1杯のコーヒー

10年ほど前、私にはとても大切で大好きな彼がいた。彼は背が高くて、カラッと笑う笑顔の素敵な人だった。同じ年の彼とはアルバイト先で知り合って、いつの間にか2人で遊ぶようになった。
彼に会いたくて、大学生だった私はしょっちゅう彼に会いに行っていた。2人でたくさんの話をした。将来のこと、夢のこと、悩みのこと。たくさんたくさん語り合った。
何時間話しても話し足りない。話をするだけで、ときめいて楽しめるってもうないだろうな。人生の中で1番輝いていた瞬間だと思う。
当時、お金がなかった私たちはよく缶コーヒーを買って2人で飲んだ。壊れそうな軽自動車に乗って、海を見に行ったり、公園に行ったりした。あてもなく、何時間も一緒にいた。でもそれだけで、楽しかった。どうしてあんなに楽しかったんだろう。どの瞬間を取ってみても、キラキラ輝いてその瞬間だけ別の世界にいたかの様に思える時がある。私は幼かったのかもしれない。ただ、好きだった。彼の欠点も嫌なところも何も知らなかった。

 

2人でよく音楽も聞いた。はやりの曲を歌う彼の横顔、声が大好きだった。歌がうまくて、ギターを弾いてる時の真剣な顔とメロディーをそっと眺めてた。今、その曲を聞いても当時の事がフッと蘇ってくる。
静かで穏やかな時間をいくつも重ねていった。
寒い日も2人で出かけて、エアコンが効かない寒い車の中であったかい缶コーヒーを飲んだ。コーヒーを飲んだ瞬間、温かさと甘さで寒さが溶けていくのを感じた。2人で笑い合った。そして、はじめて彼と手を繋いだ。つないだ手のぬくもりとコーヒーのあったかさで、世界で1番幸せだと思った。

 

でも私たちは付き合ってたわけじゃない。好きで一緒にいたけれど、付き合ってっていう言葉が言えなかった。たったその事が言えなくて、でも言わなくても一緒にいられると思ってた。ずっと一緒にいたかった。

 

いつからか、2人で飲むのはブラックコーヒーになった。少しずつ少しずつ大人になっていってたのかもしれない。

ファミレスでも、たくさん話をした。
彼がこれから先やりたい事、くだらない事、どうでもいい事。何時間話しても話しがつきなかった。すっぱくて煮えたぎったコーヒーが美味しく思えた。何回おかわりしたかな。コーヒーを何杯も飲んだ。それはきっと、大切な人と同じ時間を共有できる喜びからだったのかな。ただ、側にいたくて、声が聞きたくて、一緒にいたかったから。でも積み重ねた時間はある日突然終わってしまった。

どうしてだったんだろう。2人で会わなくなった。最後はもう会うのはやめようって彼に言われた。その時は、今までの人生で1番泣いた。毎日毎日よくあんなに涙が出たなと思うくらい、何も手につかなくなって泣いた。そして、コーヒーを飲めなくなった。

 

あんなに好きだったのに、ずっと一緒にいたのに。私は彼女にはなれなかった。怒りとか悔しさじゃなくて、ただ悲しかった。体がちぎれるほど泣いて泣いて。
大学の講義にも出れなくなって、怒った先生からA4サイズのノートにレポート提出の課題が出された時、思いつくのは彼との思い出の言葉たちだった。行きたい国とか、やりたい事とか、好きな歌手とか。どうでもいい事だけど、私にとっては宝物みたいな思い出で、涙でノートがぐちゃぐちゃになって全部ふやけてしまった。
こんなに人は涙がでるんだ。初めて知った。
どうやったら忘れられるのか。本当に分からなかった。
それから2ケ月ぐらいたって、友達にようやく打ち明けた時、ホッとしたのと悲しみでまた泣いた。おしゃれなカフェが少しずつ増え始めた私の地元で、久しぶりにゆっくり友達と話した。ようやく、コーヒーが飲めるようになった。はぁ。ためいきと共においしいカフェラテが私を癒してくれている、そう思った。
何ておいしいんだろう。久しぶりに飲むコーヒーはおいしかったなぁ。

 

友達には彼に騙されたんだよ。って言ったけど、私はそうじゃないと今でも思ってる。
だって、お金を取られたわけじゃない。何かを取られたわけじゃない。私たちは手をつなぐことしかしなかった。もて遊ばれたわけじゃない。あんなにも、1人の人と向き合って大切にした時間は嘘じゃないから。
ずっと側にいてくれた事も、抱きしめてくれた事も本当のことだったから。
甘くて優しいコーヒーを分け合って飲んだ事を昨日のように思い出せるから。
幸せだったから。

 

大学を卒業して社会人になった私は、おしゃれなカフェでよくお茶をした。1杯のコーヒーが千円近くもするような所もあった。贅沢な日々を送っていた。友達と出かける時も必ずコーヒーを飲んだ。毎日、自由で楽しかったなぁ。と今になって思う。働くのは大変だけど、自分で稼いだお金で飲むコーヒーは誇らしかった。誰にも気を遣わなくていい。毎日飲めるコーヒーが大切なものだってことに、幸せだってことに気がつかなかった。当たり前だと思ってた。

