ブラックはお好きですか

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大学に入って4年目だ。理系の学部を選んだ僕は、大学院に進学するかいまも悩んでいる。
所属している都市基盤工学の研究室にも10月に入って、3回生の後輩が3人入ってきた。これで院生の先輩を入れると8人の大所帯だ。
新しい後輩の3人のうち、2人は女性だ。一人は眼鏡をかけて黒髪が綺麗な色白の長身。少し口調がきついが、ゼミでの的を射た発言に感心している。
もうひとりの女性ははっきり言って、やんちゃだ。言っちゃ悪いが、お世辞にも勉強ができそうには見えない。
この大学にはAO入試という筆記試験を経ないで入学できる制度がある。親が建築士であったり、役所で土木関係の職に就いていたりすると、それを理由に申し込みをして面接だけで入学してくる場合がある。勝手な推測だが、彼女もそういったところだろうか。

 

でも僕は彼女に恋をしている。
そんなことを考えながら、総武線中野駅から自宅アパートまでの帰り道に金色の缶コーヒーを買った。もう冷たいコーヒーは今年最後かな。僕は頭の中の彼女の映像を消して呟いた。
11月に入って、大学構内の木々も紅色に色づいてきた。先週のゼミの帰り、今週末に研究室で紅葉狩りに行くことが決まった。場所は箱根。
彼女と大学以外で会うのはこれが初めてになる。

僕は彼女にヨウさんと呼ばれている。僕の本名福田陽太郎から陽をとるからヨウさんだ。
僕は彼女を苗字で呼んでいる。生嶋さん。他のゼミ生もそう呼んでいるからそうだ。

「ヨウさんは、箱根に紅葉、なんて、毎年彼女と行っていますよね?」
旅行の前日の金曜日、研究室では生嶋さんと僕と院生が2人。生嶋さんが僕をまたからかってくる。
「そんなことないよ。箱根に紅葉を観にいくのは小学生のときに行った家族旅行以来かな~。」

僕は大学4年生にもなって、まだ彼女がいない。正確に言うと、女性がアパートに泊りにくることはよくある。でもその相手の全てが、それ以上を求めない。
そして僕も彼女にそれ以上の話をしない。都合のいい関係と言えばそれまでだが、それ以上にこういう関係を続けてきた僕の心の闇は、案外深いのかもしれない。
箱根で手を繋ぎながら生嶋さんと2人で歩くところを想像する。紅葉以上に紅く染まる生嶋さんの頬がかわいい。

「え~!嘘つきだ~!この前中野駅でヨウさんと経済学部の前田さんが2人で歩いているところ私見ましたよ!」

生嶋さんの声は高い。キンキン響く。前田さんと中野駅にいたから、箱根に前田さんと2人で行くこととは全く論理的に関係がないのだが、彼女もそれはわかったうえで僕にふっかけてきているのだろう。

「うわ~。見られていたのか~。サークルの帰り道が一緒だったから。帰っただけだよ。」
「その割には仲よさそうでしたけどね。」
「それより生嶋さんも社会人の彼氏さんだっけ。都内なのに車で迎えにきてくれるってすごいね。」

 

そうだ。彼女には社会人の彼氏がいるのだ。うちの大学の同じ学部からいわゆる五大コンサルのひとつと言われている大手企業に就職した僕より6つ上の先輩。当然話したことはないが、生嶋さんを迎えに大学前に赤いフェアレディを停めるから、大学では一躍有名人である。

「ふーん。」

急に彼女に勢いがなくなる。

「あ!レポートを出し忘れていた!ごめん!」
僕はそういって、研究室をあとにした。

 
月曜日だ。週末の紅葉狩りは楽しかった。あることを除けば。
土曜日は、滝を囲むようにして、一面が紅葉色に染まる景色が楽しめるところに、茶屋があり、そこでお昼ご飯を食べた。何の工夫もなさそうなうどんをみんな頼んで食べた。食後のコーヒーはどこの豆だったのだろう。エスプレッソではなく、粗く挽いた豆のスッキリした酸味が特徴的だった。
そしてなぜか生嶋さんが泣いていた。
滝の水がゴーとした音を立てながら、生嶋さんのすすり泣く、美しい高い声を打ち消すようにして流れていた。

もう秋も深い。

僕は彼女の涙の理由がわからなかった。同期の2人が彼女に向かって身体を丸めながら何か声をかけていた。

なぜ僕はいつも肝心なときに誰かを守れないのだろう。僕はそのとき、一口分しか残っていないコーヒーに四角い砂糖を入れて銀色のスプーンでかき混ぜながらそんなことを考えていた。
彼女は研究室に来なかった。次の火曜日も。金曜日のゼミも休んだ。
赤いフェアレディもここ最近みていない。彼女は大学に来ているのだろうか。彼女は彼氏と別れたのだと同期から聞いた。
少し肌寒くなってきた。コートに手を入れながら中野駅からの帰り道に設置されている自動販売機をみてみると、缶コーヒーの押しボタンの上は赤色で「あったかい」と印字されていた。冬はもうすぐそこまで来ている。
土曜日。卒業論文の内容を修正するため、僕は大学にきていた。
休日だからというわけではないが、研究室には院生も誰もいない。
正午を過ぎた。やりたかった内容もほとんど完成した。久しぶりに文庫本でも研究室で読もうかな。
僕は、そんなことを考えながら、研究室の隅にあるシンクで給湯器に水を入れてお湯を沸かした。
院生が趣味でこだわっているコーヒー豆を手にとって、匂いを嗅いでみた。少し甘い匂い。
エチオピアの深煎りにしよう。僕はそう思って、豆をスプーンにとって、ミルに入れていた。10グラム、20グラム・・・

