ファーストキスはブラックコーヒーの味

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私の通学路はとても簡単でつまらない道だ。家を出て右に曲がり、3つ目の曲がり角を曲がる。そして2つの自動販売機を過ぎて、さらに左へ曲がる。その道をまっすぐ10分ほど歩けば学校だ。
何もない住宅街を毎日15分ほどかけて学校と家を行き来する。通学途中、2つ目の自動販売機で甘いカフェオレを買うことが日課だ。春や夏などの温かい日は冷たいものを、秋や冬などの寒い日は温かいものを。毎日130円のカフェオレを握りしめて学校へ行く。
今日もあのカフェオレを買って行こう。そう思い、小銭を握りしめたまま歩いていると例の自動販売機の前に私より頭3つ分ほど背が高い男性がいた。彼は丈の長い黒い上着を羽織り、ジーパンを履いている。黒い靴はどこか有名なブランドのものだった気がするが、忘れてしまった。
彼は自動販売機の前で飲み物を買い、そのままぐいっと一気飲みをした。飲み終わってから退いてくれるのかと思いきや、また同じ飲み物を買い今度は少しずつ飲み始める。全く退く気配がなく、「どいて」という一言が出せず、私はその日、カフェオレを買わずに登校した。

 

次の日も、またその次の日も彼はいた。毎日毎日、同じ飲み物を2つ買い、最初は一気に、次に少しずつ。そういった飲み方をしていた。その変な飲み方のせいで、私は2週間もカフェオレが飲めていない。学校へ向かう途中で買うことが日課だったため、買える途中で買う気が全く起きなかった。
突如現れた彼の存在に、私は少しの怒りを覚えていた。あの自動販売機はあまり使い人がいない。故に、あれは私の物という感じがしていたのだ。
幼い子どもがおもちゃを無理やり奪われたような、そんなわがままでもやもやとした感情がこの2週間、私の中に流れていた。

 

今日で2週間と1日目。今日も彼は自動販売機の前にいた。彼はいつものように、ブラックコーヒーを買っている。
「おはよう」
その4文字が私に投げかけられていることに気付いたのは、彼が同じ言葉を3回言ったときだった。
しどろもどろしながら「お、おはようございます」と返す。
2週間も会っていれば、そりゃお互いの顔くらい覚えるだろう。それに、ここは住宅街だがこの時間は早すぎて人通りが少ない。私は風紀委員のため、朝の制服チェックの仕事があるから早く登校してるけど、他の生徒はもう少し後に登校してくるはずだ。
「こんな早い時間に、いつも登校してるんだね」
「ええ、まあ」
そういえば、彼は一度でも私の方を見たことがあっただろうか。
記憶の中では、私は1分か2分ほど自動販売機を待って、買わずに学校へ向かう。その1分か2分の間に、彼が私の方を向いたことは一度もない。
「今日もその髪型なんだね」
「え?」
「おさげ」
ああ、髪型で覚えていたのか。私は両サイドから垂れている三つ編みの片方を人差し指と親指でつまんだ。
「今時そんな昭和ヘアする人いないよね」
あはは、と彼は笑いながらブラックコーヒーを飲みほす。1缶目だ。
私は少しむっとした。馬鹿にしているんだ。不器用な私が毎朝20分かけて、中学1年生の時から欠かさず結ってきたおさげを。
「怒んないでよ。似合ってるから」
今度はふわっと笑い、彼は2缶目のブラックコーヒーを買う。
「ブラック、苦くないんですか?」
私は初めて彼に話しかけた。表情を変えず糖類0のブラックコーヒーを飲む彼に、私はなんて質問をしてしまったんだろう、と思った。
苦くないから飲んでいる。むしろ好きだから飲んでいるに違いない。でなければ、毎日2缶も飲むはずがない。
彼はまだ1口しか飲んでいない2缶目のブラックコーヒーを見つめる。
「んー、まあね」
なんだその答えは、と思った。その曖昧でイエスでもノーでもない答え。
好きだから飲んでたんじゃないの? なんで毎朝2缶も飲んでるの? 目を覚ますため? ちょっとした疑問が私の中をぐるぐると回る。
「おさげちゃんも何か買わないの?」
彼はすっと1歩右へ移動する。ここ2週間、初めて彼はそこをどいた。
私は2週間前から用意していた130円を2週間ぶりに自動販売機へ投入し、カフェオレを購入。久しぶりのコーヒーの苦み。それに勝る甘味が心地いい。
「えー、ブラック飲みなよ」
「飲めませんよ。苦いので」
そう断るが、彼はぐいぐいと進めてくる。ここの会社のよりこっちの方が苦みはない、とか。微糖くらいなら飲めるんじゃない、とか。
そのしつこさから逃げるように、私は「遅刻するので」と学校へ向かった。

 

その翌日、やはり彼はいた。丁度1缶目を購入する場面で、がこんという音がする。ぐいーっと一気飲みをし終わったところで、彼は私の存在に気付いた。
昨日と同じように「おはよう」と言われたので、「おはようございます」と返す。
昨日と同じように右へずれてくれたので、カフェオレを買う。
「カフェオレ好きなの?」
自動販売機へ小銭を入れながら私に聞いてきた。
「2週間前までは、毎朝ここでカフェオレ買うことが日課だったんです。好きか嫌いかといえば、好きです」
彼は買った2缶目のブラックコーヒーを取りつつ、「ふーん」という言葉を返した。
「それでは、私は行きますね」
「え、もう行くの?」
今日は毎朝の簡単なチェックではなく、生徒指導の先生とともに行う本格的な制服チェックなのだ。そのことを伝えると、彼は「そっか。がんばれ」と手を振ってくれた。

