甘さと苦さのバランスが人生?

「出て行け! 離婚してやるよ!」
髪をわしづかみにされ、玄関の前に連れ出された私は、ぶたれた頬に手を当てながら、靴を履きました。このまま家を追い出されるのだなとただ漠然と考えていましたが、取りあえず出ていくにもお金も必要だったため、旦那に小声で私のカバン・・・とだけ伝えました。
その声は恐怖で震えているというよりも、早くこの場から立ち去って、事を終わらせたいという思いが強かったのかもしれません。
興奮状態にあって逆上したままの旦那は、台所にある私の赤いかばんを取りにいきました。
これで最後になるかもしれない我が家を見渡し、私は投げつけられたカバンを強く胸に抱きしめました。
背を向けて去っていく旦那の後姿を見送ることなく、私は駆け足で玄関を後にしました。

ことの始まりは、私の浮気が原因です。
私の旦那は酷い男でした。仕事もほとんどしませんし、再就職が決まっても二日と持たずに帰ってきました。生活費は私が結婚前から貯めていた貯金を切り崩して生活をしていましたし、なんとか私のアルバイト代で生活費を補っていました。
まだ30になったばかりで子供はのぞめますが、産むと言う選択はしませんでした。旦那は欲しがっていましたが、とても育てられる環境ではなく、子供の将来に対する責任が取れないと思ったからです。
そんな旦那も、いつしか私に暴力を平気で振るうようになってきました。
うまくいかない仕事や、私が夫婦の行為を拒むことへのいらだちからか、すべての原因は私にあるといって、物を投げつけられ、時には暴力、無理やり関係を強要されたことも何度もありました。

精神的に私も弱っていたのかもしれません。旦那の元から逃げ出すと言う事をせず、なぜか何も考える事ができないまま日々を耐える生活をしていました。

そんな時、私は一人の男性に惹かれてしまいました。
彼は私のアルバイト先であるカフェのオーナーです。
この職場で働いている時が、私の唯一心が休まる時間となっていました。
とても緩やかに時間が流れるこのカフェは、オーナーが入れるこだわりの焙煎コーヒーが自慢の小さな田舎のカフェです。彼が以前なんの職についていたかは知りませんが、趣味を楽しみながら生活を過ごしていきたい、と正面を向いて遠くを見つめる彼の横顔に、私の失われていた人生の希望が思い出されてきました。
彼の夢を応援してあげたいし、それを手伝う事こそが私の喜びでありたい。
生きる希望もなく、死人のように過ごしていた私には、彼の存在そのものが憧れでした。

けして若いとは言えないけれど、彼は40代にしては若く見え、比較的おしゃれにも気を使っているタイプの男性でした。少し昔の懐かしいトレンディードラマに出てきそうな、やや濃い目の眉毛がなんともユニークで、少し日に焼けた顔からこぼれる真っ白の歯が私には最高に素敵にみえました。

にっこりと口角を上げて、やや切れ長の目を細めながら、彼はいつもコーヒーを入れています。
ふわりと広がるコーヒーのアロマ。その香りが私の心を毎日とかしてくれました。
どのお客様にも心から感謝の気持ちを込めて、オーナーは毎日コーヒーをたてています。時折、仕事を終えた後にも私に入れてくれたことがありました。

「今日の味はどう?」
そう聞かれても、私はいままであまりコーヒーを飲んだことがなかったので、味の違いがわかりません。ですが、嘘を並べても失礼だろうし、見聞きしただけの知識を披露したところで、ぼろが出るだけです。
いつもより苦いかな・・・。でも今日はこの苦さがおいしく思えます。
そう素直に伝えました。
オーナーは焼いてあった販売用のクッキーを小さなお皿にのせ、私の前にそっと置いてくれました。
「これを食べると、その苦さも一層おいしく感じられるよ」
オーナーのさりげない優しさと気づかいに、私は久しぶりに笑顔を作れた気がしました。
「苦さと甘さのバランスが美味しさのカギだよね。これって人生でも同じことがいえないかな?」
そう言い残して、オーナーは奥のキッチンへと背をむけました。

どういう意味だろう・・・。
私は最後の一口をなかなか飲むことができないまま、クッキーを少しずつかじり、水をのんでいました。
これを飲み終わったら、私は旦那の待つアパートに戻らなくてはならない。
このカフェは夢で、私は夢から覚めて現実へと戻らなくてはなりませんでした。

アパートの前に立ち、部屋の明かりがついていないことに私はホッと胸をなでおろしました。
旦那がいない事への安心感からか、部屋に入ると私はすぐ布団へと向かいました。
甘さと苦さのバランスが取れていると美味しい・・・。
確かに苦いコーヒーがおいしく感じられたけれど、甘いクッキーを食べてから飲んだコーヒーの苦さはひときわおいしく感じられました。
人生にも何か通じるものがあるのかな?
コーヒーに夢を求めているオーナーから発せられた何気ない一言ですが、私は気になって仕方がなかったのです。
今から店に戻って意味を聞こうか、いや、明日仕事の時に何気なく聞いてみようかな。それともメールできいてみようか・・・。
窓の外から見える月はいつもよりもあたたかく感じられ、外から入ってくる風からは秋の夜の匂いがしました。久しぶりに、私はこの地球に生きているという実感がわいた日でした。
こうしてオーナーのコーヒーの味を思い出しながら、その気がかりな言葉を何度も反芻しつつ、私は1年ぶりの平和な夜を過ごしました。

