笑顔が素敵なコーヒーショップの彼女

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私が23歳の頃に住んでいたアパートの近くにフラワーショップと一緒になっているコーヒーショップがありました。
アパートはいつも通勤で利用している最寄りの地下鉄駅から1キロほど離れた小高い坂の上にあって、コーヒーショップは坂の登り口にありました。
いつものようにモーニングコーヒーを飲もうとしましたが、昨日でコーヒー豆が無くなっていたことを思い出しました。

 

昨日仕事が終わったら、会社の近くのいつもの店で買って帰ろうと思っていたのを忘れていました。
その日は土曜日で休日だったこともあって、いつもの店までコーヒー豆を買いに行くのには大変なので、坂の下にあるコーヒーショップで買ってみようかと思い、脱いだままの状態で近くに置いてあったTシャツを着て、髪の毛を手で軽く整えてサンダルを履いて財布だけ持って行きました。

 

毎日店の前を通っていますが店に入るのは初めてで、ウインドガラスが意外大きかったんだなぁ・・とちょっと外から店内を覗いてみました。
アンティークな飾りが下げられているお洒落な入口のドアをあけると「いらっしゃいませぇ~」と明るく透き通った声が響いてきました。
正面を見るとショートヘアに薄いグリーンのハンチング帽がとても似合っている女性店員の姿がありました。

 

想像していたよりもお洒落で綺麗なお店で、若い女性が気に入りそうな飾り付けがされていて、とても素敵な雰囲気をかもしだしていました。
もう少しきちんとした服装で髪もセットして来るべきだったと思いましたが、今さら気が付いたところでどうしようもありません。
コーヒー豆が並んでいるガラスケースの前に行って、どれにしようかと考えていたら、私より先に隣で見ていた40歳くらいの女性が「フレンチ300g、コナ300g、ブルーマウンテンブレンド300g、コスタリカ300gをドリップ用に挽いて下さい」と注文されました。

「ずいぶんと沢山買うんだなぁ」と思いながら、自分は気軽にブルーマウンテンを買えるほどお金が無いなぁと心の中で呟いていました。
その女性の会計が終わると、静かに笑みを浮かべたハンチング帽の彼女が寄ってきて「お決まりになりましたか?」と優しく聞いてくれました。
「フレンチを200g豆のままでお願いします。」と注文をすると、彼女は「初めてのお客様ですよね?お住まいは近くなんですか?」と聞いてきました。

 

私は少し照れながら「はい、そこの坂の上です」、「よく店の前を通るのを見かけるので、近くに住まれているのかなぁ・・と思っていたんです。」
「私のことを知っていたんですか?何か恥ずかしいなぁ・・」と答えながら、本当にどうしてこんな寝起きのような格好で来たんだろうと後悔していました。
「良かったら、またご利用下さいね」と丁寧にガラスケースからすくい取った豆を優しく袋に入れてくれて、さらに真空状態にして渡してくれました。

 

帰りのドアを開ける時に「ありがとうございましたぁ~」と背中から耳元に響いてくる心地良い感じに浸りながら、外のウインドガラスをさり気なく覗いてみると、はち切れそうな笑顔の彼女が小さくお辞儀をして見送ってくれました。
この何とも言えないドキドキ感はなんだろう・・・

 

部屋に戻って、さっそく彼女が詰めてくれたフレンチの豆をミルに入れて、僅か数分前に起こった彼女との会話を思い出しながら、ゆっくりとハンドルを回している自分がいました。
「俺、どうしちゃったんだ?まだ胸の鼓動が落ち着いてこない。」まさしく恋に落ちた瞬間でした。

 

彼女が言っていた「よく店の前を通るのを見かけるので」の一言が、私の脳裏から離れなくなってしまいました。
あの言葉が出てくるということは、彼女は私の存在を気にしているという事ではないか!?
そうでなければ、初対面の私にあのような言葉を掛けたりしないだろう・・・と勝手な妄想が始まりました。

 

よし!これからはあの店でコーヒー豆を買うことにしよう。
もっともっと顔なじみになって彼女に近づきたい。
それからというもの、私はあの”パルファン”に通うようになりました。

 

実は初めて行った時から彼女のことを考えると、いつもドキドキしていて店の名前も3回目に行くまで目に入っていなかったのです。
店名は”パルファン”、調べてみるとフランス語で「香り」という意味です。
何度も通ううちに、彼女との会話の中で少しづつ彼女のことが分かってきました。

彼女の名前は真壁美恵さん、北海道富良野市の生まれで、地元の高校を卒業後に札幌に出てきて短大在学中にこの店でアルバイトをしていたんだそうですが、この店のオーナーさんから「良かったらうちに来ない?」と誘われて、雰囲気が気に入っていた店だったので、そのまま就職をしたそうなんです。
年齢私の1つ下のは22歳です。

初めて会った時から2ヵ月ほど経った頃に、彼女をデートを誘ってみたい思いがMAX状態に達していました。
店に行った時に交わすほんの数分間の他愛もない会話で、彼女への想いが私の心の中の大部分を占領していました。
そんなある日の週末の午後、いつものようにコーヒー豆を買いに彼女のいる店に行きました。

 

