コーヒーの匂いに誘われて

僕の別荘は穏やかな木々に囲まれている。山が丸々1つ私有地なのだ。僕の祖父のそのまた祖父が買い取り、それ依頼ここは僕の先祖の土地となっている。夏は涼しく、冬は暖かいこの場所が気に入り、学校が長期休暇に入ると僕はここにやってくる。
父さんも母さんも仕事で忙しい。家にいても暇だし、友達も多い方ではない。だから、むしろここで長い休みを過ごす方が楽なのだ。

 

今日は大学初めての夏休み1日目だ。昨日まではテスト週間で、苦しみから解き放たれた瞬間、僕は1ヶ月も前から準備していたスーツケースを持って別荘へ旅立った。大学の休みは中学や高校までとは違い2ヶ月と半月もある。今までと比べ、2倍以上も長くなった休みを謳歌できることに、僕はわくわくしていた。

 

別荘に来て始めにやることはやはりコーヒーを淹れることだ。僕の父親が大のコーヒー好きで、小学生の頃はここに来る度に父さんのコーヒーを飲んでいた。父さんは苦い大人なブラックコーヒー、僕はミルクと砂糖たっぷりのミルクコーヒー、そして母さんは輪切りレモンを浮かべたレモンティー。各々が好きなものを飲んでリラックスする昼下がりが何よりも至高で至福な時間。それは1人で来るようになっても変わらず、今日もミルクたっぷり砂糖たっぷりのミルクコーヒーを飲む。
柔らかい陽が差し込む窓辺の机。そこにコーヒーと持ってきたクッキー、読み途中の小説を置く。椅子に腰を掛け、小説を読みながらコーヒーを飲む。時折クッキーを食べ、乾いた口を潤すようにコーヒーを飲む。そんなゆっくりとした時間が流れ始め早1時間ほど経った頃、僕はどこからか視線を感じた。
僕には霊感がない。しかし、突然目覚めてしまったのだろうか。この18年間、別荘では見ることがなかったあれを、今日初めて見ることになるのだろうか。
小説から視線を逸らし、ゆっくりと窓側を見る。すると、窓にべったりと張り付きじっとこちらを見つめる少女と目が合い、僕が驚いてしまった。
「ここあけて」
口をぱくぱくしながらそう言ったような気がする。こんな山奥に来る物好きもいるもんだな、と思いながら僕は彼女に玄関の方を指さした。少女はこくんと頷き玄関へ向かう。僕も玄関へ向かい、がちゃりを鍵を開けると、つい先ほどまで窓の向こうにいた彼女が入ってきた。
「初めまして」
「は、はじめまして」
彼女は礼儀正しく挨拶をし、深々とお辞儀をした。上の方で束ねたポニーテールがゆらゆらと揺れる。半袖のブラウス、無地のリボン、チェックのスカート、白い靴下に黒い靴。白いカンバスを両手で抱え、腰から下げたショルダーバッグからは筆が数本飛び出ていた。
山のふもとには村がある。そこの学校に通っている生徒だろう。

 
「コーヒーの良い匂いがしたから来ちゃいました」
彼女の微笑みは愛らしく憎めない可愛らしい笑顔だった。そんな笑顔が出来るならきっとこの子は悪い子ではない。そう感じ、彼女に「コーヒー飲む?」と聞く。
「砂糖は?」
「たっぷり」
「ミルクは?」
「たっぷり」
彼女の要望を聞きできあがったミルクコーヒー。僕が小学生の頃から飲んでいるものと同じだ。先ほどまで座っていた場所へ移動し、彼女にミルクコーヒーを差し出す。カップに鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。そして一口飲むと、ぱぁと太陽のような笑顔をした。
「おいしい!」
また一口飲む。本当に幸せそうな顔をするので、僕も嬉しくなってしまった。
「実は私、コーヒーより紅茶派なの」
「え?」
「でも、お兄さんのコーヒー美味しい。コーヒー好きになっちゃった」
つくづく僕にとって嬉しい言葉や表情をしてくれる。「クッキーもどうぞ」と勧めると、「いただきます」と言って食べ始めた。
「そういえば、何でこんなところにいるの?」
クッキーとコーヒーを交互に飲み食いする彼女に聞く。
少女の高校も今は夏休みの真っ最中らしい。しかし、夏休み中でも授業はないが部活はあり、その課題を終わらせるためにここへ来たのだそうだ。
彼女は高校2年生で美術部に所属しているらしい。1週間で今は椅子に立てかけてあるカンバスに絵を描いてこいと言われたそうだ。村でやると他の部員で景色が似通ってしまい、最悪同じ絵を描くことになってしまう。他人と被らないため、山奥まで来たらしい。
「お兄さんのコーヒーでリフレッシュできた。ありがとうございます」
彼女はコーヒーとクッキーを完食し、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。下ろしていたショルダーバッグを肩にかけ、カンバスを持つ。
「もう行くの?」
「そろそろ行かないと夕方になっちゃうし、絵を描く場所だけでも決めておかないと」
彼女は「また来るね」と言って行ってしまった。