翌朝、私は旦那が戻っていないことに安堵しつつ、理由を考えることもなく、急いで職場のカフェへと自転車を走らせました。
「あら、今日はなんだかきれいだね」
オーナーの朝の挨拶は、いつもお世辞で始まります。少し照れくさそうにお辞儀をする私に、オーナーは面白がって、何度も本当だよと言ってくれました。
オーナーは3年ほど前に離婚をして、いまは独身だとか。詳しくは聞かなかったし、どうでもいいと思っていました。
彼と関係を持ちたいとか、親密になりたいなんて全く思いませんでしたし、私にはオーナーという存在が傍にいてくれるだけで奇跡でした。
オーナーに昨日の話をしてみることに。
甘さと苦さのバランスが人生?
私はカフェの掃除をしながら、鼻歌が聞こえるキッチンに声をかけました。
「ああ、あれね」
オーナーはおしゃれなボサノバのリズムにあわせて軽快に仕込みをしながら、軽い口調で言いました。
「スウィートな君とビターな僕。二人合わせて最高のコーヒーができあがりそうでしょ?」
もう!
いつも軽いノリで私をからかうオーナー。でも、すごく嬉しかったりもします。赤くなっただろう火照った顔を隠すよう、私は照れながら、オープンに向けての作業に戻りました。
「あらぁ・・・。適当男は嫌われちゃったかなぁ?」
既婚者でもある私にかけられる言葉なので、本気なわけがない。リップサービスだとわかってはいたけれど、そんなオーナーにどんどん惹かれていく自分がいました。

最初はこの人のそばにいられたらそれでいい。そう思っていました。
この人の夢に少しでも手を添えられているだけで幸せなのだと思っていました。

ですが、いつしか欲がでてきたのです。
この人と、一緒に夢がみたい、と。

彼の入れてくれるコーヒーを、私が毎日飲みたい。彼からコーヒーについていろいろと学んで、彼の見ている世界を私も一度見てみたい。そう思うようになっていたのです。

お店の常連さんが、朝のオープンと同時にやってきます。
「ねえ、君。最近なんかきれいになったね。化粧もばっちりキマッてるし。あ、もしかしてイケメンオーナーとできてるんでしょう」
軽い冗談で話しかけてくるお客様に、私はお水を運びながら、できてませんよぉ。私の片思いなんですよねぇと少し大き目な声で言ってしまいました。
冗談とわかる内容かもしれませんが、やや思いが伝わってほしいと言う気持ちがあったのは嘘ではありません。
その仕事帰りです。
オーナーがいつものように私にコーヒーを入れてくれるのですが、どこか静かな面持ちでした。
そして、めずらしく私の隣に座るオーナーから、私は目がそらせなくなってしまったのです。
「もし僕の勘違いだったら、ごめんね。もしかして、僕は片思いじゃないのかな?」
一瞬、私は目を閉じ、そしてまた彼を見つめました。
どういう意味ですか?と聞こうと思いました。
ですが、私も30を過ぎた女です。
これがどういう意味かは、本当は知っています。

「君が既婚者だってことは知っているし、こんな思いをもっちゃうのもダメなんだろうけど・・・」
困ったように髪をかき上げるオーナーの顔が、少し困ったように眉を寄せていました。
「君の家の事情は知っているよ。でも、好きな子に何もしてやれないのも辛いしさ、その・・・」
言いにくいのか、言葉をのどの奥でかみ殺すように、オーナーは私をじっと見ました。

この歳になって、これほどの恋をしたことがあったでしょうか。
すき、物凄く大好き。そう何度ものど手前まで声がきている感覚です。
昔の懐かしい感覚がよみがえってきて、高鳴る心臓の音が聞かれてしまわないかと、そればかり必死で何度も息をのみ込みました。
オーナーが入れてくれたコーヒーの香りが、私の背中を押してくれました。
私、苦いコーヒーが好きですよ。本当に好きです。・・・私との・・・バランス、取ってくれますか?

そう下から見上げる私を、オーナーは目を細めて微笑みながら小さく、何度もうなずいてくれました。

私は辛い現状をすべて捨てられる、と決心することができました。そして、意をけしてその日は家に戻り、前々から自分の欄だけは記入をしておいた離婚届を、酔っ払った旦那に手渡したのです。
私は自分の足で地面を踏みしめることが、これほど嬉しいものだと感じた事がありませんでした。
この一歩一歩が、オーナーの待つおいしいコーヒーのお店へとつながっているのだから。

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