カップの記憶

「何にしようかな。」
「昨日飲み過ぎちゃってさ、だから濃いしっかりしたのがいいなぁ。」

仲の良さそうな若いカップルが笑顔で店に入ってきた。
「ねぇ、カウンターにしようよ」という彼の言葉に従って二人が私の目の前に座る。

「お願いします!僕は、ブレンドで。」
「私は・・・カフェラテにしようかぁ」

うんうん、カウンターでホット。
私が一番好きな組み合わせだ。

「どのカップにしますか?」
「カップって選べるんですか?」
「ええ。このカップは私が趣味で作っていて、カウンターに座って下さったお客様に選んでいただくようにしているんですよ。」
「やったー!すごーい!どれにしよう!」という彼女に
「カフェラテなら、これとか、これみたいな少し大きいカップがオススメですよ」とアドバイスをする。

「わかりました!これにします!この、取っ手が猫の尻尾みたいにくるんってなっているのが可愛い!」と笑顔で答えてくれる彼女。
その様子を見守る彼の眼差しが暖かい。
懐かしいなーという感覚を覚える。
彼もお気に入りのカップが決まり、薄いブルーの線が美しいのそのカップでコーヒーを淹れる。
「ありがとうございます」
「わー、カフェラテが入るとちょっとカップの雰囲気が変わるかも!」
「そんなこと分かるの?すごいじゃん!」
「気がするだけかも?」

90年代に流行ったJAZZのBGMをバックに、そんな可愛らしい会話が聞こえてくる。
いつの時代であってもコーヒーを前にすると人は時を超えて暖かい空気を感じられるというのはこのことなのかなと思う。
若いカップルに、このコーヒーとカップとBGMは合っているし、
奥にいる初老の男性にも同じように似合っているのだから。

 

この二人は「ユウくん」と、「マリちゃん」というそうで、それから頻繁にお店に通ってくれるようになり、
何度もカウンターで話をするうちに連絡先を交換し、いつか美味しいコーヒーの淹れ方を教えてあげるわねなんていう
会話まで出来るようになっていった。
可愛い常連客ができて私も嬉しかった。
そして、いつもその時の気分でカップを選ぶ二人だったが、何かの記念日や特別なことがあったであろう日は、あの日に選んだ、
薄いブルーの線が入っているカップと、猫の尻尾のようなカップを選んでいることを、私はこっそり知っていた。
少し元気のない様子のマリちゃんが一人でやってきた。
いつも二人で来るのになと思いながら、今日は縁がオレンジ色のボールカップにカフェラテを淹れると静かに飲み始めた。
待ち合わせかなと思いつつも、ユウくんはやってこない。
お店にもお客様はもう誰もいなくなった。
そろそろ閉店の時間となり、マリちゃんに目をやると

なんだか・・・泣いているよう・・・

私はそっと店の外へ出て、看板を「CLOSED」にする。

「どうしたの?何かあった?」と聞くと、ハッとしたように周りを見渡す。
そして店に誰もいなくなっていることに気づくとすぐに
「ごめんなさい、もう閉店ですか?わっ、もうこんな時間になっちゃったんですね。すみません。」と謝ってくる。
「いいのいいの、そんなこと」と言いながら、マリちゃんをなだめ、
「今日はどうしたの?彼が来ないなんて珍しいね」と話しかけると、
「はい、今日は一人なんです。実は・・・」とポツポツとマリちゃんは話しを始める。

 

「彼が、来月京都に転勤になっちゃって。突然、昨日言われて、寂しくて、どうしたら良いかわからなくて・・・私も仕事があるから、今すぐ辞めるわけにもいかないし、それに、辞めて京都に付いて行っても迷惑かけちゃうだけだから出来ないし・・・」と涙が溢れてくる。

私は冷め切ってしまったカフェラテのカップを下げ、いつもの猫の尻尾カップで新しいカフェラテを出してあげると、
ちょっとびっくりした表情で「ありがとうございます」と言う。

