬間に分っていたよ」と言ったのです。
それを聞いた瞬間、恥ずかしさで顔が熱くなったと同時に、「早いうちに正直に言って良かった」と少しホッとした気持ちになりました。
彼女の可愛い笑顔を見ていたら、それまでの変な緊張感が解れてきて会話も自然な感じになっていました。
そんな私に彼女はコーヒーのメニューの中からモカブレンドを勧めてくれました。
「私は量の多いアメリカンにします。」と言って注文をしてくれました。
なぜ私にモカブレンドを勧めてくれたのかを聞いたら、「あなたの雰囲気からして絶対にモカが合うと思う!」とハッキリ言ってくれました。
やがて二人の前にほのかな香りと湯気を漂わせながらコーヒーが運ばれてきました。
彼女から「飲んでみて」と言われて、人生で初めての豆から挽いて淹れてもらったコーヒーを飲みました。
もちろんコーヒー本来の味を知りたかったのでブラックで頂きました。
「どぉ・・?」、彼女が私の顔を下から覗き込んで、どんな言葉が出てくるのかを興味深げに見ていました。
私は舌と口の中全体でコーヒーの感触を確かめながら2、3秒の間をおいて発した言葉が「苦い!」。
その言葉を聞いた時の彼女はキョトンとした表情になって「それだけ?」と言いながら軽く握った左手を口元に当ててクスクスと笑いだしました。
私は「でもほろ苦さの中に後からほど良い深みが出てくる感じがいいよ」と言うと、「ホントに?無理して表現しなくてもいいよ」と言いながら、また笑いだしました。
この時彼女に言った私の感想は、無理やり言葉を見つけて気取って言ったのではなくて、本当に苦みの中にほど良い深みのあるコクが感じられたのです。
この日初めて飲んだ”モカブレンド”は、その後私がコーヒー好きになる大きなきっかけになりました。
彼女とは、その後も機会がある度にこの喫茶店に来ては他愛もない会話をしながらお互いに楽しいひと時を過ごしましたが、高校卒業と同時に離れ離れになり、そのまま音信普通になってしまいました。
高校卒業後、大学に進学をした私は待望の一人暮らしをすることになりました。
地方の田舎から私にとっては都会の札幌に出てきました。
そこで私は一つの目標を立てることにしました。
それは留年をしない限りは、大学生活は4年間で終わり社会に出ていきます。
だから「学生時代でなければ経験できないことを見つけて、いろいろとやって行こう!」と決めたのです。
そのためにはお金も必要です。
私立大学でしたので親に負担ばかりかけるのも申し訳なかったので、学費以外は自分でアルバイトをして生計を立てることにしました。
卒業までの4年間に15職種以上のアルバイトを経験することが出来て、とても貴重な人生経験をさせてもらいました。
その中でも喫茶店のアルバイトだけは卒業するまでの4年間ずっと働かせてもらいました。
いつも優しい笑顔のマスターの人柄にひかれて働いているうちに、個人的にもいろいろと面倒をみて頂きました。
マスターはコーヒーアドバイザーの資格を持っていて、学生の私にも”豆の違いによる焙煎”や”ブレンドの際の豆同士の愛称”、”コーヒーの淹れ方”等を時間を見つけては親切に教えてくれました。
私の高校時代でのコーヒー初体験の話もニコニコと軽くうなずきながら聞いてくれました。
お陰で私はコーヒーのことがさらに好きになり、ただ飲むだけではなくてコーヒーの歴史や豆に関する知識など、コーヒーに関するいろいろなことに興味が湧いてきて、もっと知りたい!と思うようになりました。
マスターは、「この店の仕事はいつ来ても、いつ休んでもいいから、他のアルバイトが入ったら遠慮なく行ってきていいからね」と言ってくれて、いつも自由にさせてくれました。
そんなことでアルバイトで稼いだお金で、コーヒーに関する物をいろいろと揃えることが出来ました。
コーヒーの本に始まり、コーヒーミル、コーヒーサーバー、サイフォン等々、コーヒーに関する物なら何でも集めました。
彼女との最初のデートで飲んだモカブレンドから始まった私のコーヒーに対する愛着は、日々高まってきていて毎朝豆を挽いて自分で淹れたコーヒーを飲んでいる時が一日の中で私がいちばん癒されるひと時なのです。
その後私は大学を卒業後サラリーマンになり、オフィス機器の営業で毎日汗をかきながらの生活をしていました。
何度か転勤で札幌を離れることがありましたが札幌に戻って来ると、あの優しい笑顔のマスターの淹れたコーヒーを飲みながら会話をするのが私のライフサイクルになっていました。
