彼、トキドキ、苦味。

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大人になったな、と思うこと。
車を運転していること。
タバコを吸っていること。
働いていること。
それと…ブラックコーヒーを飲めるようになったこと。

学生時代に出会った年上の彼との交際は2年間ぐらいだったと記憶している。彼とは「友人の紹介」という名の合コンで知り合って、出会って1週間で付き合うようになった。

 

大学生、二十歳。
大人になったばかりの私は、早くホンモノの大人の仲間入りをしたくて、無理して背伸びしたい年頃だったのだと思う。

 

彼は私にとって、画に描いたような『大人』だった。私は彼が大好きだった。
私を抱きしめてくれる広い胸元からはいつも、薄っすらとタバコと汗の匂いがした。夜中にはひとつの毛布を膝にかけて一緒に映画を見た。仕事で疲れていると部屋に来るなりシャワーも浴びずにそのまま寝てしまうこともあった。私は彼の寝顔を見ながら髪の毛を指でくるくると弄んだりした。

 

そんな時間が幸せだった。

 

彼はブラックコーヒーを好んで飲んだ。
私はコーヒーは飲まない。香りはいいが、あの舌に残る苦味をどうも好きになれなかった。あまりに美味しそうに飲む彼の横で、よほど物ほしそうな顔をしていたらしい。彼のカップから一口もらったこともある。顔をしかめる私を見て、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
私の苦手なコーヒーを美味しそうに飲む彼を、カッコイイと思った。

 

朝はコーヒーしか飲まないと言っていた。その方が色々なことが捗るのだと。私はいつも彼のためだけに安物のドリップコーヒーを買って、週末の朝に備えた。

 

遅く起きた朝、お揃いのマグカップにコーヒーとホットミルクを用意して一緒にテレビを見る。くだらないことで笑い合い、飲み終わると2人でランチに出かけた。食後にはもちろん彼はコーヒーを飲む。私は紅茶とケーキを食べる。手をつないで街を歩き、人気のスポットで写真を撮り、終電までにそれぞれの部屋に帰る。

 

こんな週末がこれから先も、ずっと続くのだと思っていた。

 

あるとき彼から急に、今週は行けなくなったと連絡が入った。
残念だったが仕事なら仕方がない。重たい面倒な女と思われないように、寂しい気持ちを隠していつもと同じように振る舞った。

 

そのときに、私は気づくべきだったのだ。

 

彼がタバコを控えるようになったのはその直後からだ。タバコやめたの?と尋ねたら、職場が禁煙になったのをきっかけに辞めようと思っていると話していた。
私は少し残念に思った。彼の汗とタバコが混じった匂いが好きだったから。

 

翌朝、私はいつものようにブラックコーヒーを用意した。注いだお湯とは違う速度で少しずつ落ちる滴を溜めながら、彼がシャワーから出るのを待つ。今まで当たり前にくり返してきた日曜日の朝。ところがその日、彼はその見慣れたはずの景色を見て言ったのだ。

 

「朝ご飯ないの?」

 

私は小さく動揺した。朝ごはんを食べたいと告げられていただろうか。私が忘れてしまっていたのだろうか。

 

しかし彼の顔を見てすぐに理解した。
正直な人だと思った。もうこうなってしまった以上、隠すつもりもなかったのかも知れない。なんともバツの悪い空気が流れる。

 

追及はしなかった。
重たい空気の中でお互い1杯ずつを飲み干すと、私は体調が悪くなったと嘘をついた。もしかしたら心配してくれるかも知れないと抱いた期待も虚しく、彼は私の嘘を聞き入れ、あっさりと部屋を出ていった。

 

彼と連絡が取れなくなった。

 

次の週も、その次の週も、彼は来なかった。
もしかしたら何かの間違いで、来週末こそは来てくれるのではないか。彼から連絡の来ない週末を、なかなか受け入れられなかった。

 

ふと目をやると、部屋の隅に吸いかけのタバコの箱が落ちていた。
泣いた。嗚咽も枯れるほど泣いた。
涙ってどこからこんなに出てくるのかな。
時間が経てば忘れられるなんて、あんなの嘘だ。
時間が経てば経つほど思い知らされた。もうあの胸に抱きしめられることはないのだということを。無防備な寝顔を見ることも、柔らかい髪に触れることもできない。
私が飲まないブラックコーヒーを用意する朝はもう来ない。

 

思い出すと息苦しくなる。感情が指令を出すより先に、勝手に涙が溢れてくる。
気持ちを紛らわすために、彼が置いていったタバコを吸うようになった。煙が口から吐き出されるのを見ていると、息をしていると実感できた。

 

彼と連絡が途絶えてから1年が経った。

 

私は当時の泣きくれた日々を、懐かしく思えるようになっていた。本当に彼が好きだったのか疑問に思うことさえあった。私が好きだったのは『年上の彼が好きな自分』だったのではないだろうかと。

 

キッチンの戸棚にドリップコーヒーが残っているのは分かっていた。なんとなく開ける勇気がなくて、捨てられずに1年も経ってしまった。

1杯飲んでみようと思った。

マグカップにセットしてお湯を落としている間、こんなにも手間のかかる作業だったかと不思議に思った。彼のために淹れているとき、こんな風に感じたことはなかった。
香ばしい香りが鼻をくすぐって、いやでも当時の記憶が蘇ってくる。でもそこには1年前のような息苦しさはなく、無味無臭の、サラサラと流れる水のような思い出に変わっていた。

 

時間をかけて淹れたコーヒーは、やっぱり苦かった。だけど、思っていたほど後味は悪くない。飲み込んだ後の苦味より、鼻に抜ける香りを少しだけ楽しめたような気がした。
ふと、彼は今何しているかなと思った。彼は今でもブラックコーヒーを飲んでいるだろうか。彼に会ったら訊いてみたい。私のこと、好きだった?

 

このコーヒーを全部飲もうと決めた。
これを心から美味しく感じるようになった時が、彼から卒業するときだと思った。
全部飲み干して、今度は自分のためにコーヒーを買ってこよう。こんな安物なんかじゃなく、豆から選べるお店でちょっと奮発してもいい。

 

私は今朝もドリップコーヒー淹れている。これが最後のひとつ。
鼻孔をくすぐるこの香りに愛着すら湧いてきていたが、これを飲み終えたらおしまいだ。芳しい液体をそっと口に含む。口に広がる酸味と苦味、鼻に抜ける香り。
安物の、背伸びした味。

うん…美味しい。

私はちゃんと前に進めただろうか。
今夜、新しいコーヒーを買って帰ってこよう。コクのある大人な味わいのコーヒーがいい。
ありがとう。今日までの味は決して忘れない。

 

ホンモノの大人への階段は、まだまだ長い。

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