「そうなんだね。いきなり転勤になっちゃうと辛いよね。」
「はい、私、今まで仕事帰りとかに彼と会って食事をした後、このカフェでコーヒーを飲むのが大好きだったんです。このカウンターで横並びになりながらいろんな話をしてきました。最初にこのお店に来た時、彼がカウンターにしようって言ってくれたのがきっかけで、素敵なカップにも出会えて。対面の席じゃなくて、ゆったりしたこのカウンターで、おしゃれなBGMを聞きながら飲むコーヒーが、なんかちょっと大人な気持ちになれて、好きだったんです。」

想いがゆっくりと溢れてくる。

 

「電話とかで喧嘩しちゃった次の日に、ここで並んでコーヒーを飲んでいると自然と仲直りもしちゃってて・・・不思議ですよね。
でも、そうだったんです。彼が京都に行っちゃったら、こうやってここでコーヒーを飲むことも、
もうできなくなっちゃうのが、とっても寂しくて。」
「うん、うん」と話を聞く。
「でも、寂しいって言っていても、転勤はもう決まっているし、しょうがないんですけどね。
また彼がこっちに帰ってきた時に、一緒にコーヒーを飲みに来ても良いですか?それまでは私一人になっちゃうけど。」
「もちろんよ。私も楽しみにしているわ。」と答える。

マリちゃんの表情が少し明るくなったように見えたので、ある提案をしてみる。

 

「今週の日曜日の夜って空いている?」
「え・・・はい、空いてますけど」
「それなら、ここに夜8時に来てくれない?一緒にコーヒーカップ作ってみない?
彼が、京都の一人暮らしのお部屋でも美味しいコーヒーが飲めるように。」
「わぁ、素敵!」
マリちゃんの表情がパッと明るくなる。
「じゃあ決まりね。お店はちょっと早く閉めちゃうから、待ってるわね」と約束をし、マリちゃんは帰って行った。

 

日曜日の夜8時。
約束の時間より少し早めにマリちゃんはお店にやってきた。
テーブルの片づけなんかを一緒にやってくれ、お店の裏の小さな工房に案内をする。
たくさんあるサンプルから、好きなデザインを選び、イメージを持ったところで土を捏ねてゆく。
彼のことを思い、アクセントになる色を決めてゆく。

出来上がったカップは優しい風合いの丸いシルエットに、底だけが濃いブルー。

うん、とっても良い感じだ。

焼き上がりから乾燥まで3週間ほどかかるため、あとは私に任せてもらい、出来上がったら連絡をする約束をし、
マリちゃんは万遍の笑みで帰って行った。

 
3週間後の日曜日夜8時。
約束の時間通りにマリちゃんは店にやってきた。
完成したカップを見るなり、感激して泣いてしまう。
「本当に素敵。こんなに上手にできたから、彼も私のことも、このお店のコーヒーのこともたくさん思い出してくれますよね。
本当にありがとうございます」と何度も頭を下げる。

 

「ううん、いいのよ。素敵なカップができてよかったね」
「はい、彼のびっくりする顔が楽しみです」
「そうね。じゃあ、この白い箱に入れてリボンで結びましょう」と一緒にラッピングをする。

8時20分。
「カランカラン」と少し約束より早く店のベルが鳴った。
もー、ギリギリと思いながら扉に目をやると、ユウくんが優しい笑顔で立っていた。
「え、なんで」と驚くマリちゃん。
ユウくんにマリちゃんの横、いつものカウンターの席に座ってもらう。

 

「ユウくん、どうしてここにいるの?今日、友達と送別会じゃなかったっけ?」
「うん、さっき終わったんだ。マリがここにいると思ってね」と言いながら、ユウくんは白い小さな箱を取り出した。

