僕は香港で鳥になる。

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有史以来、争いを重ねて絶対に相容れなかった二大勢力というものがある。
例えば犬派と猫派、巨人ファンと阪神ファン、そして珈琲党と紅茶党だ。

 

僕は珈琲が大好きだ。
理由は簡単で、そちらが多数派だったから。
喫茶店のメニューの数、自動販売機にある缶の種類、なんなら画数を比べて欲しい。
珈琲のほうがずっと優勢だろう?
合理的であればそれでよく、面倒だから争わない。
僕の基準は単純なので、そうやって迷うことなく生きてきた。
当然聞かれれば犬とかジャイアンツとか答えたわけで。
「こだわりがあるようでいて、全然無いんだね」
と、彼女に笑われたことがある。

 

彼女。
隣のゼミのコで、女子の中では3番目くらいに可愛いかなと思っていた彼女。
それを知られたら速攻で嫌われそうだけど、なんだか僕は目が離せなかった。
簡単に単位が取れると評判だった「民俗学1」とかいうよくわからない講義と、火曜と金曜の週2回、英語Bの講義の時だけ一緒になる、同じ学年の彼女。
いつも紅茶飲料を飲んでいるのが気になった。
ある時は缶で、またある時は紙パックで、一番気にいらなかったのは豆乳飲料紅茶味。

 
よく一緒に話している別の女子が、「その紅茶、先輩のこと意識してるでしょ!?」と発言したから余計に気に障る。
彼女は「全然違うけど」と答えたが、常に何らかのコーヒーを常備している昼下がりの僕のことでは絶対に無いらしい。
好きな人がいるんだなと思うと、余計に気になってしまう。
そうやって、日中の一番けだるい時間を、僕は居眠りすることなく過ごすことができるのだが、言うまでもなくいつだって、講義に集中はできなかった。

 

「ねぇ」
突然話しかけられて顔を上げる。
あれ?
いつの間にか眠っていたらしい。
口の中は濁って臭く、担当の講師の姿は教卓になく、目の前には透明な使い捨てコップを掲げた彼女の姿。
氷が溶けて薄くなったブラックのコーヒーが、たぷんと揺れた。

 

「いっつもコーヒー飲んでるよね」
「はぁ」
間抜けな返事を返してしまう。
「好きなの?」
「まぁ」
人並に。
「香りだよね珈琲はやっぱり」
「友達行っちゃったけどいいの?」
彼女は構わないという風に、軽く手を振ってみせた。

 
僕はといえば、慌てて筆記具をペンケースにしまいながら、どうすればこの時間を長く維持できるか考えつつ、寝起きの口臭が彼女に届かないよう細心の注意を払うという地道な作業の最中だった。
「豆を挽いてローストする時の香りが最高だよね」
「確かに」
「デパ地下に珈琲豆を売ってる店があってね」
「デパ地下?」
「子供の頃って珈琲とか飲まないじゃん、でもお母さんとデパートに行った時にその珈琲豆のお店からすっごいいい匂いがしてきて、お母さんこれ何か焦げてるのって、私聞いたんだって」
「へぇ…」
彼女が、こんなに饒舌な人とは知らなかった。
「今、おしゃべりな奴だなって思ったでしょ」
「いや全く、でも、オレてっきり珈琲嫌いな人なんだろうなって思ってた」
私が?
とでも言うように、人差し指を自分に向けて首をかしげてみせる。
ごめんなさい、ごめん、3番目だなんて言って、どうしよう…。
「いつも紅茶ばっかり飲んでるから」
「そうだっけ?」
「うん、見たことないよ紅茶系しか」
「ていうか、やっぱりいつも私のこと見てたんだっ」
口を遠慮なく横に開いて、くしゃっと笑う。
どうしてそんなに嬉しそうなんだ、どうして…。
「ずっと気になってたんだよね、あの人ガッツリこっち見てんなぁって!」
「えーっと」
我ながらだらしない顔で情けない声が出た。
「私なんて自意識過剰だとか言われちゃったもん、あとで見返してやるんだ、モテ期キターって」
鈴の音のように笑う。
だからどうして、どうしてそんなに可愛いんだ。
「どっちが好きとかってわけじゃないんだけど、私けっこうコーヒー好きなのね」
「そうなの?」
「でもコーヒーってさ、飲みすぎると頭痛くなったりしない?」
そういう人も多いとは聞くけど、僕は何ともないなぁ…
「あー、あるよね、時々ある、地味に辛い」
調子のいいことばかり、口をついて出る。
「そうなの、地味に頭痛薬とか効かなかったりして、っていうか私飲みすぎなんだろね、最初にさ、ブラック無糖でコーヒーが飲めるようになった時、大人になったーって気がしなかった?」
「まぁ、したかな?」
「それでかな、受験勉強の時も、バイト先でも、やたら飲んでたらほんとやたら頭痛くって」
「そうなの?」
なんだか可哀相な気がしてきた。
「1日3杯までって決めたんだ、だからここでは飲んでなかったのかも」
「そうなんだ」
「面白いなと思って、私も見てたんだよ?」
急に顔を覗き込まれて、思わずドキリとする。僕のこと?
「いっつもさ、難しい顔して睨んでたじゃん、缶のやつとか」
「缶のやつ?」
「今日はコンビニのだけど、なんか嫌なことでもあったのかなって顔でいっつも見つめてるの、コーヒー、近視?」
「むしろ遠視かな」
「だよねぇ、だからさ、あの人も頭痛いのかもって思って、でもだったらいちいち飲まないだろうから、人見知りさんかなって思って」
「人見知り?」
「ラベルとかガン見して、人と会話しないようにする人っているじゃん」
それなら、やや当てはまるような気もするが…実はこっそり、彼女と友達の会話を盗み聞きするためのポーズだったとは、まさか言えない。
「そういうわけじゃなかったんだね」
「特に意味は無いです」
「じゃぁコーヒー好きってわけでもないのかぁ」
少し残念そうな顔をするので、反射的に僕は否定した。
「いや、好きでなきゃ飲まないよ、いちいち金出して」
「人よりはちょっと好きってかんじ?」
「そんなかんじかな?」
「紅茶は好き?」
「好きかな?」
勢いに任せて嘘をついた、いや、そもそも嫌いになった覚えなどない。
コーヒーを選び続ける理由が欲しかっただけで。

