職員室のコーヒー

私がまだ中学生だったときのこと。いつも職員室でブラックコーヒーを飲んでいた数学の先生に、少し遅めの初恋をした。

きっかけはとても単純。中学3年のときの運動会だった。職員対抗リレーで他の先生をすごい速さでごぼう抜きにして、応援する私の目の前を走り去る横顔が格好良く思えたから。そんな単純なことがきっかけで、いつも暇さえあればコーヒーを飲んでいた先生のことを好きになってしまったのであった。

それまでコーヒーといえば、母から「成長期の体には良くない」「飲んだら不眠症になる」だのなんだのとマイナスイメージばかり植え付けられていたので、当時はあまりいい印象を抱いていなかったので、香りを嗅ぐことすら好きではなかった。
だがそこは恋する女子中学生。件の先生はいつもコーヒーの香りがしていたので、刷り込みのように、その香りを嗅ぐだけで胸は高鳴り、顔は真っ赤に。コーヒーの香り=恋の香り。という方程式が私の中に出来上がっていた。

 

恋に恋するような年頃の私であったが、好きになってはいけない人を好いてしまった。ということは分かっていた。初恋は実らないとはよく言ったものだが、実らせてはいけない初恋をする人は我ながら珍しいと思う。高校生になれば先生と会うことはもう無くなるので、いつでもこの恋を思い出せるように、その先生の姿をブラックコーヒーの香りを覚えておこう。と思いながら残りの中学生活を過ごしていた。

本来の中学3年生の秋から冬にかけての過ごし方というのは、受験に向けて猛勉強するというのが通常である。よほど余裕があるか、よほどバカでない限り恋愛にかまけている時間はないはすだが、当時の私は(もちろん後者)これ幸いにと、可能な限り何度も職員室に足と参考書を運び、コーヒーを飲んでいる先生に数学勉強の指導をお願いしていた。
優しい先生だったので、いつでも丁寧に教えてくれた。それは嬉しくもあり、同時に悲しくもあった。やはり数学でしか繋がりがないということが身に沁みたからだ。

いつものように、放課後の自主学習時間を迎え職員室に入室したときだった。扉を開けた瞬間、淹れたてのコーヒーの芳しい香りが、ふわっと私の鼻をくすぐった。その何とも言えない温かくて幸せな香りを嗅いだとき本当に心から幸せだと思った。私が香りに呆けていると、先生が「自分のコーヒーを淹れていたんだけど、君がそろそろ来ると時間だと思って、今日は特別に君の分も淹れておいたよ。いつも頑張ってるからね。あ、他の生徒には内緒ね」と人差し指を自分の口に当てながらコーヒーの入ったカップを渡してくれた。

生まれて初めて飲むブラックコーヒーだった。先生は「ミルクと砂糖を淹れたほうがいい」と言ってくれたが、どうしてもそのままで飲んでみたかったので、ドキドキしながら口を付けると強烈な苦味に目を白黒させてしまった。「ハハハ、だから言ったのに」と先生は笑いながらステッィクシュガーとミルクを渡してくれた。2つずつ入れてみてやっとお子様でも飲める味になったが、その日の勉強は正直頭に入らなかった。覚えているのはコーヒーの香りと、なんだかよく分からないままノートに書き記した数字だけ。どうにか勉強している体ではあったようで帰り際に先生から「今日はなんだかいつもより真剣だったね」とお褒めの言葉らしきものをいただいた。

それからというもの、自宅で勉強するとき、コーヒーは欠かせない存在になっていった。もう母がなんと言おうが知った事か。コーヒーは私に幸せと元気をくれるのだから。

受験勉強が佳境に入り、私だけに数学を教えられるほどではなくなってしまったので、数人の生徒対先生という複数人という形で自主学習時間を迎えることに。それでも、先生が教えてくれる、ということだけで嬉しかったし、何よりあの日のコーヒーの香りを思い出すだけでいくらでも勉強を頑張ることができた。

当時はまだ携帯を持っているほうが珍しかった時代で、今のようにメールだSNSだなんだと簡単に連絡をとりあうことは出来なかった。だから憧れの先生に会えたり、話したりできるのは学校だけだった。だから学校にいるときは少しでも先生の姿を目に焼き付けようとしていたのだろう、いつも私の視線は先生にグギ付けで、そんな事に他の女子たちが気が付かないわけはなかった。

週末も家でコーヒー(ミルク2つ砂糖2つ)を飲みながら勉強し、また先生に会える一週間が始まると思いながら登校すると、教室に入るやいなや数人の女子生徒に囲まれ「ねえ!○○先生と付き合ってるって本当?!」と問い詰められた。
月曜の朝に秘密の恋がバレる瞬間ほど最悪なことはない、と思春期の私は思った。バレてしまった。先生に迷惑がかかる、どうしよう。という思いばかりがくるぐる頭の中を高速で駆け巡り、何も答えられないでいると幸いなことにホームルームを告げる鐘がなり、自席に逃げることが出来た。だが、休み時間も彼女たちの好奇心が静まるは無かった。私は知らぬ存ぜぬを貫き通す気でいたが、それでは彼女たちの気はすまなかったらしく、いつまでも私に同じような質問を投げかけてきたのだった。もう私は観念して、一方的な片思いで、成就させるつもりもない。と正直に話したところ「ええ!そんなもったいない~!せっかく同じ場所にいられるものあと少しなんだよ。アタックするだけしちゃいなよ!」と恋バナが人生の主成分のような彼女たちは私に言った。