昨日と同じくらいの時間、僕は期待を胸にカップを2つ用意した。両方のカップにミルクたっぷり、砂糖たっぷり入れる。熱々のコーヒーを淹れ終わると、甘いミルクコーヒーができあがった。
「お兄さん!」
と、ちょうど昨日の彼女が入ってくる。昨日あったばかりなのに、僕たちの間には古い友人のような繋がりがあるように感じた。窓辺の机にカップを2つ、今日はチョコレートを置く。椅子に座り、2人でコーヒーを一口。
昨日、彼女はあの後描く場所を決め、今日の朝下書きを描いたらしい。カンバスを見せてくれたが、下書きだけでも充分綺麗な絵だった。
「お兄さん大学生?」
「そうだよ」
「じゃあ夏休みなんだ!」
「うん。まだ2ヶ月半ある」
そういうと彼女は「ずるい!」と口を尖らせた。その拗ねた表情も笑顔とは違う可愛らしさを持っており、見えない縄で僕の心をきゅっと軽く縛り上げる。
昨日より30分長く滞在した後、彼女は帰っていった。

この1ヶ月、彼女はほぼ毎日来た。その度、彼女の新しいことを聞き、僕の新しいことを話、彼女の絵を見た。彼女の学校が授業を再開してからはとてもつまらない日々が続いた。
高校3年間の長期休みは1人でこの別荘で過ごしていたのに、この1ヶ月誰かといただけで寂しい気持ちを抱いている。
いや、誰かではない。彼女だからだ。彼女以外の人だったら、きっとこんな感情が抱いていない。むしろ、やっと1人になれて清々するとも思っているはずだ。
僕はとっくに気がついていた。初めて彼女に会ったとき、あの愛らしく憎めない可愛らしい微笑みに一目惚れしていたのだ。彼女に会いたい。またここでミルクコーヒーを飲みながら話したい。そんな願望を胸に1ヶ月半過ごしたが、彼女が一度も顔を見せなった。

9月の半ば、大学の授業が再開するため、僕は別荘から戻っていた。大学内は授業が始まったばかりだというのに、10月の後半に行われる文化祭のわくわくそわそわした雰囲気が漂っている。
今日は高校生が大学見学に来る日だ。特に今日はみんなそわそわしていた。外部から訪れる年下の来客、来月に迫った文化祭。授業は誰も聞いておらず、窓の外を歩く知らない人の集団に目が釘付けだ。後ろの席では「あの子が可愛い」だの「あいつが美人」だの話している。
話題になっている高校生集団をちらりと横目で見たとき、ポニーテールが視界に入った。見たことあるポニーテールよりは少し長い。しかし、制服は見たことがある。半袖のブラウスに無地のリボン、チェックのスカート。
僕の別荘に1ヶ月間訪れていた彼女と同じ制服。ゆらゆら揺れるポニーテールに向かってひたすうら「こっちを向け」と願っていた。顔を見れば確信が持てるからが。じっと見つめていると、彼女がこちらを振り向いた。正確に言えば、正面ではなく横顔だ。
しかし、その横顔でも確信が持てた。彼女はあの夏、僕の別荘に来ていた彼女だ。
高校生集団は皆、教師の方を見ている。教師が3、4分ほど喋った後、生徒が散り散りになった。恐らく自由行動だろう。この時間が話しかけるチャンスだ。1ヶ月半も話せなかったのだから、今1、2分話しても構わないだろう。
僕はいそいそと支度をして、バッグを持ち教室を出た。外に出て、先ほど高校生集団がいた場所へ向かう。そこにはまだ彼女がいた。キャンパスマップを見て辺りをきょろきょろしている。
「久しぶり」
そんな彼女に声をかけた。彼女は驚いた表情で固まっているが、その後嬉しそうな笑顔で「お兄さん!」と言った。
僕のことを覚えていてくれたことにほっと安堵する。もしかしたら忘れてしまったのではないかと思っていた。
「ここの学校だったんだね!」
「うん」
彼女の学校は一応進学校なので、高校1年生の時から大学見学へ行くらしい。今回選ばれたのが、僕が通うこの大学だったということだ。
「友達と行かないの?」
「友達、他の学部だから、違う大学行ってるんだ」
彼女の闇の部分に少し触れてしまっただろうか。僕の大好きな彼女の笑顔に雲がかかっている。
彼女も年頃だから恥ずかしいだろうが、僕は「僕が案内しようか」と提案してみた。断られることを承知の上での提案だったが、彼女は案外あっさり承諾してくれた。
キャンパス内をぐるぐるしながら学部の説明や校舎内の説明をする。最後に学内で人気のカフェテリアへ行った。今は授業中のため、生徒も少ない。
彼女はサンドウィッチとコーヒー。僕はスクランブルエッグとコーヒーを注文した。テーブルに備え付けてあるミルクと砂糖を入れて飲む。彼女も同じように飲んだが、苦笑いしていた。
「やっぱり、お兄さんのコーヒーがいいな」
彼女は結局、コーヒーを半分以上も残した。

そろそろ集合時間だ、ということで近くまで送った。授業を心配されたが「少しくらい休んでも平気」と答えると「悪い生徒だー」と茶化される。
教師と生徒たちが見えてきたため、彼女には「ここでいいよ」と言われた。
「お兄さん、長期休みあそこにいるんだよね」
「うん」
彼女は嬉しそうな笑顔を咲かせながら「じゃあ次は冬休みだね!」と言った。大きく手を振り、彼女は生徒たちに溶け込んでいく。

次の冬休み。別荘へ行くときはコーヒーとミルクと砂糖を買って向かわなければならない。夏の間に2人分消費し、冬休みも、そして今後も2人分消費するからだ。
メールアドレスと番号を交換するのは、次の楽しみにとっておこう。

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