彼女と僕とコーヒーミル

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オギャーオギャーと泣く赤ちゃんの横で僕はコーヒーミルを回しながら美味しくなれと祈っていた。

 

僕がコーヒーミルと初めて出会ったのは中学生の頃。セミが泣き叫ぶ、蒸し暑い夏の日だった。暑すぎて倒れそうなそんなときにその店はあった。昔からある、古風な感じの建物。今にもおじいちゃんが出て来そうな家、その店先には、cafeという文字があった。

 
迷うことなく店に入る。カランコロンとベルがなり、スーッと鼻奥が冷えた。薄暗い店内にはアンティークなモノが置かれている。進むにつれて身体中の汗が冷たくなる。

 
「いらっしゃい、お好きな席へどうぞ。」
髭面のおじいちゃんが手元の小さな箱を持ちながらそう言った。
店内はテーブルが4つくらい、カウンターも6人が触ればやっとだろうという狭い店内だった。
一番奥のテーブル席へすわる。涼しくて快適な空間だ、一瞬でそう思った。緊張した面持ちでいると、おじいちゃんがきた。
「なにを飲まれますか?」
メニュー表はない。なにがあるのだろう、とりあえず冷たいものがいいな、そう思っていた。

 
「うちはコーヒー専門店なんで、こんな蒸し暑い日ですからね、アイスコーヒーとかどうですか?」
コーヒーは好きではなかった、むしろ好んでは飲まない。けど、他にメニューがないのなら、と軽い気持ちで頼んだ。
「少しお待ちを。」
そう言っておじいちゃんが店の奥へ。
コーヒーかぁ、コーヒー専門店、専門店ということだから、飲んでみるか。
おじいちゃんの手元には小さな箱があった。コーヒー豆を入れて、上の棒を回し始めた。

 
ガガガガガガと、ゆっくり棒を回すと同時に音がなる。コーヒー豆をひく、ということを初めて見た。コーヒーは嫌いだったが、その行為には興味をそそられた。
そのとき、カランコロンとドアが鳴った。
「あっ。」
同じ制服、同じ学校、いつも1人で読書している子、そんな認識だった。
あ、どうも、と頭を下げた。
「さつき君もここよく来るの?」
初めて彼女の声を聞いた。透き通るような声が店内に響いた。
小さく頷いた。こんなに積極的だったんだ。いつも1人でいる、そんなことしか思ってなかった彼女が、今同じ空間にいる。
「ここ、座ってもいい?」
また小さく頷いた。
「私、よく来るんだ、落ち着くの。コーヒー好きだし、ここのコーヒーすごく美味しいんだよ。」
そうなんだ、初めて来たこのお店、初めて彼女と話した、そんなことを考えていた。
彼女がおじいちゃんに、
「いつものね。」
と、常連のように話した。
おじいちゃんも小さく頷いた。
彼女はすっと自分のカバンから本を取り出した。いつものように、読み始めた。
気づくと僕は無心になっていた。なにをするわけでもない、なにを考える訳でもない。ただその空間を楽しんでいた。
ぷーんと鼻に何か匂った。
この匂い、いい香り、こんなの初めてだ。
「いい香りでしょ、やっぱりミルでひくと香りもいいな。電動じゃなくて、人の手でひいたものがいい。」
コーヒー豆をコーヒーミルで人の手でひく、そんなこと、今まで考えたことも見たことも思ったこともない。
嗅いだことのないその匂いは鼻の奥で僕を虜にした。
彼女はそのあとコーヒーについて話し始めた。聞いてもいないことも話し始めた。なんでそんなことをと思うことまで話し始めた。
コトンっとグラスが置かれ、目の前には氷の入った冷たそうなアイスコーヒーがあった。
彼女の前には蒸し暑いというのにホットコーヒーが置かれていた。
暑くないの、という質問も彼女の行動でかき消された。
「嗅いでみて。」
僕はホットコーヒーの匂いを嗅いだ。
今まで香ったことのない香り。鼻の中から、頭のてっぺんまで、コーヒーで埋め尽くされた。なんていい香りなんだろ。こんなものだったっけ、こんなに奥深いモノは初めてだった。

 
「飲んでいいよ、美味しいから。」
コクンと頷き、一口飲んだ。
美味しい、コーヒーが美味しい、こんなに美味しいモノだったんだ。
彼女は相変わらずコーヒーについて語っている。こんなに輝いている彼女をみるのは初めてだった。
自分のアイスコーヒーも飲んでみる。
ホットコーヒーとは違う香り。同じ豆で違う味。奥深い、そう思った。だんだんと僕は魅了されていった。
その後もコーヒーについて話す彼女に僕は惹かれていった。その時間が楽しかった。
その翌日、翌々日も僕たちはここにいた。ここに来て話すのが普通になった。

 

コーヒーミルを初めて買ったのは、僕が大学生の頃だった。
初めてのバイトの給料で買ったのは高くはなく、安くもない、手動のミルだった。
あの美味しいコーヒーの味を再現したい、その思いだけだった。

 

