馥郁と香るコーヒー

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あなたと飲むコーヒーが一番好きだった…。

あなたは私に欠かすことなく、毎朝のようにコーヒーを淹れてくれた。

こだわりのコーヒーはいつでもとても美味しくて、お店で飲むよりも美味しい温かな味がした。

それが、こんなに遠くに離れて暮らさなければならなくなるなんて…。

でも、私はあなたについて行きたいとは言えなかったし、あなたもそう言ってはくれなかったから。

変わらずに一緒にいるものだと思っていた私は…本当にあなたのことを何もわかっていなかったのかもしれない。

私の仕事のことを誰よりも理解してくれ、私が仕事を捨てられないことも理解してくれていたから、一緒に行こうとは言わなかったのだろうと頭では理解している。

あなたと私の間に流れるコーヒーの香りが好きだった。

当たり前にあると思っていたあなたのぬくもりが、失われることがこんなに辛いと感じるなんて…こんなにも自分が空っぽになるなんて。

仕事が一番だとあなたに言い続けていた私。

何があっても絶対に私は仕事を辞めないから、といつでも冷静に伝えていた。

離れて暮らすようになってからの方が、あなたと一緒だったことが私をどれほど満たしてくれていたのかを感じるようになった。

あなたが一緒にいた時は、そのことを本当に当たり前だと思っていた。

私が仕事を辞めないと言っていたとしても、一緒に行かないか?とまったく聞いてもくれなかったことは、今もわたしの心に深く刺さったままで…。

あなたがアメリカ・ニューヨークに行ってからもう3ヶ月が経とうとしているのに、未だにひとりで暮らすペースに慣れずにいる。

あなたと暮らした4年間。

一緒にいることが私にはあまりに自然になり過ぎていたから。

でも、どうしても素直に言えなかった…一緒にいたいって。

もっと話し合いたかったって。

大学の先輩の彼が21歳、私が20歳の時、一緒のサークルだった彼がコーヒーを淹れる姿に私が一目惚れだった。

淹れてくれたコーヒーを飲んで、そのやわらかいやさしい味にさらに惹かれた。

私の方から押しかけるようにして友達になり、やがて付き合うようになり、一緒に住むようになったから、本当は私、心のどこかで不安だった。

彼はやさしいから私と一緒にいてくれるけど、好きなのは私だけなんじゃないか?っていつもどこかで思っていた。

どんなにわがままを言っても、それを咎めたりすることがない彼。

いつもとてもやさしい彼。

だけど、私がいつでも彼にわがままを言ったのは、きっと不安だったから。

本当に私と向き合ってくれているのだろうか?といつも不安だったから、一緒にいるけれど心が本当に寄り添っているのかを確認したくて、わがままを言って彼に咎めてもらいたかったのかもしれない。

彼のことを好きになればなるほど、コーヒーの香りがやさしく包んでくれるほどに私の心は不安を感じていて、その不安を見たくないから抵抗していた。

…本当にバカだと思う。

一緒にいながら、大好きなのに怖くて自分の本心を言えなかったのだ…4年間も。

その間、彼はいつでも一緒にいてくれたのに、本心を晒せないまま時間だけが過ぎ去っていってしまった。

彼と過ごす時間、淹れてくれるコーヒーの香りを忘れることなど出来ない…。

別れようとなった訳ではないけれど、先の約束など何もしなかった。

ただ同居を解消して、旅立って行った彼。

散々、わがままに付き合わせていた私が、彼に今さら何を言えるのだろう?