 

「じゃぁさ、後で一緒にカフェ行かない?ていうか、私のバイト先なんだけど…」
「喫茶店!?」
「カフェだけど」
何が違うんだ。
「好きなコーヒー豆とかある?」
「え、あ、コロンビア?」
実は詳しくないので、ちょっと間の抜けた声が出た、ええい、今更だ。
「コロンビアかー?」
「飲めれば何でもいいんだよ、コーヒーはさ、豆の種類より温度だってオレは思ってる」
「あ、なんかプロっぽい!」
なんか嬉しいぞ!?
「別にコーヒーでなくてもいいんだけどね、オレはその店で3番目に売れてるやつをくださいって頼むね」
「なにそれ!?」
「評価を自分で下すのも面倒だからね、そこは大衆に任せることにしてる」
僕は何を言っているんだろう?
「あはは、こだわりがあるようでいて、全然無いんだね」
彼女が楽しそうだから、まぁいっか。

 
「エンオウ茶」って知ってる?
唐突に何だ?
「エンオーチャ?」
「珈琲と紅茶を1対1で混ぜたやつなんだけど、香港の」
「ホンコン!?」
「漢字でね、オシドリって書いて鴛鴦茶って読むの、オシドリだから1対1で混ぜるの、ちょっと素敵じゃない?」
「ああ、カフェオレみたいな?」
「うちのカフェで今度それ出すんだけど、その話を店長から聞いた時に、知り合いでいつも珈琲ばっかり飲んでて紅茶を憎み倒していそうな人がいるんですって、なんとなく話しちゃったの」
「にくみたお?」
「紅茶の天敵、ていうかゴメン、勝手にモカ男って呼んでるんだけど」
「モカオ!?」
「モカオ連れてくるから、美味しいって言ったら正式にメニューにしましょうよって言ったらさ、なんか盛り上がっちゃって」
「なんなのその店長」
「店長嫉妬してるんだよー、私いっつも、モカオマジカッコイイって話しているから!」
臆面もなく笑う。
いやちょっと待て、今、僕のことカッコイイと…
「忙しい?」
少し不安げな顔になって、こちらを見上げてくる。
その時になってはじめて、本当は意を決して話しかけて、無理して喋り続けたのかもしれないと思えてきた。
愛おしさがこみ上げる。
彼女のおしゃべりが止んで、ようやく気が付いた。

 
教室移動のチャイムが鳴って、すでに次の講義のために人が集まりだしている。
「いや行けるよ、行くよ、なんかおもしろそうだし」
「よかった!」
晴れやかに笑って、彼女は立ち上がる。
釣られて僕も立ち上がりながら、思いきって携帯電話を取り出した。
意を解した彼女もカバンの中に手をやってから、時計を見やって慌て出す。
「ごめん、あとでLINE教えるよ、とりあえず5時半に講堂前に来れる?」
「うん」
「そこで待ち合わせよ、私、次の教室遠いんだ、後でまたね!」
「あ、うん」
「5時半ね!」
うん!
大声で答えたつもりだが、急ぎ足で去る彼女に聞こえたかどうかは分からない。
僕も次の講義へ向かう時間なのだが、心臓が高鳴ってうまく歩けない。
そうだ、ゴミも捨てなくちゃ、飲みかけの珈琲。
いつもその席に座っている人だろうか、あからさまにこちらをチラチラ見やる体育会系の男子に会釈して、僕も遅れて教室を出た。

 

有史以来、終止符が打たれ和解した争いだって数限りない。
僕は忠誠心の強い犬も奔放な猫も同じくらい好きだし、巨人ファンだけど金本率いる新生阪神タイガースが気になって仕方がないのだ。
毎食後珈琲を飲まなきゃ落ち着かないが、たまに飲む紅茶の華やかさに心がふわりと浮くことがある。
それは珈琲なのか紅茶なのかよくわからないが、甘美な飲み物に違いない。

 
わざわざ僕を誘ったことにはきっと意味がある、オスとメス、ツガイの一杯!
嗚呼、もはや溢れて止まらない妄想を薄まった珈琲とともに飲み干して、コップをゴミ箱に投げ入れて、小さくガッツポーズをする。
「ストライク!」
羽が生える予感で、駆け出さずにはいられなかった。

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