二人の大きいコーヒーカップ

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冷えきった空気の中、白い息を吐きながら車のドアを閉め、僕は彼女と待ち合わせた喫茶店に入って行った。決まった席に目をやり、歩きながら彼女に向かって片手を軽く上げた。少し前に店に入っていると連絡があったから、彼女の方が先に待ってくれているのはわかっていた。ひとつ年上の彼女は、白いカップを両手で包み込むように持ったままこちらを見ていた。僕が席に着くと、お互いに「お疲れ」と笑顔で言った。熱い飲み物が苦手な彼女は、両手で持ったカップに息を吹きかけて少し冷めるのを待つ。彼女には言ってないが、僕はその仕草が気に入っていた。
二人はデート代を給料日に出し合い、一緒に選んだブランドの長財布に入れていた。いつか二人で旅行に行こうと、デート代とは別に専用の僕名義の通帳を作って預金もしていた。ドライブで遠くに行ったり、記念日に美味しい物を食べたり、二人で話し合ってやり繰りしていた。彼女の先輩が結婚前にそうしていたと知り、どちらからともなく同じようにしようということになった。でも、給料日が近づくと残りが少なくなるので、この喫茶店で過ごすことが多かった。一杯ずつのコーヒーだけど、この店のコーヒーカップは大きくて美味しい僕好みのコーヒーがたっぷり入っていて二人とも気に入っていた。長居しても違和感はなく、落ち着いた雰囲気の内装で、仕事終わりのこの時間はお客がまばらでくつろぎ易かった。常連のような頻度で通ってないが、この店のスタッフは客の顔を覚えるのが早く、今は席に着くとブラックコーヒーが出てくるようになった。ミルクティーと間違えるくらいきめ細かい泡がブラックコーヒーの表面を覆っていて、置いたままのカップに僕が息をかけると泡がくるくると回るのを彼女は見て笑った。付き合い始めはコーヒーが飲めなかった彼女だけど、僕が飲むと美味しそうだと真似して頼むようになり、今では僕と同じように席に着くとコーヒーがで出てくるようになった。ミルクと砂糖をたっぷり入れる彼女のコーヒーも美味しそうで、時々交換して飲むこともあった。焙煎したばかりの香りを楽しみながら、一日の出来事を直接会って顔を見て話せるだけで満足だった。お互いのことをあまり知らない頃は、家族や友人の話が多かったけど、一年くらい経つと少し先の話をするようになった。
カラオケとジェットコースターが苦手な共通点を持つ僕たちは、安心してお互いが勧める場所に出掛けた。公園でバトミントンをした時や給料日前の休日には、彼女が弁当を作って持ってきてくれたので、食べ物や味の好みも合っているとわかった。そして、デートの度にさよならをして別々の家に帰るのが切なくて、もっと一緒にいられたらと何度も思うようになった。なんとなく聞いたら、彼女も同じことを考えているようだった。僕は就職したばかりで、「結婚」という文字は全く頭に無かった。けど、もっと長い時間、彼女と一緒にいたいと素直に感じていた。

 

しかし、少しでも長く一緒にいたいと思い始めた時、彼女がよそよそしくなっているのに気付いた。他に好きな人でもできたのだろうか、何か他に原因があるだろうかと不安になり真剣に考えたけど全くわからなかった。コーヒーを飲む間ずっと気まずい雰囲気だった日、会計を終えて店を出てそれぞれの車に向かう途中で、彼女が立ち止まって僕の方を怖い顔で見ながら、突然「別れてあげてもいいよ」と小さな声だけどはっきりと言った。僕は予想していない言葉が耳に飛び込んできたので、驚いて何も言えなかった。まるで僕が別れたいと望んでいるみたいで理解ができなくて、この状況を解決に導く自信がなかった。黙って地面を見つめて考えていると、彼女は自分の車に乗り込んでエンジン音とともに駐車場を出て行った。さっきまで暖かい店内で熱いコーヒーを飲んで温まった身体はすっかり冷めてしまったけど、そんなことはどうでもよかった。さっき、彼女が発した言葉や表情ばかりが繰り返し浮かんでくる。運転に集中できないから、道路脇に車を止めてシートを倒して目を閉じた。

 

いくら考えてもわからないけど、彼女に直接会って理由を聞く度胸もない。どうしたら誤解が解けるだろうか、それから帰宅して風呂に入ってからも考え続けた。彼女がよそよそしくなった頃の会話ってどんなだっただろと思い出したけど、将来のことを冗談っぽく話したり、次の旅行先のことだったりを話したことくらいしか覚えてない。一緒に住めたら楽しいだろうねと僕が話した時、彼女は嬉しそうに笑っていて嫌そうには見えなかった。何がいけなかったのか、自分ではさっぱりわからなかった。

