罪と恋と珈琲

私はコーヒーが好きだ。しかしそれは、自分にとって罪の味である。飲むたびにほんの少しの罪悪感と、ノスタルジィを感じてしまう。

学生時代、密かにあこがれていた先輩がいた。容姿端麗で頭の回転が速く話し上手だった。でも相手には常に彼女がいて、自分には手の届かない存在だった。時が流れ大人になり、そんな先輩とも親しくなり、自分がかつて恋心を抱いていたことさえ忘れていた。

 

先輩は喫煙者で、コーヒーを好んでよく飲んでいた。私はいつもミルクティだった。そんな私の事を「味覚がお子様だ」とからかうのだった。

先輩の結婚が決まった。心から私は祝福した。しかし先輩はあまり乗り気でないようで、いわば”マリッジブルー”のような状態になっていた。
「結婚前に良い思い出が欲しい」
と、悪あがきのようなことを言い出した。最初のうちは酔っぱらいの冗談だと流していたが、先輩はかなりしつこく、飲みに行くたびにこのような誘いをかけてきたのだった。

ある日車で二人きりになったタイミングで、先輩が抱きついてきた。なんだかあまりにも哀れで、振り払うことが出来ず、私は初めて応じてしまったのだった。

 

そのころ丁度自分もフリーだったし、先輩に短い夢を見せてあげてもいいかと、魔が差してしまったのだ。辛い恋愛を終えたばかりだったので、気晴らししたいという気持ちもあったのだった。本気にならず、遊びで終わらせられる自信があったのだ。

なぜなら、今の先輩の姿は、私が憧れていたころとは全く違っており、小太りで髪型もオジサンのような短髪だったからだ。ハッキリ言って好みではなかった。遊びで終わらせて、半年後には笑顔で先輩の結婚式に出席しているビジョンもしっかりと浮かんでいた。

そして、先輩との期間限定の恋人ごっこが始まったのだった。

その翌日から、二人で海に行ったり、映画を観に行ったり、川遊びや深夜の散歩をしたり、まるで高校時代のようなデートを重ねた。二人とも高校時代は奥手だったので、こういう青春のようなデートを飛ばして生きてきてしまったようなところがあったのもあり、なんだか、ピュアな青春時代をやり直しているような感覚さえあった。

しかし、心のどこかでは、恋愛ごっこに過ぎないという虚しさがあったり、先輩のことを哀れに感じてしまい、「自分は何をやっているんだろう?」と、ふと我に返る瞬間があった。

 

そんな私とは対照的に、先輩の気持ちは盛り上がって、毎日私の家まで会いに来るようになった。仕事が終わる頃には電話があり、メールも一日10通以上くるようになった。こちらはこの関係がバレないかと冷や冷やしていたのだが、先輩はこちらには彼女の事を少しもにおわせないようにしつつ、上手くやっていたと思う。少しでも体調が悪いというと、心配して病院に送り届けてくれた。ポロリと、「昔の先輩はかっこよかった」といった翌日から、先輩は過酷なダイエットを始めた。

 

極めつけはキャンプのバーベキューだった。先輩は私のために、バーベキューの仕込みを前日から時間をかけてやってくれた。

私の心は揺れていた。ここまで自分に尽くしてくれるような人に出会ったことがなかったからだった。でもこれは疑似恋愛に過ぎず、だからこそ先輩はここまでできたのかもしれない。

アウトドアの時先輩は必ず、コーヒーセット一式を持ってきた。コーヒーを焙煎からする本格的なものだった。「外で飲むコーヒーは最高なんだよ」と言う笑顔につられて、私も苦手だったコーヒーを飲んでみた。

先輩の淹れてくれたコーヒーは、ただ苦いだけではなく、深みがあってとてもおいしかった。今までは缶コーヒーやインスタントで飲まず嫌いだったのかもしれない。でもなにより、私のために一生懸命淹れてくれた真心がさらにコーヒーを美味しくしてくれた。

 

何度かケンカしたこともあった。電話で言い合いになり、二人で泣きながら怒鳴りあったあと、目を腫らしたまま会って笑いあった。普通の”友人”時代には、ここまでお互いに踏み込んで向かい合うような事がなかったので、このような関係になったことによる収穫だとも思った。

私は葛藤していた。本気にならないように、彼のことなど好きではないと思い込もうと努力していた。もし本気で好きになってしまったら、自分はこの先どうなってしまうんだろう?彼の結婚式に耐えられるとは思えない。

彼の結婚まで3か月を切っていた。意を決して別れを告げた。先輩は不意打ちだったようで、動揺してただ「そうか…」とつぶやいただけだった。分かっている。先輩は引き止めたりしないであろうことを。自分に負い目がある関係なのだから、別れるのも続けるのも、私に決定権があるのだ。

翌日、すべての景色が変わっていた。先輩と一緒だったらあんなに鮮やかに見えた景色がとても退屈で色あせたものに見えてしまう。しかし、本気になる前に関係を断って良かったのだ。そう思おうとしていた。いつもあるおはようのメールも、お疲れ様の電話もなかった。私は今までどうやって生きていたんだろう?先輩と恋愛ごっこをする前の事が思い出せない。ほんの数か月前のことなのに。

 

数日後、あまりに酷い雨なのに傘を持ってきていなかったので、ひとまず会社から近場の喫茶店に飛び込んで雨宿りすることにした。気づけば私は、コーヒーをオーダーしていた。なんでミルクティにしなかったんだろう?