 

社会人生活にも慣れて、充実した日々を送っていたある日、偶然彼に会った。会えなくなってから、4年ぶりだった。心臓が飛び出しそうなくらいドキドキ鳴って、太鼓を体の中で叩いているかのような衝撃が私の中に走った。でも涙は出なかった。あんなに、泣いたのに。あんなに、好きだったのに。
でも私は嬉しかった。自分の中でけじめをつけれていた事。彼の元気そうな顔が見れた事。
こっちに気づいた彼は、優しそうな彼女と一緒で、私はそっと手を振ってお店出た。
爽やかな少し冷たい風が通り抜けた。体から力が湧いてくるような不思議な感覚があった。そうか、私はもう強くなってるんだ。前を向いて生きてるんだ。絶対忘れる事なんて出来ないと思って泣いたのに。
人はまたがんばれる。
私は思い立って、近くにある美容室に髪を切りに行って、顔馴染みの店長さんにこの事を話した。
よかったね。そう言われた時、そうだ、もう私は大丈夫なんだって心の底から思えた気がした。よかったねって言われて初めて気がついた。
パーマをかけていると、店長さんがあったかいコーヒーを出してくれた。
一口飲むと、ホッとした。ああ、よかったね。自分で自分を抱きしめてあげた。体の中があったかく感じた。心の中に詰め込んでいた辛かった思いも、悲しみも全部吹き飛んでいった。
今は毎日、主人とコーヒーを飲んでいる。穏やかで当たり前の日常を過ごしている。30代になって、やっと気づいたことがある。それは、1杯のコーヒーがこんなにもおいしいってこと。実は、幸せに満ちた瞬間をたくさん過ごせているってこと。
コーヒーが飲めなくなったあの日。私は人生のどん底にいたけれど、今はこうして元気に暮らしている。だから、この何気ない生活を大切にして時間を紡いでいきたい。
これから先、40代になった時もおいしいコーヒーを飲んでいたい。主人と飲む何気ない毎日のコーヒーが幸せだと感じられる人間でいたい。そのために、今ある小さな幸せを集めて、守っていきたい。

 

50代になって、子供たちとコーヒーが飲めるようになった時、おいしいコーヒーを一緒に飲みたい。子供たちにこれから先、辛くて悲しい事があったら、温かいコーヒーを淹れてあげようと思う。私の母がしてくれたように、そっと側にいてちょっと苦いコーヒーを飲みたいと思う。ただ、黙って話を聞こう。どんな気持ちなのか、どんな事があったのか。子供たちに愛する人ができてら、その人たちともコーヒーを飲みたい。一緒に時間を重ねていきたい。
60代になったら、孫が生まれてまた忙しくしているかもしれない。かわいい孫と家族といい時間を過ごしているといいな。その時は、また幸せに満ちたコーヒーを飲みたいと思う。おいしくて温かいコーヒーを。
家族と1つ1つ、積み重ねた思い出のアルバムを見てそう思う。これからの人生にも毎日きっとコーヒーを飲むだろう。アイスコーヒーの好きな主人のために、毎日コーヒーを淹れるだろう。

あの時、たくさん流した涙もきっと無駄じゃなかった。今はそう言える。もし、もう一度彼に会えたら、今度はおいしいカフェラテを一緒に飲みたいと思う。もう、あの煮えたすっぱいコーヒーは飲めないな。何時間もファミレスにはいれないな。あんなにも楽しい時間は過ごせないだろうな。温かい場所で、おしゃれなカフェで、もう一度でいいから話をしたいな。あれからどんな人生を送ってきたのか、どんな今を過ごしてるのか。また、話したいと思う。お互いの話をしながらコーヒーを飲みたいな。
そして、文句を言ってやろうと思う。ケンカを1度もしたことなかった私たちだったから、言いたいこと、言えなかったことを言ってやろうと思う。冗談まじりに、笑って伝えたい。大好きだったって。彼女になりたかったって。まぁ、分かってただろうけどね。今なら何でも言えるから。今なら素直に言えるから。何で彼女になれなかったかも聞きたいな。今なら言ってくれるかな。聞いたところで何も変わらないけどね。
いっぱい辛かった気持ちも、全部全部言ってやろう。彼は何て言うかな。呆れるだろうな。もう何年も昔の事じゃないかってね。でもそんな呆れ顔を見たいな。また歌声を聞きたいな。好きとかそういう気持ちじゃなくて、同窓会で懐かしい友人に会えた時の喜びの様なそんな感じに似ているのかもしれない。
これは、私の妄想だけどね。きっと会う事もないだろうけどね。

 

今どこで何をしてるんだろう。そんな事を考えながら、1人でコーヒーを飲むのもなかなかいい。
さあ、今日は何をしよう?よし、今からがんばろう。そんな時は必ず1杯のコーヒーを飲んできた。私を支えてくれた。くたくたに疲れた夜も眠れない夜にも。これから先もきっと眠れないくらい悲しい夜があるかもしれない。涙が止まらない日々がくるかもしれない。でも、私は1つ1つの思い出を胸に、1杯のコーヒーを頼りにこれからもがんばっていこうと思う。

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