 

あの2週間分のカフェオレを取り返すように、この2週間は毎朝カフェオレを買った。もちろん、名前も知らない彼と一緒に。
私の前までの日課は「毎朝カフェオレを買って登校すること」だったが、今では「毎朝彼とコーヒータイムを過ごすこと」になっていた。
コーヒータームを過ごすようになって2週間になったが、彼のことは詳しくは知らない。
彼は今年22歳になる大学4年生。毎朝あそこにいて暇なのか、と結構失礼な質問した時は「授業がないんだよ」と言っていた。
知っているのはそれくらいだ。

更に1週間後、今日は彼がいなかった。久しぶりの1人だ。カフェオレを購入して登校する。
最近少し肌寒くなってきており、温かい飲み物も入ってきたので温かいカフェオレにした。

更に次の日、次の日、次の日、彼はあれから1ヵ月現れなかった。
「今日も、いない」
心がぽっかりと空いたような、何か大切なものが奪われてしまったような、そんな感情が渦巻く。
2つ意味が込められている感情。その2つが「寂しい」と「恋」だということには、すぐに気が付いた。
口の中にはなぜか苦みだけが広がっている。昨日までの甘味を感じられない。
若干滲んだ視界には黒が基調にデザインされたいつもより小さめの缶。ブラックコーヒーだ。
彼が毎朝私と一緒に飲んでいたブラックコーヒーだった。
彼がいつの日か「この会社のものはあまり苦くない」と言っていたコーヒーだ。
苦い。嘘つき。コーヒーのダイレクトなカフェインと苦みをもう一度口に含む。
私は名前も素性も知らない彼のことを、たった2週間一緒に過ごしたくらいで好きになってしまっていたのだ。

学校についてもあのブラックコーヒーの缶が捨てられない。
制服チェックの仕事にも身が入らない。
「寂しさ」と「恋」に気付いてしまったからか、もう彼以外のことは考えられない。
彼は結局、冬休み直前の登校日まで現れることはなかった。

久しぶりに出会ったのは冬休み後、年明け後初の登校日の日だ。
「あけましておめでとう。久しぶり。そしておはよう」
あのコーヒーは1缶目なのか2缶目なのか、私にはわからない。私が自動販売機についた頃には、すでに彼が飲み始めていたからだ。あの飲み方を見る限り、おそらく2缶目だろう。
「はい、これ」
「え、カフェオレ。何でですか?」
「俺がいなくて、おさげちゃん寂しい思いしたんじゃないかなと思って」
「寂しくないです。あと、おさげちゃんじゃないです」
そう文句言いながらも、久しぶりに会えたことが嬉しかった。彼からカフェオレを受け取り飲む。
久しぶりの苦みと甘味だ。
「俺が今までどこにいたのか、聞かないの?」
「聞いたら答えてくれるんですか?」
彼は「うん」とにこっと笑った。
「就活ですか?」
「いいや、違うよ」

彼はこの2、3ヵ月、海外にいたらしい。場所はオーストラリア。
1年ほど付き合っていた彼女が、去年の春留学に行って全く帰ってこないから会いに行ったのだとか。
彼女……いや、元カノは彼を見た途端そそくさとどこかへ行ってしまったらしい。それから探してみたが、全く見つからずに帰ってきたのだ。

「浮気かなー」
少し悲しそうな表情。よく見ると、目元が若干赤い。少し泣いたのだろうか。
「まあ大学生の付き合いだしねー。仕方ないねー。おさげちゃんも気を付けてね」
私は何も言葉を返さず、110円を自動販売機へ投入した。
ブラックコーヒーを買い、彼の1缶目と同じようにぐいっと一気飲みする。
「え、飲めたっけ?」
「いえ、飲めませんでした」
私は彼がいなかった間のことを話した。
最初は1人のカフェオレタイムを楽しんでいたが、「寂しさ」に気付き、間違えてブラックコーヒーを買ってしまったこと。
その日からずっとブラックコーヒーを買い続け、舌が若干慣れてきたこと。
「このコーヒーを飲むとき、私はいつもあなたのことを考えていました」
彼は黙って聞いてくれていた。今まで見せたことがない、真剣な表情。
「たった2週間の付き合いですが、私は名前も何もかもしらないあなたのことが好きになったのです」
私は2つの缶を持ったまま、同じく2つの缶を持っている彼の両手を握る。少し握りにくいが、彼の温もりはちゃんと感じた。
「苦い恋は忘れて、私と甘い恋をしませんか?」
真剣だった彼の表情は、突然「ふはっ」と笑い出し崩れた。
「うまいこといったつもり?」
「ま、まあ」
すごく恥ずかしい。とても恥ずかしい。何が「苦い恋は忘れて私と甘い恋を!」だ! 顔がかーっと熱くなる。
その赤面と恥ずかしさを隠すように下を向くと、すぐに「上を向いて」と言われた。
向いた直後、重ねられる唇。
ファーストキスはレモンでも甘酸っぱくもなく、ほろ苦いコーヒーの味だった。

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