彼のやさしさに甘えるばかりだった私が…そんなことを考えると鬱々としてしまう。

彼からの連絡はまったくなくて、途絶えてしまった。

最後に連絡をくれたのは、アメリカに行って1週間が経った頃にくれた電話だった。

その後、彼から連絡をくれることはなくなったのだ。

私からも連絡していない。

どこまでも意地っ張りで怖がりな私は、連絡して返事が帰って来ないこと、拒絶されることが怖くて仕方ないから自分から連絡が出来なくなっていた。

彼から拒絶の言葉を聞いてしまったら、今の私には耐えられないだろう。

だから聞きたくない…と思ってしまっている。

最初に彼に出逢った時に向かっていった勢いなんて今の私にはない。

あの時は失うものなど何もなかったから。

ただ彼と一緒にいたかっただけだから。

今は失うかもしれない…そう感じることが怖くて、失うことを受け入れる勇気がないから、自分から連絡が出来なかった。

彼が残していったコーヒーの道具でコーヒーを淹れてみた。

だけど、彼が淹れてくれるような馥郁とした香りの温かな味にはならなかった。

同じお店のコーヒー豆を使って、同じように淹れているのに…本当に不思議だ。

私は彼が淹れてくれるからコーヒーが好きだったんだな…って自覚してしまった。

当たり前にあった風景がとてもしあわせだったこと。

失ってから気づくなんて、私は本当にバカだ…どうしてもっと彼に自分の想いを伝えなかったんだろう?

怖さが私をとても臆病にしてしまっていた。

彼と4年間過ごした部屋でひとりで過ごすのは、思っているより私の心を疲弊させていた。

彼との思い出の場所を離れ難い気持ちと、思い出から逃げたい気持ちが入り混じっていて、私の心を蝕む。

私がこんなに心を蝕まれるなんて…自分はもっと強い人間だと思っていたから結構ショックだった。

もう何もかも忘れるために、この場所を引き払って新たな場所で出直そうかな…。

ひとり取り残された部屋は少し広過ぎて寒々しい。

この部屋の何もかもすべてが彼を思い出させるから、離れれば少しは楽になれるような気がした。

今の部屋を引き払い、今より会社に近くてひとりで暮らす部屋を借りたくて、友達の友達が勤めている不動産屋さんを紹介してもらった。

友達の幼馴染だそうで、高身長でかなりのイケメン。

友人の彼女にとっては兄弟みたいな関係の人だそうで、彼はとてもいい奴だから何かと力になってくれると思うから…と引き合わせてくれた。

「もういい加減、次に進んだら?」

って、最近は逢うたびに彼女は言う。

アメリカまで押しかけて彼を押し倒すか、諦めるか…どっちかにしたら?って。

…それが出来たらどれ程いいだろう。

出来ないのなら…連絡もない今、何時日本に戻ってくるのかもわからない彼のことを引き摺っても仕方がない。

彼女の言うとおり、もう諦めるしかないのだろう。

友達と不動産屋の彼と私の3人で飲みに行き、その場でお部屋探しのサポートをしてもらうことに決まった。

もう、吹っ切ろう…諦めよう…環境を変えよう…そう思っていた。

次はふたりで逢うことになり、具体的にどういう部屋を借りたいのかを整理することになった。

私はどんな場所でもいいと思っているのだけど、探してくれる彼にはそういう訳にもいかないのだろう。

1週間後の金曜日の夜に待ち合わせて一緒に食事をしながら打ち合わせをすることになり、それまでにどういう場所を求めるのかを具体的にして来てと言われた。

1週間の間、色々と考えてみたけど、まったく何も浮かばなかった。

どんな場所に住みたい?って考えても、彼と一緒に過ごした日々が浮かんでくるばかりで、私ひとりで新しく生活をはじめる実感がまったく湧かない。

本当にバカだと思うけれど…どうしようもなかった。

そうこうしているうちに1週間が経ってしまった。

友達が紹介してくれた不動産屋の彼と食事しながらの打ち合わせの日。

どうしても今抱えている案件のクライアント回答を待たなければいけなくなり、待ち合わせの時間には到底間に合わなくなってしまった。

そのことを留守電になっている電話に伝言を入れて伝えていると、彼から「適当に時間をつぶして待っているから、終わってから一緒に飲みませんか?飲みながら話しましょう」という返事が入っていた。