運ばれてきたコーヒーの、淹れたての懐かしい香り。一口飲んで私は泣いてしまった。どうして大丈夫だなんて思ったんだろう?どうして先輩の事を本気で好きにならないなんて思ったんだろう。心のどこかでずっと待っていたくせに!雨脚は強くなる一方でこのまま永遠に止まないような気がしてきた頃、電話の着信が入った。

「どうせ傘持ってないんだろ?」その声は、数日ぶりと思えないくらい懐かしかった。そして心なしか涙声だった。

結局、意を決して別れようとしたのに失敗してしまった。しかし、時間はどんどん過ぎて、期間限定の恋愛ごっこに終わりの時が迫っている。先輩と会えない日が増えてきた。式の準備が大詰めになっているであろうことは想像がついた。

ある日、共通の友人達に飲みにいったときの事だった。先輩の結婚式の招待状の内容で盛り上がっていた。私は冷や汗をかきながら話を合わせていた。なぜなら、私の元には、先輩の結婚式の招待状が届いていないからだ。もう目をそらせない現実はそこまで迫っていた。

好きになってしまった分、別れは辛かった。しかし、本当のタブーとなる関係だけは避けたかった。あくまで「期間限定の恋人ごっこ」として終わらせなければならない、そう思っていた。今の関係ですら、許されないことは分かっている。

結婚式まで1週間と迫ったころ、先輩に会いたいと連絡した。私から催促したのは初めてだった。先輩はうきうきして迎えに来てくれた。私は今までで一番メイクに時間をかけて、ずっと笑顔で先輩に甘えた。穏やかなデートが終わり、家の前まで送ってもらったところで、彼に紙袋を渡した。

 

先輩はまるで何かプレゼントをもらったかのように喜んだが、その中をのぞいて、表情が曇った。中には、今まで借りていたDVDやCD、もらったプレゼント、二人の写真などを入れておいた。それだけで何を言わんとしているかは理解できたんだと思う。まさか今日別れを告げられるとは思っていなかったようで、驚いたようだった。そして中には手紙を入れておいた。帰ってから読んでください、と笑顔で告げて車を降りた。あっけにとられた顔をしていただろうか?それとも納得した表情だったのだろうか?冷静にふるまいながらも、彼の顔を見ることが出来なかった。悲しいかな、その頃はすっかり痩せて髪も伸び、私が憧れていたころの先輩に戻っていたのだった。

手紙の内容は、「いままでありがとう」というようなものではなく、ひたすら恨みつらみを書き綴ったものだった。「結婚前のくせに私を弄んだ」「尊敬していたのに裏切られた」そんな文句を延々書きなぐった。本当は先輩だけが悪いのではなく、それを承知で応じた私にも十分落ち度があるのは重々承知の上だったが、こうやって先輩を悪者にして仲たがいするしか、私には先輩から離れられる方法が見つからなかった。先輩の結婚式は、体調不良という事で欠席した。もちろん、招待状すらも私のところには届いていなかったけど。

その後、先輩から連絡はあったが無視した。応じるのは簡単だけど、もう二度と同じ苦しみを味わいたくはなかった。

しかし、どれだけ時が経っても先輩のやさしさが忘れられず、本心では「偶然会えたら…」と願い続けていた。自分から連絡など取れるはずはないが、偶然再会したなら、神様のいたずらということに出来るかもしれない。しかし、そんな都合の良い奇跡は起こらず、ただ月日が流れていった。

新しく誰かと付き合っても、どうしても先輩との日々と比べてしまう。先輩の香りをもとめて吸っていた煙草を吸うようになり、すっかりコーヒー党になっていた。たった半年間の出来事なのに、なぜこんなに私の心を縛ってしまうのだろう?

それから4年経ったころ、おもいがけず再会のタイミングが巡ってきた。共通の知人の式。そこには、奥さんと子供と、小太りでオジサンのような短髪にもどった先輩の姿があった。

 

あんなに恋い焦がれた先輩は、まだ4年前のあの頃に閉じ込められたまま。今ここに存在しているのは、優しい家庭を愛する普通のお父さん。私は一体誰と会おうとしていたのだろうか?私の思い出の中の先輩はもういないのだ、とはっきり事実を目の当たりにした時、なんだか力が抜けて笑ってしまった。寂しさから吸い始めた煙草もその日からぱったりとやめてしまった。

 

だけどコーヒーは今も好んで飲んでいる。飲むたびに、あの汚れた関係なのにピュアだった夢みたいな短い恋が少しよみがえる。その瞬間だけちょっとあの頃の自分に戻ることが出来る。罪のようなほろ苦さと、不器用な恋の酸味が、私にとってはコーヒーの味である。

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