突然、ドアが開く。
「こんにちは。」
か細い高い声。顔を上げた。生嶋さんだ。
彼女は素顔に近い顔で、どこかいつもより幼くみえる。正直に言ってかわいい。
「どうしたの?休日に。」
ミルに入れた豆を削りながら彼女に声をかける。
「あ、 、いや。そのなんでもないです。失礼しました!」
突然、彼女が部屋を出て駆け出す。
「あ、いやちょっと待って!」
僕はミルを置いて、彼女を追いかける。

なんで僕は彼女を追いかけたのだろう。
よくわからない。

彼女の手をつかむ。細くて長い、綺麗な腕。
彼女が僕をちらっとみる。
「ちょっと!落ち着いていきなよ。」
よくわからない言葉を彼女にかけた。僕の頭の中には何も計画がない。
彼女は少しうなずいてそれから研究室に一緒に入った。
僕の机の上に読もうとした文庫本が中開きで置いてある。彼女も僕もしばらく何も言わなかった。
「ねえ。コーヒー飲む?少し多めに作っちゃったのだけど。」
「うん。いただきます。」
うん。不意に彼女から漏れでた、ため口に心が和む。僕は彼女が好きなのだな。
彼女が白いマグカップに口をつけて一口飲む。
「おいしい。」
彼女が僕を見ずに一言つぶやく。僕は彼女がブラックで良かったのか聞くのを忘れていたことに気付いた。
彼女はそんな僕を察したかのようにもう一口とカップに口を付ける。

「ねえ。明日また箱根行こうか。」「ふたりで。」
僕は彼女にそう言った。

彼女は驚いた表情を見せたあと、口元を釣り上げて、僕をみてコクと頷いた。

僕には赤いフェアレディはない。とびっきり秀でた容姿も頭脳もない。
ずっと好きだと見下してきた彼女に、なぜだか僕にないもの、何もかも全て、彼女がもっているかのようにみえた。
コーヒーの香りは飲み終わったあとも部屋に充満していた。
僕たちは窓からはいる西日を浴びて、抱きしめあって口づけをした。
柔らかい唇に少しコーヒーの香りがした。部屋の中の香りだったのかもしれない。しかしそんなことはどうでもよかった。
その日は二人で帰った。
それから彼女はうちに泊まった。
中野駅からの帰り道にあるいつもの自動販売機は、夜道を健気に照らしていた。
自販機を通りすぎた頃、彼女は僕にこう言った。
「ヨウちゃん。私も帰り道が一緒だったからこうやって一緒にいるの?」
僕は笑ってこう答える。
「生嶋の家は世田谷だろ。」
そういうと彼女は、僕に頭を寄せたかと思うと走って後ろに去ってしまう。
慌てて僕が彼女を目で追うと、彼女は自動販売機の前に立っていた。
そして缶コーヒーを2本、手にもって、かけ戻ってくる。
「ヨウちゃんは冷たいの~」
「馬鹿!何で!」

僕は生嶋が好きだ。初めて声に出してこの言葉を言える気がする。君に。
あれから何週間が過ぎただろう。
都内のいたるところには、色とりどりの電球が装飾され、クリスマスを前に街中の人までもが輝いてみえる。生嶋と歩く渋谷は、イルミネーションのせいか、いつもより視界が明るくみえる。この何週間かで僕は彼女について、いくつかのことを知った。彼女の家庭は裕福で、世田谷の自宅は一軒家で、隣には父親が自営している建設会社の事務所が隣接されていた。従業員の数は10人を超えているといった。彼女の父にも何度か会った。もちろん初めて会ったときは少し緊張した。なぜか僕は、手土産のひとつも持っていかなかったが、彼女の父は怪訝な顔ひとつせずに僕を迎えてくれた。

今日はそんな彼女の父に、彼女とクリスマスプレゼントを買いにきた。いや、そのはずだった。
渋谷駅のハチ公口を出て、原宿方面に歩を進めていると、見たことのある赤いフェアレディ―が前に停まった。小さくクラクションが鳴ったかと思うと、それから中から男性がでてきた。

「美代!探したぞ!」
生嶋に向かってフェアレディから出てきた男性が叫ぶ。

生嶋は名前が美代という。生嶋美代だ。

「何よ!急に!」
彼女が男性に向かってあの高い声で返す。僕が握っていた彼女の手はもうそこにはない。

「美代!もうアイツとは話を着けた。俺とやり直してくれ。」

何秒時が流れたのだろうか。生嶋美代の目には涙が浮かんでいた。何故だ。僕には何もわからなかった。生嶋美代は僕に何かを言っていた。それから赤いフェアレディの男性も僕に何かを言っていた。そして二人はなぜかフェアレディに乗って去っていった。
生嶋美代がフェアレディに乗る6つ上の先輩に見せた剣幕を僕は一度もみたことがなかった。生嶋美代が助手席に座るとき、お尻を上げて左手でさする仕草を見せるなんてこと知る由もなかった。僕は生嶋美代を何も知らなかった。

道玄坂のコーヒー店でコーヒーフラペチーノを頼んで、持ち帰った。僕は、本当は苦いのよりも甘い方が好きなのだ。

恋もコーヒーも。

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