「え・・・」
「今日は一人なの?珍しいね」
「そうなんですよ、実は、今日京都への転勤が決まっちゃって、さっき彼女にそのこと伝えたら、
あいつ、泣きたいくせに我慢して、笑顔で頑張らなきゃだね、なんて言うんですよ。
泣き虫の彼女が健気にそんなこと言ってくれる姿に、なんかこう、余計寂しくなっちゃって。
僕なのにね、転勤して行っちゃうのは。」
少し表情は暗い。
「そうだったんだね。」
「付き合ってそろそろ四年なんですけど、まだプロポーズもできてなくて、
このタイミングで転勤か〜とか思っちゃうときついですよね。」
「転勤はいつなの?」
「来月の半ばです。だからまだもう少しここに二人で来られますね。
僕たち、デートの最後にここで並んでコーヒーを飲むのが大好きで、しかも彼女、猫カップとか言って、
あの猫の尻尾のかたちしたカップは特別な記念日とかにしか使わないって言うんですよ。
思い出がたくさんあって、正直、彼女と離れてしまうのも寂しいけど、ここでの彼女との時間がなくなってしまうのもすごく寂しいんです。」
「まだ結婚は先?しばらくしないの?ごめんなさい、踏み込んだこと聞いちゃって」
「いやいや、話し始めたのは僕の方なんで。そうですね、結婚はしたいんですが、
プロポーズのタイミングが難しくて・・・転勤にもなっちゃいましたしね。
彼女も仕事があるから今すぐ付いてきてもらうのは無理ですしね。あー、どうしよう」
と頭を抱えるユウくんの様子を見ていると、何か私にできることはないかと頭の中をぐるぐると駆け巡らせる。

 

あ・・・

「ねぇ、今週の土曜日空いている?」
「あ、はい。昼間は彼女と出かけるんですが、朝なら・・・」
「それなら、朝7時にここに来て、一緒にマリちゃんにカップを作ってあげない?」と提案をしてみる。
「え!いいんですか?」
「ええ、もちろん、私が提案したんだもの。プロポーズするかどうかはあなた次第だけど、
マリちゃんが一人でも美味しいコーヒーを飲めるように、少しでも心が繋がっている感覚が味わえるように、
心を込めて作ってプレゼントしてあげましょうよ。」
「はい!是非、お願いします!彼女、絶対に喜びます!」
「よかった。じゃあ、土曜日の朝7時に待っているわ」と約束を取り付け、ユウくんは何かを決意したような表情で帰って行った。

ユウくんはセンスが良かった。
初めてとは思えない手つきで土をこね、形成してゆく。
猫のしっぽカップがお気に入りのマリちゃんが好きそうな、カップのふちを二ヶ所ちょんと尖らせ、
猫の顔に見立てた丸い可愛らしいカップが完成した。
完成まで3週間後を目安に引き取りに来てもらうことを約束し、ユウくんはデートに向かっていった。

 

3週間後ぴったりにユウくんが店にカップを取りに来て、完成した猫カップを見て大いに喜んでいた。
「うわーこんなにしっかり出来るんですね。色もいい感じだし、本当に猫カップですね」
「センスが良いから初めてなのに、こんなに素敵にできたのね。あ。マリちゃんへの気持ちがこもっているからか」
「へへへ」とはにかむ。
「僕、彼女にプロポーズすることに決めました。僕たちは指輪よりも、きっとこのカップの方が思い出になると思うので、
彼女が指輪を欲しがったら今後買うとして、プロポーズはこの猫カップでいきたいと思います!」
「素敵じゃない!猫カップは大役ね!」と私もなんだか一役買えたようで嬉しい気持ちになる。
「明日の夜、ここに来ても良いですか?」
「もちろん良いわよ。あ、でも、あなたが誘うんじゃなくて、サプライズでくるっていうのはどう?」
「それ良いですね!明日の昼、僕の送別会を友人がしてくれるんですけど、彼女には時間まで言っていないので、終わったら来たいと思います。」
「そうしたら、お店を夜の8時に閉めて貸し切りにしてあげるから・・・そうね、8時半に来てくれる?
マリちゃんには私が閉店後、コーヒーを飲みに来ないか誘ってみるわ。ダメならまた連絡するわね。」
「わかりました!予定ないって言ってたんで大丈夫だと思います」という言葉を残してユウくんは明日に備え、大事そうに猫カップを
胸に抱えて帰って行った。