…このままひとりで帰る気持ちにもなれなかったので、その提案を受けることにして、一先ず仕事を片付ける。

引っ越したい場所、求める場所の具体的な案なんて何も浮かんでいないのに…何を話すんだろう。

仕事が終わると、もう21時30分を過ぎていた。

慌てて連絡すると、私の会社の近くのお店で飲んでいるから来てという。

待ってくれていたのか…もう少し早く片付くと思っていた私は、本当に申し訳ない気持ちになった。

最初から断るか、適当な時間になったら帰ってもらえばよかった!

慌ててお店に行くと、彼がひとりで飲んでいた。

結構待ってくれていたのかもしれない…ほろ酔い加減になっていたから。

新たな引越し先について何の具体的な考えを持てないまま訪れた私は、より一層いたたまれなくなった。

「ごめんなさい…こんなに待ってもらったのに、私、引越し先の具体的な案が何も思い浮かばなくて…今日の飲みは私が支払いますから」

席に着くなりそう言ってあやまった。

「そんなのいいですよ。僕が待ちたいから待っていたんだし。気にしなくてもいいよ」

友達が話していたが、本当にいい人だ。

「ところで、どうして引越ししたいと思っているのかを聞きても大丈夫ですか?」

私はグラスワインをオーダーしながら…経緯の一切を彼に話した。

「…もう考えたくないの。彼のことも彼が淹れてくれるコーヒーのことも。あの部屋にいると嫌でも思い出すから…もう忘れたいのよ」

不動産屋の彼は黙って聞きてくれて、しばらく黙り込んでいた。

「でも、あなたはそれでいいんですか?このまま何のアクションも取らないで、彼の本当の気持ちを聞かないで、部屋を変えたからって本当に諦められるんですか?」

「そもそも、はっきりと別れた訳ではないでしょ?」

そんなことはわかっている!と言い返したいけど、私が何のアクションも取ろうとせずに諦めようとしているのは事実だ…何も言い返せなかった。

「…もう、自然消滅みたいなものだよ………」

と言うのがやっとだった。

「僕はあなたとはじめてお逢いした時に、あなたに一目惚れしたんですよ。だから本当はこちらを向いて欲しいからこんなことを言いたくはないけど…そんな気持ちで次にって思っても無理でしょう?ただ自分の本当の気持ちから逃げているだけなんだから」

悔しいけど何も言い返せない…本当のことだ。

そうだ、こうやってずっと逃げてばかりいたんだ…私。

って一目惚れ???私に???

すぐに言っていることを受け止め切れずにちょっとビックリして目を丸くしていると…

「僕はもしあなたが彼に当たって砕けたとしてもしっかりとあなたを受け止めますよ。だからきちんと当たってきたらどうですか?このまま心を残したままで僕があなたにアプローチしても、埒が明かないと思うので」

…何てはっきりと自分の想いを語る人なんだろう。

私は今まで自分の想いをこうして人にちゃんと伝えたことがあるだろうか。

最愛の彼にさえ何も伝えないまま、本当の想いを伝えないまま遠くに離れてしまったのだから…。

「そうだよね。私、今まで意地っ張り過ぎて、拒否されるのが怖くて、自分の本当の気持ちをぶつけたことがなかったの。プライドばっかり高くて本当に可愛くない女だよね…」

そう言うと彼は、

「君はかわいいよ。意地っ張りの裏に怖がりな少女が隠れているんだから」

…どこまでやさしいの?泣きそうになる…。

「ありがとう。もし、はっきりと伝えて彼から拒絶されたとしても、こうしてグズグズと想い続けているよりはいいよね」

「帰る港があるんだから、出航しても怖くないよ!僕は本当にきみとここからはじめたいと思っているから!」

そう言って、私の背中をポンと押した。

白黒ハッキリつけないと前へは進めないよね…そんな当たり前なことにも気づかないほど追い詰められていたんだ…私。

彼の言葉でようやく当たって砕ける覚悟が固まった。

そうだ、彼に逢いにアメリカへ行こう。

直接会って話して…それで玉砕したら、きっとスッパリと諦められるだろう。

もうグズグズと立ち止まるのは終わりにしよう。

彼がいるニューヨークに行くには、まとまった休暇が必要だ。

…もうすぐゴールデンウィークだけど、直前過ぎるから席があるのだろうか?