それができるくらいなら最初から秘密になんてしていないよ。とは言えずに苦笑しながら「アドバイスありがとう。できたらやってみるよ。せめてそれまではこの事は内緒にしていてほしい」としか私の口から出せなかった。内緒にしてほしいという願望が言えただけでも引っ込み思案の私には上出来な返答ではあった。

彼女たちもなんとか納得してくれたようで「分かった。陰から応援してるね。がんばって!」とのこと。いやいや、私の応援はいいから君たちも受験勉強を頑張りなさいよ。ともやはり言えなかった。

受験を控え学年全体の空気がピリピリし始めたときでも、先生がそばを通ってコーヒーの香りを感じるたびに、嬉しい気分になった。私の目指す高校は公立ではあるがそこまでレベルの高い学校ではなかったので、進学校を目指す他の生徒たちよりは比較的勉強内容は安易ではあったが、合格しないわけにはいかなったので、毎日机にかじりついていた。
それでも今思い出すと、ただ受験勉強だけを考えていたわけではなかったので、真面目に勉学に勤しむ方には悪いが幸福な時期だったと思う。

そうして迎えた試験当日、みなそれぞれが志望する学校で試験を受けた。初めて訪れる地での試験。緊張しないわけはなかったが、なんとか午前の試験を終えて昼食の時間を迎えたときだった。母が弁当を何故か水筒を2つ用意してくれていた。そのうち一つには冷たい玄米茶が、もう一つにはなんと、ホットコーヒーが入っていたのだった。母は頑なにコーヒーを否定していたが、私が勉強の共に選んでいたコーヒーを、水筒に入れてくれていたのだった。恐らくは私の緊張をほぐすために用意してくれたのだろう。その心遣いが本当にうれしくて、なんだか母に認めれた気分になった。
ちなみに大人になった今、なぜあんなにコーヒーを否定していたのかを母に訪ねてみたところ、コーヒーよりも紅茶や緑茶が好きだったから。というこの親にしてこの子ありといった具合に単純な理由であった。

いろんな人のおかげで、なんとか志望校に合格することが出来たが、人生そういい事ばかりが続くわけではないと15歳の私は思い知ることになったのは、合格報告をするために職員室に駆け込んだときだった。
いつもよりもとても賑やかで、他の先生方が「みんなの受験にあわせて報告を待ってくれていてありがとうございました」というような事をあの先生に言っているのが聞こえてきた。そして先生を見ると恥ずかしそうに頭を掻いている左手の薬指にきれいな指輪が光っていた。「こちらこそ、こんな時期の報告になってしまい申し訳ない。全員が志望するところに行けたわけではないので、生徒たちには何も言わずにおこうと思います」真面目に話す先生の姿に私の上昇していた気分は一気に下降して、心の底に沈んでいった。それでもいつもと同じように職員室には芳しいコーヒーの香りが漂っていた。

最初から分かってはいたのだ。叶うわけはない、叶えてはいけない。それでも、もしかしたら、という淡い期待を抱いていたのだろう。合格して嬉しい気持ちはなくなり、私の心は失恋で灰色だった。

先生が結婚したことはすぐに学校中に知れ渡り、私を応援?してくれていた彼女たちの耳にも当然届いていた。「残念だったね・・・。」「私はあなたのほうが先生のお嫁さんにいいと思う!」「次があるよ!」等々、何の根拠もない慰めをいただいたが、傷心の私は彼女たち優しさをありがたく受け取った。

 

進路と恋の行く末が決定した後の学校生活はなんとも味気ないものになってしまったが、私の通っていた中学校は掃除当番場所の入れ替わりが早いことが幸いして、最後の掃除当番場所として、職員室を選ばせてもらえた。せめて思い出だけでも心に刻もうという魂胆である。転んでもタダでは起きない中学生。

掃除をしていて初めてわかったことがあった。先生が淹れていたコーヒーはインスタントなんかではなく、きちんと豆を挽いてドリップしていたものだった。職場でもこだわりのコーヒーを飲む人だということらしい。そんな事にも気がつかなかった私はやはりお子様であると痛感した。

人生初めての受験、コーヒーと恋、そして失恋。たった数ヶ月のあいだに随分と色々な経験をさせてもらった。あの時の苦いコーヒーのような結果に終わってしまったが、幸せを感じたことに偽りはないので、今でもとても大切な思い出として私の心の中に残っている。

そして年を重ねた今の私が飲むコーヒーは、もう砂糖もミルクもいらない。
ブラックコーヒーである。

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