 
私は小さなホールケーキを焼いてみる。
コーヒーに合うように、ちょっと甘さ控えめのケーキを。

なぜだろう、私もうきうきしている。
明日という特別な記念日に立ち会える喜びが胸の奥に暖かくこみ上げていた。

「ユウくん、どうしてここにいるの?今日、友達と送別会じゃなかったっけ?
・・・・え。この箱って。」
私はそっとカウンターの奥に行き、二人の時間にしてあげる。
今日も90年代のJAZZが店内には流れてる。

「マリ、結婚してください」
「え・・・」
「転勤が決まって、マリの笑顔が今までみたいに見れなくなってしまうのが辛い。
ここでコーヒーを飲めなくなってしまうのも寂しい。ごめんね、転勤するの僕なのにわがままで・・・。」
「ううん・・・」

声にならない声が、涙が、マリちゃんの頬をつたっている。

「今すぐ、付いて来てもらうことは、マリも仕事があるから出来ないけど、ちゃんと二人で準備をして
結婚に向けてこれからの遠距離恋愛を頑張ってほしいと思っている。」

「これ・・・」と、ユウくんは、白い箱から猫カップを取り出す。
「僕たちは、この場所でコーヒーを飲んで絆を深めていったように思うんだ。色んな話しをしたよね。
喧嘩した後仲直りもしたし、旅行の計画だってした。昇進のお祝いだってしてもらったよね。
記念日だって何回もここで迎えたね。だから、僕から、マリへこのカップを贈りたいと思うんだ。」
「猫の顔・・・かわいい・・・」
「そう!よくわかったね。実はこれ僕が作ったんだ。ここで教えてもらって、マリのことを思い浮かべて
一生懸命やったんだよ。マリが一人になってしまう時間も、美味しいコーヒーが飲めますように、寂しくなりませんようにって願いを込めてあるから、だから大丈夫。
必ず迎えに来るから、だからそれまで一緒に頑張ってくれませんか?」

マリちゃんが、そっとカバンから白い箱を取り出す。
「これ・・・」
「この箱って」
「うん、あのね、私もユウくんが京都で寂しくならないように、私のことも、ここで話したことも
忘れないようにって思って、カップを作らせてもらっていたの」
「すごく素敵だね。僕の好きな濃いブルーがおしゃれだね」
「うん、ユウくん。私、待ってていい?一緒に頑張らせてくれる?」
「こちらこそ、お願いします。ずっと一緒にいよう。これからしばらく寂しい思いもさせてしまう
かもしれないけど、頑張って行こうね。帰ってきた時はここでまたコーヒーを飲もう。」
「うん、宜しくお願いします。」

その言葉を聞いて、私はカウンターの奥から用意しておいたケーキを持って二人の前に進む。

「おめでとう。頑張ってね。」

「え、これって、僕たちに?」
「おめでとうって書いてあるよ!わーかわいい!ありがとうございます!」

「ねぇ、ユウくん、このカップでコーヒー淹れてもらわない?」
「あ、いいね!最初は一緒にいるときに使えたら思い出になるよね」
「うん、良かった!」

私は二人からカップを預かり、ゆっくり丁寧にコーヒーを入れる。

「本当にありがとうございました」
「私たちお互いにこんなに素敵な提案をしてくれて、一緒に考えてくれて、
こんなに素敵なプロポーズまでしてもらえたのがこのお店のこのカウンターで、私本当に幸せです。
このカップ、どんなに高いダイヤの指輪よりも私にとっては何倍も価値のある贈り物になりました。
すごくすごく嬉しいです。
私も同じ気落ちを込めて彼にカップが作れたので、思いがたくさん伝わってくるんです。」

「そんな素敵なこと言ってもらえて私も嬉しいわ。ありがとう。」

「いえ、そんなお礼を言うのは僕たちの方なんです。
僕も最高のプロポーズができたと思います。ありがとうございました。
必ず戻ってきた時は二人でコーヒーを飲みに来るので、それまで彼女が一人で来た時は
宜しくお願いします。泣き虫なんで、喝入れてやってください笑」
「もう・・・泣かないもん」