ネットで調べようかと思ったが、今なら代理店に行く方が確実だろうと思い、ニューヨーク行きのチケットの予約は翌日に行くことにした。

まだ2回しか逢っていない彼にここまで背中を押されるとは…本当に友達が言うようにいい奴なんだと思う。

彼に対しては恋愛的な感情がある訳ではないけれど、私が与えて欲しかった言葉を与えてくれる稀有な人だとは思う。

彼が待っていてくれると言ってくれるだけでこれだけ勇気をもらえるなんて。

神様から遣わされた人なんじゃない?と少しロマンティックに思った。

不動産屋の彼と別れて4年間付き合って一緒に暮らしていた彼の存在感が未だ残る部屋に戻ると、部屋の鍵が開いていた。

恐る恐る部屋に入ると、そこにはカウンターキッチンに佇みお湯を沸かしている彼がいた。

!?どうして???ちょっと混乱する。

今までまったく連絡なかったのに、どうしていきなり帰ってくるの?

「…どうして???どうしてまったく連絡をくれなかったの?なのになぜ急に戻ってきたの?」

私は思わず叫んでいた。

混乱した頭は、理路整然と言葉を並べることを許さなかった。

強気で彼に話すことはあっても、こんなに取り乱した自分を彼に晒したのははじめてのことかもしれない。

「私…ずっとどうしたらよかったのかって、ずっとずっと考えていたのよ………一緒に行きたいと言えばよかったのかな…って」

「………ごめん」

「どうしてずっと連絡をくれなかったの???」

「君から連絡が来るのを待っていたんだ。ずるいよね、俺。いつでも君のことばかり考えていたけど、時間はすれ違うし、仕事の方が大変で…何より勇気がなかったんだ。君がここまで追い詰められているなんて思わなかったから」

「どうして今戻って来たの?」

「君の友達の幼馴染から連絡が来たんだ。あなたがこのまま彼女を放っておくなら僕が貰い受けるって…ビックリした。あいつは俺の友達の弟だったから」

!!!

「俺、俺が一方的に君を好きなんだろうと思ってた。だから、ニューヨークに転勤になった時、本当は一緒に行って欲しくて仕方なかったけど…断られるのが怖くて、どうしても君に言い出せなかったんだ」

「…私も怖くて言い出せなかったの…本当は一緒に行きたい!って言いたかったのに。拒絶されるのが怖かったの…ごめんなさい。私がもっと素直だったらよかったんだよね」

「お互いに本当に大切な本心を曝け出せなかったんだな。俺の方こそごめん。大切な君にこんな想いをさせるなんて…男として失格だよな」

彼が吐露した本心は、砂漠で出逢ったオアシスのように心を満たしてゆく。

「そんなこと…私、あなたが淹れてくれるコーヒーが一番好きなの。あなたがニューヨークに行ってから自分で淹れてみたけど、どうしてもあなたが淹れてくれるコーヒーの味にはならないの」

「ちょっと待ってて。今コーヒーを淹れるから」

馥郁とした香りが部屋を満たしてゆく。

彼と過ごした日々が甦り、再び彼と一緒にいられる幸せを感じていた。

こうして彼と一緒にいたい、私の望みはただそれだけだ…やっと自分の本当の想いに気がついた。

彼との再会で改めてそう気づかされた私は、迷わず彼との未来を歩もうと決めた。

そこには何時もの温かでやわらかな味わいのコーヒーがあった。

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