するといつも笑顔で迎えてくれる彼女の姿がなくて、違う女性の店員さんだけしかいませんでした。
「真壁さんはお休みですか?」と聞いてみると、3日前から体調を崩していて休んでいると言うのです。
「いつ頃から店に出て来られるんですか?」と聞きましたが、「かなり調子が良くないようで、しばらくは出てこないと思いますよ」との事でした。

 

私は彼女に会えなかったショックよりも「彼女の身体にいったい何が起こったのか?」という心配のほうが強く込み上げてきました。
彼女と会う度に会話も少しづつ自然になってきていましたが住所は聞いていなかったのと、今と違って携帯電話も無かったので電話番号も知りませんでした。
女性の店員に電話番号を聞こうかとも思いましたが、変に警戒されるのが怖くて聞く勇気がありませんでした。

「ただの体調不良で、何かの病気になっていなければいいのになぁ・・・」と思う日々が2ヵ月を過ぎた頃に思わぬ場面で彼女の事が私の耳に入ってきたのです。それはいつものようにコーヒー豆を買いに店に入った時に、先に来ていたお客さんの婦人と店員の雑談をしていた声が少し離れた場所に居た私の耳に入ってきたのです。

「美恵ちゃん、そんな大変な事になってたのぉ」、「そうみたいなんですよ」、「まだ若いのにねぇ」、「エッ!大変な事って・・・いったい何!」
さらに耳を澄まして聞いていると、「でも分かって良かったわね。私もこんな年だけどちゃんと検査に行くようにするわ。」
そのご婦人は、そう言って店から出ていきました。

「あのぉ・・・ちょっと聞こえてしまったんですが、真壁さんは何かの病気で休まれているんですか?」と婦人と話しをしていた店員に聞いてみました。
「いつも店に来るたびに話しかけてもらっていて、最近ずっと姿を見ていないので心配していたんです。」
するとその店員が「あらっ!聞こえちゃった?そうなんですよ、彼女体調が悪いと言っていたんだけど、検査をしたら乳がんが見つかって最近まで入院をしていたんです。でも大丈夫みたいですよ。今は自宅療養中で来週から店に出て来ると言ってましたよ。」

「エ~、そんなことになっていたんですか、じゃぁ来週来たらお目にかかれますね。」そう言って店を出ました。
まさかそんなことになっていたとはビックリしました。
来週店に出てくるということは、元気になっているんだなぁと思い少し安心をしました。

それから毎日店の前を通る度に、それとなくウインドガラスから店内を覗いて彼女が居ないか確認をするようになりました。
そして翌週の水曜日の夜に店の前を通って店内を覗いた時でした、女性店員の姿が2人見えました。
一人は彼女のことを教えてくれた店員でしたが、もう一人は見たことのない女性でした。

「まだ彼女は出て来てないんだなぁ」と思って通り過ぎようとした時でした、そのもう一人の女性があの薄いグリーンのハンチング帽をカウンターの後ろから取って被ったのです。
「アッ!彼女だ、真壁さんだ。」私は思わず声に出して立ち止まりました。

通り過ぎそうになっていた足を何歩か後戻りさせて、店のドアを開けました。
「いらっしゃいませぇ~」久しぶりに聞く彼女の声でした。
「やっぱりあなただったんですね、お久しぶりでした。」

彼女は以前と髪型が違っていたので、私は一瞬気が付きませんでした。
「実は私、乳がんになってしまって仕事を休ませてもらって治療をしていたんです。」
「久しぶりにやすしさんの顔が見られて嬉しいです。」と以前と同じ優しい笑顔で話してくれました。

彼女の髪型が違っていたのは、抗がん剤治療の影響で髪の毛が抜けてしまったためにカツラを付けているんだそうです。
特にためらうこともなく彼女は教えてくれました。

それと何よりも嬉しかったのは、私を名前で呼んでくれたことです。
休む前まで彼女は、私のことを苗字の菅原で呼んでくれていたからです。
私はつい嬉しくなって、今までにないくらい彼女に話をしていました。

「実は美恵さんの姿を見かけなくなったので、とても気になって隣にいる彼女に聞いていたんです。元気になってホントに良かったです。」
と私も今まで読んでいた彼女の苗字の真壁さんではなくて、名前の美恵さんと呼んでいました。
気が付いたら、お互い何の違和感もなく呼びあっていました。

私は「そうだ!ここの店はフラワーショップと一緒になっているんだった。」と当たり前のことですが気が付きました。
彼女にいつものように「フレンチ豆のまま200gを2個お願いします」と頼んでから、彼女が準備をしている間に隣のフラワーショップに行って薄いピンクのバラの花束を作ってもらいました。

そしてまたコーヒーショップにもどって「退院おめでとうございます。またあなたの優しい笑顔にお目にかかることが出来て嬉しいです。」と何の恥じらいもなく言って彼女に花束を渡しました。
「これを私にですか?ありがとうございます。」彼女はとても喜んでくれて、うっすらと目に涙を浮かべながら、あの私の大好きな優しい笑顔で受け取ってくれました。

その日をきっかけに、彼女とお付き合いをすることになりました。
数年後に私が仕事の関係で九州に転勤になり、遠距離恋愛をしていましたが自然消滅の形になってしまいました。
風の噂で聞こえてきた話では、彼女は結婚をして子供が2人いて現在も元気で暮らしているそうです。
なぜ数十年も経っているのに、そんな事が分かるのかというと、彼女は結婚をした今でもあの店”パルファン”で働いているからなんです。

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