そんな幸せたっぷりの二人を見ていると自然と私まで胸にこみ上げてくるものがある。
「さぁ、コーヒー入ったわ。私も一緒に飲んで良いかしら?」
「もちろんです!」と二人が声を合わせる。

 
「ただいま」
「お帰りなさい」
「コーヒー豆の良い香りがするね。」
「今、コーヒー淹れるわ。座って?」
「あぁ、ありがとう。」
「もう再来月になったわね、結婚式まで。」
「うん、早いなー。」

彼の前に、淹れたてのコーヒーを置く。
お気に入りのボーダーのレトロな形のカップだ。

「ありがとう。なぁ、転勤になった。」
「え?いつ?」
「今月末」
「もうすぐじゃない。次はどこに行くの?」
「ここから20分のところ」
「え・・・それじゃあ・・・」
「やっと一緒に暮らせるね。結婚式より前に帰ってこられて良かった。」

嬉しい。やっと彼と一緒に毎日を過ごせるんだ。
今にも泣いてしまいそう。彼の前では泣かないって決めていたのに。

「このカップにも本当に世話になったな。」と、手提げ袋から、グリーンの色が鮮やかなカップを取り出す。
私もカウンターの奥から、ピンクの花が描かれたカップを取り出す。
「本当ね。もう1年になるのね。でもこのカップをあなたからもらえたから、私も一人でこの店で
頑張っていこうって思えたのよ。」
「それは僕だってそうだよ。」
「あの喫茶店で、カップを選んでコーヒーを飲めることを知って、
しばらく通ったあと、おばあさんに特別に作らせてもらったね。」
「そうだね、一緒に作ったな。でもさ、それもそうだけどお前、最初にカップ選んだ時、
なかなか決まらなくて、お花が描いてあって可愛いとかいって、花柄が描いてあるカップ選んでいたよな。」
「うん、懐かしいね。どれにしようか迷ったなー。」
あぁ、思い出した。
ユウくんとマリちゃんを見た時、なんだか懐かしいと思った感覚はこれだったんだ。

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Good Luck Coffee

5年ほど前に私がオーストラリアに住んでいた時の話
当時私は、今では日本でも一般化してきた「シェアハウス」という平屋の一軒家に様々な国籍の人と4人で暮らしていた。

 
「シェアハウス」はその名の通り、一軒家やアパート、何部屋かあるマンションの一室を数人でシェア(分配)をして住むことをいう。私はオーストラリア人のオーナーの女性とスコットランド人、ブラジル人の男性と暮らしていた。その時私はシェアハウスに住むことも初めてだったし、もちろん日本人以外の外国人と一緒に住むことも初めてだった。それは最初、英語を話すことも十分でない私にとってカルチャーショックの連続だった。

 

初めは言いたいことも上手く伝わらず、相手の言ったこともよく分からず、自分の無力さに泣いてしまうこともしばしばだった。それでも一緒に暮らしていた人たちは皆優しく、忘れられない時を共に過ごした。特にスコットランド人だったデリックは英語が拙い私にも分かるようなジョークで、たくさん笑わせてくれた。

 

デリックはオーストラリアで働いていて、私たちの住む家から1時間はかかる隣町まで車で通勤していた。そんな彼の朝は家に住む4人の中の誰よりも早く、私が目を覚ましてリビングへ向かう頃には、いつもスーツに着替え朝食をとっていた。デリックは毎日私に「モーニング」と挨拶をしてくれた。そんな時リビングにはいつも美味しそうな朝食のにおいとコーヒーの香りが漂っていた。

 
「今朝は何を食べているの?」と質問すると「ゆで卵」「パン」「フルーツ」とその日の朝食メニューを説明してくれた。たまに海外のよくわからない食べ物を食べてることもあった。「それはなに?」と聞くと「なんだって?これを知らないの?これはグラノーラバーだよ」と教えてくれたりもした。「グラノーラバーなんて日本人は食べないよ」と言うと、大げさに「こんなに朝食に最適なものを日本人が食べないなんて!」と驚いてみせていた。