高校2年の秋、少し肌寒く紅葉も散っているころ、あのコーヒー専門店はなくなった。
昨日まで彼女とそこで飲んでいたのに、今日はもうない。いや、実際には建物はあるが、おじいちゃんが死んだのだ。
昨日まで、3人で同じ空間にいた。3人で笑っていたはずなのに、心が何処かに行ってしまったように、僕たちはなにも考えられなかった。あの美味しいコーヒーを、飲むのが僕たちの日常だったのに、あの美味しいコーヒーの香りの虜に今日もなるはずだったのに、彼女と2人で泣いた。
それからはコーヒーを飲むこともなく、彼女と本について、コーヒーについて語ることなく、日々は流れた。
彼女とは疎遠になった。大学進学で別々の大学に行くことになったんだ。
けど、なぜか彼女のことが気がかりだった。心配だった。離れたくなかった。
もっとコーヒーについて話したい。もっともっと、彼女とコーヒーを飲みたい。
そんな思いばかりが頭をよぎり、毎日毎日、卒業式が嫌だった。
なにもできない自分を責めた。

大学に入り、初めてのバイトの給料で買ったのは高くはなく、安くもない、手動のミルだった。
あの美味しいコーヒーの味を再現したい、その思いだけだった。
いや、正確には、彼女にもう一度あのおじいちゃんのコーヒーを飲ませたい、その気持ちの方が強かったのかもしれない。

 

彼女にはもう会えないかもしれない。もう2度とコーヒーを一緒に飲まないかもしれない。そんな思いもあったが、コーヒーを美味しく入れることは僕の中で大事なことだった。
何度やってもおじいちゃんのようにはうまくいかない。
コーヒー豆はあっている。同じコーヒー豆をネットで調べまくった。どこで買えるのだろう、そしてやっと見つけた。
そのコーヒー豆はあるのに、味は違う。
同じコーヒー豆でも味が違う、考えさせられる現実に自分が嫌になった。
どうすれば、どうやったらいいんだろう。
それからは毎日のように、コーヒーをひいた。ゆっくり、時には激しく、毎日毎日、味が違った。時には優しく、時には酸っぱく。
大学生の時は毎日毎日、コーヒーについて勉強した。彼女のことを思いながら、彼女に負けないように知識をつけた。コーヒーの歴史、コーヒーのひきかた、コーヒーミルについて。
様々な知識が頭を駆け回った。

 

社会人1年目は多忙の毎日だった。朝から晩まで仕事だらけ。休みの日は疲れ果てていた。あれほどコーヒーのことを勉強したのに、なにやってるんだろう、つまらない毎日を送っていたその時、近所にコーヒー専門店の雑貨屋ができた。
あのおじいちゃんの店の跡地にだ。
懐かしくなった。そういえば彼女は元気かな。なにをしているんだろう。俺は…。

やっとの休みの日、気分転換に街へ出かけた。蒸し暑い夏の日。あ、そういえばあの雑貨屋に行ってみよう。コーヒーは好きになっていた。最近は缶コーヒーばかりだが、なぜか飲んでしまう。
カランコロン、涼しい風が顔にあたる。
人は誰もいなかった。もう閉店間際、こんな夕方じゃしょうがないか、そう思いながら店内を歩いた。可愛いコーヒー豆の形のキーホルダー、本格的な自動のミル、赤ちゃん用の服、様々な雑貨があった。さすが、コーヒー専門店の雑貨屋だ。本もある、コーヒーミルについて、か、手を伸ばそうとした時、カランコロン、とドアが鳴った。
僕たちは目があった、懐かしい髪の色、懐かしい瞳、懐かしいその顔、彼女は笑っていた。
「やっぱり、さつき君でしょ?」
大きく頷いた。嬉しくなった。
あの思い出の場所で、また出会えるなんて思ってなかった。
その時、
「すみません、もう閉店なので。」
若い店員が話しかけてきた。
「あ、すみません、今出ますね。」
彼女は僕を連れ出して、一緒に店をでた。
昔を思い出すのにはそう難しくなかった。あっという間に昔のように笑いあっていた。
高校を卒業してからなにをしていたのか、今はなにをしているのか、お互いのことを話した。
連絡先も交換した。僕たちはまた会う約束をした。

 

彼女に僕のいれたコーヒーを飲ませたのはそれから1週間もしないほどの出来事だった。
「まずっ。」
彼女はそんなことを言って僕を落ち込ませる。
「まだまだだねっ、おじいちゃんの味とは全然違う。」
それは知っている、難しいんだ、何度もこのやり取りをしていた。
お湯の温度のせいなのか、いれ方が間違っているのか、僕たちは試行錯誤しながら、それからもずっと2人でコーヒーを飲んだ。

今思うとコーヒーのおかげで僕たちは出会ったのかもしれない。あの蒸し暑い日の出来事から今の僕たちがいる。あのおじいちゃんのいれたコーヒーがあるから今の僕たちがいる。
なにも間違ったことなんてしてないんだ、コーヒーが嫌いだったこともこうして好きになれたことも、彼女と出会って悪いことなんてなかったんだ。

 

オギャーオギャーと泣く赤子の側で僕はコーヒーミルを回しながら美味しくなれと祈っていた。
「もう、泣いてるんだからちゃんと構ってあげてよ。」
彼女が部屋の奥から叫んでいる。
もう少しなんだ、あの味に近づけるんだよ、その声も彼女には聞こえない。
「ほんとさつきってコーヒー好きだよね、何にも見えなくなる。」
違うよ、飲ませてあげたいんだよ、あの思い出の味を。
ほら、飲んでみて、と彼女にホットコーヒーを差し出した。
「うん、美味しい。けど…まだまだだなぁ。」
彼女が笑っている。
また僕をからかっているんだ。
けど、これでいいんだ、幸せだから。コーヒーがこんなにも僕の人生に影響を与えるとは思わなかった。
昔飲んだあの味が忘れられなくて、今でも彼女とコーヒーについて話し合っている。

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