そんな変わりのない毎日を過ごしていた40歳になったある日のことです。
秋の風が冷たく感じるようになってきた9月の土曜日の夕暮れでした。
私はいつものようにお気に入りのモカブレンドを飲みながらマスターと談笑していました。
カラカラ~ンと店の入り口の扉が開いて一人の女性のお客さんが入ってきました。
その女性は店の奥の静かな小さいテーブルの席に座りました。
上から下に軽くメニュー表を流すように見てから、アメリカンコーヒーを頼まれました。
5分ほどしてから、もう一人お連れの女性の方が来て同じようにメニュー表を見てからモカブレンドを頼まれました。
何気なくその様子を見ていた私は、高校生の時に初めて彼女と喫茶店に入ってコーヒーを頼んだ時のことを思い出していました。
あの時も奥の席に座っている女性が頼んだものと同じ私がモカブレンドで彼女がアメリカンでした。
そんな事を思い出しながらもの思いに耽っていると、ちょうどコーヒーが出来上がりました。
マスターの場所から女性のお客さんのところまでは、カウンターの中からぐるっと周って来なければならなくて大変なので、常連客の私がほのかに湯気の立っているコーヒーカップをお盆に乗せて運びました。
「お待たせ致しました、アメリカンコーヒーとモカブレンドになります。」軽く微笑みながらテーブルの上に置きました。
すると最初に入って来られた女性が、「あらっ!お客さんに運んでもらうなんて申し訳ありません」と声を掛けてくれて、左手を軽く握って口元に当てて微笑んだのです。
その瞬間、ハッ!!と一瞬からだが固まりました。
この仕草とクスクスと笑った時の目元と声の感じ、どこかで見た光景だったんです。
そうです!あの高校時代に一緒に喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ彼女の姿と重なった瞬間でした。
私の反応に少し遅れて、その女性も目が止まっていました。
そして自然と私の口から出てきたのは「や・す・こさん・・?」、彼女からは「ま・さ・しさん・・?」。
「やっぱりそうだったんだぁ!!、びっくりしたぁ、元気ですか?」。
何と、その女性こそ私に初めてモカブレンドを飲ませてくれた高校時代の彼女本人だったんです。
まさかこんな所で再会するとは・・・?
彼女は高校卒業後に札幌の短大に進学をしてから、大学の先輩に誘われて名古屋のアパレルメーカーに就職をして、30歳の時に短大時代の頃に知り合った人と結婚をして現在は仙台に住んでいるそうです。
今日は短大時代の友人と10年振りに会うことになって、食事に行く前にコーヒーを飲みながら話がしたくて、たまたま偶然にこの店で待ち合わせをしていたそうなんです。
それにしても偶然って、こういう事なんですね。
マスターもカウンターの中で、私たちの光景を見ていて状況が分かったようで「それにしても凄い偶然ですね、貴方のことは彼が学生の頃によく話をされていたので私のイメージの中では存じておりました。こんな再会をしてもらえるなんて、この店をやっていて良かったです。」といつもよりも大きな笑顔で話してくれました。
私は初めて飲んだ、あのモカブレンドの味が忘れられなくて今でも拘って飲んでいる旨を彼女に話しました。
彼女もあの時の事をよく覚えていてくれて、今でもコーヒーを飲む時に何気なくフッと思い出す時があるそうです。
一緒にいた彼女の友達も、この偶然の再会を喜んでくれて、「せっかくですから一緒に座って話でもしませんか?」と誘ってくれました。
その後は昔の話で盛り上がり、みんなで最近の報告をしあっているとマスターが「こんな機会ももうないでしょうから、もしよろしければ私が料理を作って差し上げますから、みなさんで楽しんで行かれませんか?、今日は他にお客さんも居ないので、この後は臨時休業にしちゃいますね!」と言ってくれて、彼女達も「そんなことして頂いていいんですか?」とマスターの心使いに喜んで乗ってくれました。
結局その日は夜10時過ぎまで話が盛り上がり、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。
私はモカブレンド、彼女はアメリカンコーヒー、何十年経ってもこの記憶は心の中から消えることは有りません。

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