連絡がないまま一週間が経った。こんなことは付き合って初めてのことだった。仕事から帰宅してぼんやりと携帯の待ち受け画面を見ていると、幼馴染から着信が表示された。「久しぶりに会わないか?」と近所の喫茶店に誘われたので、他に用事がない僕はすぐに支度をして出掛けた。今まで彼女がいなかった僕は、友人達から付き合っている彼女の愚痴を聞かされるのが嫌だった。だから、絶対に自分に彼女ができたら愚痴は言わないと決めていた。待ち合わせの喫茶店に入ると、ジャケットを脱いで座りかけている友人を見つけた。「久しぶり」と声を掛けて向かい側に座り、注文を取りに来た店員に一緒にコーヒーを頼んだ。
店員がいなくなるとすぐに「どうした、元気ないな」と言われた。幼馴染だからわかるのか、そんなに元気のない顔をしているのか自分ではわからなかった。愚痴ではないが話さないと決めていたのに、話の流れで一週間前の出来事を説明した。今まで聞く側でわからなかったけど、こんな時は誰かに話して意見を聞きたくなるものだと初めて知った自分に少し笑えた。笑いそうになったけど、幼馴染に失礼なので堪える事にした。でも、大きな声で笑ったのは幼馴染の方で、コーヒーを運んでくれた店員の女性もつられて笑った。彼は「そりゃあ彼女が怒るのは当たり前だ」と砂糖とミルクを入れながらこちらを見ずに言った。僕は熱いブラックコーヒーを一口飲んで、よくわかるように説明してほしいと頼んだ。説明が聞きたいのになぜか「結婚する気はあるのか?」と聞かれ、僕は更に混乱した。結婚なんて考えてなかったと正直に言うと、うなずきながら楽しそうに笑う彼を見て、根拠はないけど解決してくれそうな気がした。結婚も考えてないのに一緒に住みたいと何度も話したら、それは女性なら誰でも怒り出すに決まっているだろと簡単な解説をしてくれた。就職したばかりで結婚について考えていなかったことと、少しでも長く一緒にいたいと願うことは矛盾していたらしい。一緒にいたいからと結婚をするのは自然だけど、君とは結婚しないで同棲だけしたいと伝えているみたいで、僕の言動は無責任で身勝手と受け止められても仕方がないらしい。

 

幼馴染が説明してくれた通りのことを彼女が考えていたとしたら、今すぐにでも飛んで行って誤解を解きたいと思った。残りのコーヒーを味わう余裕が無くなった僕に、幼馴染が「結婚すれば」と軽く言った。そう言われて戸惑いながら、「ちょっと考えるわ」と答えるのが精一杯だった。

 

結婚は簡単に決めることじゃない。しっかり者で気が合う女性と将来について話し合い、家族に紹介して時間を掛けて決めて行くものだと思い込んでいた。でも、彼女が僕の奥さんになってくれるとしたら、食事の好みも経済観念も似ているし、何より一緒にいて楽しい理想の相手に違いなかった。彼女のような女性にもう出会える気がしなかった。幼馴染のひとことは軽い気持ちで出た言葉じゃなくて、本心から出たものだったのかもしれないと思った。重要な決断をするには軽い感じだったけど、気付かせてくれて背中を押してくれたから感謝しなくちゃいけない。怒った彼女の顔が浮かび、時間がないと焦った。指輪を買いに行くにしてもサイズを知らないし、何処で買ったらいいのかさえわからなかった。とりあえず彼女に電話をして、一方的にいつもの喫茶店に来てほしいと伝えて切った。彼女は来てくれるだろうか、こんなにあっさりと結婚を決めていいのだろうか、こんな時はネガティブなことばかり考えてしまう。先にコーヒーの匂いが立ち込める店内に入り、いつもの席に座った。今日、僕はきちんと気持ちを打ち明けて、彼女に謝ろう。そして、これからもずっと一緒にいてほしいと伝えよう。そしたら、彼女はどんな顔をするだろうか、いつも通り両手でカップを持って笑ってくれるだろうかとドキドキしながら熱いコーヒーをすすって待っていた。すると、誰かが店のドアを開ける音がして、聞きなれた彼女の靴音が近づいて来た。幼馴染に近々会わせると約束した彼女が僕の席へ向かっている。

 

彼女はすぐに連絡を取り合っていなかった時のことを、何事も無かったかのように話し始めた。けど、僕は真面目な話があるからと彼女の話を遮った。そして、うつむいてしまった彼女が顔を上げるのを待ち、一呼吸おいて「結婚しよう」と単刀直入に言った。言った僕が驚いたくらい、店内の時間が静かに止まったような感覚になった。彼女は僕から視線を逸らしてまたうつむいたので、僕もうつむいてしまった。自分の鼓動がこんなに大きいなんて知らなかった。また短い間にネガティブな思想に襲われた。少し顔を上げて見てみると、彼女の長い髪が邪魔をして表情がわからないけど、うつむいたまま泣いているみたいだった。コーヒーが運ばれてきたので、彼女のカップの近くにミルクを寄せた。泣かせてしまった罪悪感で、僕も泣きたい気分だった。コーヒーの味までなぜか今日は苦くて、責められている気分だった。こんな時でも癖は出てしまうもので、コーヒーの表面に息をかけると泡がくるくると回った。その時、顔を上げた彼女が僕のカップを見て笑った。目の前で涙を浮かべながら笑う彼女の顔を見て、絶対にこの人と結婚しようと思った。ドラマだと「よろしくお願いします」と返事がありそうなものだけど、笑顔だけで充分だった。僕は、ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲む彼女の顔を、結婚したら毎朝見られるのかと思うと胸が苦しくなった。彼女が朝食を作ってくれる間に、僕は毎朝コーヒーを作ろう。

 

両手でカップを持つ彼女を見たいから、カップはこの店と同じ白くて大きいのを選ぼう。時々はこの店にも来ると思うけど、もうその時は一緒の家に帰ることができる。さっきまで店内の時間が止まったような感覚だったけど、今は店に入った時より照明が明るくなったように思えた。やっぱり仲良く一緒に飲むコーヒーは美味しい。婚約者に名前を変えた彼女と僕は、残りのコーヒーをゆっくり味わいながら飲んだ。

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