教授と浅煎り珈琲

教授はいつも研究室のパソコンに向かって難しい顔をしていた。そばには必ず大きなマグカップに並々入った浅煎りのブラックコーヒーが置かれていた。

「酸っぱくて後味が残らない浅煎りのコーヒーの方が、苦みの強い深入りのコーヒーよりも、実は中に含まれているカフェインの量が多いんだ。だから僕は浅煎りを飲んでいる。」
眠気覚ましにな、とニヤッと笑いながら説明されたことをよく覚えている。

 
実験中はイキイキとしていた表情も、パソコンの前でデータと向かい合いながら執筆をしている時には消え失せ、ズレ落ちる眼鏡を直しながらいつもジトっと画面を見ていた教授。

 
私はその疲れ切った表情と、お世辞にも綺麗とは言えない姿勢で椅子に腰かけている後姿が面白く、データ解析をする振りをしていつも眺めては一人で音をたてないように笑っていた。
自分もいつか、教授の様になりたい。疲れ果てるまで研究したい。教授は私の憧れの人であり、目指すべき人だった。

ある日、実験で使用する薬剤を間違え、その日一日の実験をもう一度一からやり直さなければいけない日があった。
只でさえいつも夜まで掛かる作業だ、その日は大学で朝を迎える覚悟をした。
こういう日に限って研究パートナーは不在で、研究室でポツンと実験をしなければならなかった。

 

教授が毎日浅煎りのコーヒーを愛飲していた様に、当時大学生であった私もよく飲む飲み物が決まっていた。
大学の隣にある大学病院内に店舗が入っている、某コーヒーショップのカフェモカである。
大学から歩いて数分の距離にあり、それを買いに行くのは気分転換には最高だった。
そのカフェモカはとても甘く、飲むとエネルギー不足にあえいでいた脳が元気にある気がした。

一人だと無駄話をすることさえ許されず、面白いように実験は進んでいった。
毎日のルーチンであるはずの工程が、集中するとこれほど早く進むものなのか、と正直今までの自分がいかに怠けながら行って来たかを見せつけられたようで、少し苦しくなった。

 

それでも長く集中しているとさすがに疲れはやってきた。

丁度飲んでいたカフェモカも無くなったことだ、とまた買いに向かおうと思い時計を見たら、閉店時間をとっくに超える時間であった。

脳は糖分を求めているのに…
でも開いていないものは開いていないのだ。私は仕方なく軽くストレッチだけ済ませ実験に戻ることにした。

しかし一旦切れてしまった集中は、そう易々とは戻ってこない。
その後の作業ペースはガクっと落ちた。
これではいけないとあたりを見回す。するとある袋が目に入った。
教授の浅煎りの豆が入った袋だ。
「目撃者は誰もいない。この際ブラックでもいいや飲んでしまおう。」
私は慣れた手つきでコーヒーを淹れた。自分の為に入れるのは初めてだったので、ちょっとだけウキウキした。
コーヒーが注がれたマグカップをパソコンのそばに置き、私はデータ解析作業を再開した。
キーボードを叩く手を止め、マグカップに移す。
一口飲むとやはりお世辞にも美味しいとは思えなかった。
甘いカフェモカが好きな自分に、ブラックコーヒーは苦いという感想しかなかった。
その後一回もマグカップに手が伸びることは無く、時間が過ぎていった。

キィ、と研究室の扉が開く音がした。
時間が時間なので、突然の怪奇現象に思わずビクっと音のする方を向くと、犯人は教授だった。
初めての徹夜で一人ぼっちだった私の様子を見に来たらしい。
「今日、当直暇なんですか?」
「やっと時間が取れたから来てやった人間に言うセリフがそれか。」
「それはそれは大変失礼致しました…」
今夜も教授は眠そうだ。これならバレずにいける…と思ったが、あっけなく私のマグカップは発見されてしまった。
小突かれると覚悟を決めたが、思いもよらない言葉を掛けられた。

「ブラックコーヒーは甘いものと一緒に飲まないと美味いもんじゃないぞ。」
ゴソゴソと教授の私物がたくさん入った冷蔵庫を漁りに行き、持って来てくれたのはコンビニのロールケーキだった。
「小休憩しろ。」

お皿にも乗せられることなく、袋のまま机に置かれたが深夜に甘いものを食べる背徳感も相まって、とても美味しかった。
甘味が消えない内にすかさずコーヒーを飲む。
口いっぱいに少し酸っぱくてさわやかな後味が広がった。

「おいしい…」

一言つぶやいた私に教授はニヤッと笑った。
「俺の大事な食糧くれてやったんだ。とっとと仕事に戻れ。」
私の深夜の豪華スイーツパーティーはあっけなく終わりを迎え、教授は病院へ戻っていった。

それからは大きなミスもすることなく、卒業論文をなんとか完成させることが出来た。
論文を書き上げた時の達成感は未だに忘れられない。

 

卒業論文発表も無事終わり、国家試験が近づいてくると研究室内もそわそわと落ち着かない雰囲気になる。
大学を卒業できたとしても、国家資格がなければ就職できない都合上、否応無しにやってくるプレッシャーが学生を追い詰めていた。
私も例外ではなかった。
いくら模試で合格判定が出ていたとしても、本番どうなるかわからない。
勉強してもしても、どこまですればいいのかわからない、定期試験の様に終わりがなく、また範囲も広い。
得意科目で点数を稼がなければ…、不得意科目で少しでも点を落とさないようにしなければ…。
そもそもなぜ得意科目と不得意科目が出来るような勉強をしてきてしまったのか…。
今振り返ってみても、人生で一番勉強したのは国家試験勉強だと思う。
もう夢の中でもプレッシャーに負け、泣きながら勉強をするなんてしたくないと心底思う。
そんな時期だった。

「大分やられてんな。なんだその顔。」
研究室に勉強道具を取りに行った時、教授に掛けられた言葉。
確かに食事、トイレ、睡眠、入浴以外ずっと勉強していたら、どんな顔になるのかなど想像に容易かった。
「……。」
いつもなら軽口の一つも叩けるが、その時は何も出てこなかった。
頭が真っ白になって、口は開くが声が全く出なかった。
その時に思い出した。私は一週間誰とも会話をしていなかった、と。
どうしよう、喋れない、声が出ない、そもそも言葉が浮かばない、あたふたしている私に教授がまた声を掛けた。
「心配すんな、受かるから。寝坊だけはすんなよ。」
頷くことしか出来なかったので、何回も何回も頷いた。
大分怖かった、と教授が思ったと知らされるのは就職してからだった。

研究の道に進みたかった私も、色々あって病院に就職した。
「お前は臨床の方が向いてる。」と言われたことも大きいが、そもそも意地を張って受けた研究機関の一社にもかすりもしなかったからだ。
無事就職が決まったことを報告して以来、大学には行っていない。
毎日慌ただしく過ぎていく中でなかなか時間を作れないのもあるが、単純に行く意味が見つからないからだ。
教授はというと、飲み会で後輩から聞くに元気にしているようだ。
「たまには遊びに来てくださいよ~。」
と言われはするものの、今更どの面を下げて研究室に入って行けばいいのかわからない。

ふらっと立ち寄った喫茶店で、おしゃれな街のカフェで、はたまた有名ホテルのディナーの締めでも、浅煎りのコーヒーが出されると、今でも教授の顔が目に浮かぶ。

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