 

よくわからないものは食べ物だけでなく、彼が所有するいわゆる便利グッズも日本では見たことがないものが多かった。例えば卵型の鉄製の物体を彼が自慢そうに「これは何か分かるか?」と説明してくれたことがあった。はて?そんなものは見たことも聞いたこともない代物だ。彼曰く「これはゆで卵の丁度いい湯で具合を教えてくれるものなんだよ。これを卵と一緒にお湯の中に入れると、球体の上部に赤い線が浮き上がるんだ。それが丁度いいゆで具合のゆで卵が出来たというサインなんだ」彼はさもそれを自分が発明したかのように誇らしげに語っていたが、私には別にゆで時間を計ればいいのではないか?としか思えなかった記憶がある。

 
その「ゆで卵の丁度いいゆで具合を教えてくれるグッズ」と同じぐらい彼の自慢の便利グッズだったのが、コーヒーのフレンチプレスが付いたマグだった。
実際に彼は毎朝そのマグでコーヒーを飲んでいた。今でこそコーヒー豆を買い、ミルマシーンで豆を挽いて飲むほどコーヒーが大好きな私であるが、当時私はコーヒーを飲むなんてことは、ほとんどなかった。だからフレンチプレスの器具も見たこともなかったし、ましてマグと一体化したものがあるなんてことは思いもよらなかった。だから彼が毎朝コーヒーを飲んでいるカップの奇妙な形が不思議でならなかった。なぜ変な棒が飛び出たような蓋がついてるマグで彼が美味しそうにコーヒーを飲んでいるのか、いったいその棒が何なのか気になっていた私はついに「いつもコーヒーを飲んでるそのマグ変わってるよね」とデリックに言ってみたのであった。

 

彼はまたしても、よく聞いてくれた!と言わんばかりの得意げな表情で「このマグはすごい便利なんだよ」と、いかにそのマグが便利であるかを熱心に語ってくれたのだが、いかんせんその頃まったくといっていいほどコーヒーの知識が無かった事に合わせて、英語の理解能力も低かった私には彼の言ってる事がほとんど理解できなかったのである。

 

身振り手振りで必死に伝えようとはしてくれていたものの、そのフレンチプレスの機能と手順がそもそも分かっていなかった私にそのマグの便利さを理解するのは到底無理であっただろうと今でも思う。というわけで、ただぼんやり「なんか分からないけどコーヒーが便利に飲めるマグなんだなあ」としか、悲しいかな思えなかった記憶がある。とりあえず熱心に説明した後にキラキラした瞳で「どうだ、便利だろ?」と私を見つめた彼に「sounds good(それは、いいね)」とだけ答えたが、彼は満足そうに「Yes」と頷いていた。おそらく当時、日本にはまだこのようなフレンチプレス式のマグはそれほど出回っていなかったようにも思う。

 
こんな感じでお互いに違う国の違う文化についてのちょっとした発見を話しては、驚いたり訝しんだり、不思議に思ったり、妙に納得したりしていた。それが私たちの他愛もない日常だったのだ。
その後、私はこの家を出て違う町へ移りデリックも仕事で違う町に行くことになった。私が家を出る日も彼はいつものようにリビングのカウンターに座りコーヒーを啜っていた。そしていつもの通り「モーニング」と挨拶をした。すべてがいつも通りの朝だったけれど私は大きなスーツケースを引きずって「デリック、私は今日でこの家を出ていくの」と静かに言った。彼は「知っているよ」と何を今更というように少しおどけてみせた。私は心の中で「知っているよ」だなんて、今日でお別れなのに寂しくないのか!と少しスネた気持ちになった。私の方は今日でこの家と皆とお別れなんて信じられない気持ちで、胸がいっぱいで何と言ってよいのやら言葉に詰まった。

 

その時、彼は急に立ち上がり私に近づいて言った「そんな顔するんじゃない。君は新しい場所に行くんだろ?君は次のステージへ進むんだ。幸運を祈っているよ。」そんなようなことを言って、最後にしっかり私のことを抱きしめてくれた。

 
実はデリックは私より20も年上の私からしてみればオジサンだったのだが、その時は何てカッコいいことを最後の最後に言ってくれたんだと目がハートになってしまった。

 

こんなカッコいいセリフをさらりと言うなんてさすが外国人。しかも当たり前だけど、英語で言うからなおさらカッコよく聞こえた。デリックがあと10歳も若ければ確実に恋していたであろう。いや、最後のセリフを言ったときもう恋に堕ちてたかもしれない。なにわともあれ、デリックに最後のセリフを言われ最後の抱擁をされた時、恋愛映画の主人公のような気分になったことは間違いない。私は「ありがとう」と言って彼と別れた。

 
それからあっという間に時は過ぎ、そんな外国人4人と楽しく暮らしていたことも思い出になっていた頃、急に私の眼前に現れたのである。デリックではなくて、デリックが持っていた「なんか分からないけどコーヒーが便利に飲めるマグ」が。それはコーヒーが特集されている雑誌に掲載されていた。そう間違いない、この何だかよくわからない棒が付いた蓋のマグ。最初はそれがデリックが自慢していたソレと気づかなかった。「どこかで見たことがあるけど、どこで見たんだっけな?」そう考えて思いついた。そうか、これはあの時デリックが持っていたマグだ!ということに。

 

もうそこからは食い入るように読んだ。そのマグの特性を。そして私は遂にデリックのマグがどれだけ便利な代物であったかということを何年か越しに理解したのであった。
ちょっと大人になってコーヒーの美味しさが分かるようになった今、やっと解けた謎。確かにこんな便利なものだったら私も欲しいなあ、と今なら思う。こんなに便利なものだったら確かにあんなにも熱心に良さを説明してくれたことにも納得がいく。デリックはまだあのマグでコーヒーを飲んでいるのだろうか?「デリックさん、私もやっと大人になってこのマグの素晴らしさに気づきましたよ。コーヒーの美味しさにも気づきましたよ。」心の中で彼に呼びかけてみる。彼はきっと「今頃になって、やっと分かったのか!」と呆れた顔をするに違いない。その通り。まだ私はやっとコーヒーの美味しさに気づいたその程度のステージに立っています。そしてまだあの時のデリックの言葉を超えるような素敵なセリフも、どの男性からもいただいておりません。

 
人生は不思議だ。私はまだ実のところそんなに長く生きていないのだけれど、たまにこれが私の身に現実に起こっていることなのかと疑わしく思う瞬間に何度か出会ってきた。デリックとあのフレンチプレス付きのマグの思い出も今では本当にあったことなのかと思う。でも雑誌でマグを見つけたとき、確かに不思議な興奮があった。なんだか初恋を思い出したようなそんな気分だった。やっぱりあのデリックのマグ買おうかしら?そうしたらそのマグでコーヒーを飲む度に初恋を思い出すようなそんな気分になれるかもしれないな?「どう思いますか?デリックさん?」ちょっと意地悪な彼ならこう言うに違いない「そんなマグを買って、それでコーヒーを飲んで初恋がどうとか言ってる暇があるなら、さっさと新しい恋人か結婚相手でも見つけた方がいいぞ!」全く腹立たしいほどにおっしゃる通りである。いつになったら私の次のステージで一緒に踊ってくれる男性が現れるのやら。一緒に美味しいコーヒーを飲んでくれる方であればなお歓迎したい。

 

そんな私にいらぬもう一声が聞こえてくる「だけどもあのマグを買うなら、ついでにゆで卵の丁度いいゆで具合を教えてくれるアレも買った方がいい。そういうことで、健闘を祈る」

 

おそらく遠い海の向こうのどこかで、朝早く彼は今でも朝食とともに、あのマグで美味しいコーヒーを飲んでいることであろう。同じく彼にとって遠い海の向こうのどこかにいる、20歳程も年の離れた英語が拙い、コーヒーのことがまるで分っていない日本人の女の健闘を今も祈ってくれていればいいのだが。

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