フレンチローストの瞳のバリスタ

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私は特に特技もない平凡なアラサー女子。派遣の仕事をやりながら、契約終了とともに長期の海外旅行に出かけることだけが人生の楽しみ。リッチね、なんて人には言われるけれど、貯金は海外に出るたびに尽きる。こんな生活をこれからもずっと続けていけるとは思っていない。でも自分にとって海外での生活は、すでにライフワークのようなもの。どうにかして続けられないものか…という願いを叶えるのに、ついにチャンスが来た。
ある商社の求人に応募して、採用が決まったのだ。実は親戚の興した会社で、縁故採用といえば縁故採用かもしれない。けれど、持ち前のガッツと海外での生活で培ったスペイン語の能力が認められた、立派な仕事。この就職によって、今まで飲めれば満足していただけのコーヒーと大きく関わる職種に就くことになった。コーヒーが「私の生きる意味」を教えてくれる人へと導いてくれた。つまり、コーヒーが私の運命を変える、愛しい人に引き合わせてくれることになるのだ。

私の任じられた仕事は、コーヒーの生産国へおもむき、買い付けをすること。特定のコーヒー農園と契約しても、コーヒーの出来は年ごとの気候に大きく左右されてしまう。味に厳しい日本の消費者を満足させるためには、直接生産国へおもむいてコーヒーの出来をチェックし、買い付けするのが望ましいのだ。

わが社のコーヒーの買い付け先は、ほとんどが中米のグアテマラ。グアテマラのコーヒーは香り豊かで、ほかの豆との相性がよいのでブレンドにも適している、コーヒーの優等生と言える存在なので、安定して質の良いコーヒーが手に入る。グアテマラコーヒーと一口に言っても、国内の生産地はさまざま。日本の3分の1しかない小さな国土でありながら、海抜0メートルから3,000メートルまで、気候の違いに戸惑うほど。このグアテマラの生産地をまわって買い付けをする。
そして中米グアテマラで話される言葉がスペイン語。スペイン語が特技の私の出番だ。

まずはグアテマラ国内でのコーヒー豆の優劣を競うコンクールで常に優秀な成績を収めるアティトランへ向かう。
アティトランは壮大な火山の傾斜地を覆うようにコーヒーが栽培されている。火山性の土壌は有機物質が多く、コーヒー栽培に適しているのだ。
コーヒーの買い付けといっても、やみくもに農園を訪れて味を調べるわけではない。わが社が特にチェックしているのは地元の人の意見。買い付け量がそこまで大きくない、零細企業だからこそできることではある。

地元の人の意見をリサーチするために、グアテマラのコーヒー豆のみを扱う地元のカフェテリアへ訪れるのが一番。今日は、地元の言葉で「もう1杯」を意味する「juun chi cape」というカフェテリアを選ぶ。「もう1杯」なんて日本語ではお酒しか連想しないのにな、なんてツッコミながら、バリスタの入れてくれるエスプレッソに口をつける。
グアテマラで有数のコーヒーの産地、アティトランはタイムトリップをしたような場所。何百年も前と同じ民族衣裳を今でも身にまとい、薪を割り、火をおこして調理する、原始的な生活を続けている人たち。そんな時空を超えた独特の空間でコーヒーの味を堪能している。ついつい仕事だということを忘れてしまう。
「いい仕事だよね」とつい、ひとり言をつぶやいてしまう。断っておくが、決して仕事が楽なわけではない。スペイン語が得意で海外に興味があるだけの私には、コーヒーの質を見極めて値段の交渉をするという、買い付けの本来の仕事が、苦痛でしかない。ただ、その瞬間、お金をもらいながら、会社の経費で中米まで出張して、カフェテリアでコーヒーを堪能している自分をつい客観的に見てしまった、そんなひとり言。

「タノシイ?」不意に耳に届いた日本語にハッとする。顔を上げると、黒い二つのダイヤモンドのような瞳と目が合う。奥でコーヒーの計量をしていたバリスタの声だった。
「タノシイデスカ?」また繰り返す。
「日本語?」
「日本人のお客さんが多いから、この一言だけ覚えた」
といたずらっぽい目で笑いながら、スペイン語で返事をする。瞬間、私は彼の瞳のとりこになった。

「ちっとも楽しくなんかない、私は仕事で来ているから。コーヒーのこともちっともわからないし。ぶっちゃけ、アティトランとアンティグアのコーヒーの違いどころか、グアテマラコーヒーとコロンビアコーヒーの違いすらもわかってないの」ついつい本音を打ち明けてしまう。
「コーヒーの豆、ひと粒ひと粒にその土地の気候と味が詰まっているから、まずその土地のことを知ってから、コーヒーと向き合ってみればいいんじゃないかな」
なんだかおとぎ話を語るかのように、リズムよく一言、一言韻を踏んだスペイン語で私を諭す。「アティトランは、涼しい気候だけど、高地で太陽の光が強いから、太陽の光を豊富に浴びた柑橘系の香りがするコーヒーができるんだよ」バリスタが続ける。おっと、うっとりしている場合じゃなかった、バリスタからコーヒーの情報を聞き出して、参考にさせてもらわなくては。
「ここには、もちろんアティトランのコーヒーを置いているのよね?」
すると彼は、アティトランのコーヒーは、彼が「柑橘系」と表現したように、フルーティでさっぱりした舌触りが人気なことを教えてくれた。また、アティトランのコーヒーはグアテマラコーヒーの中でも3本の指に入る有名なコーヒーであること、グアテマラのほかの産地のコーヒー豆とのブレンドをしたコーヒーが観光客には人気であることを嬉しそうに話す。うんちく好きなラテン人は珍しいな、なんて思う。
「コーヒー豆の焙煎の入りが深いほうが、アティトランのコーヒーには合うんだよ」と、彼はローストした豆の見本をいくつか見せてくれた。コーヒー豆は、ローストの深さによって味も変わる。深煎りのフレンチ・ローストがここのコーヒーにはぴったりなのだという。
「あなたの瞳みたい」真っ黒にローストされたコーヒー豆が、黒く輝くバリスタの瞳の輝きとよく似ている。「ダイヤモンドの瞳じゃなくて、フレンチローストの瞳なんだね」と、また自然とひとり言が出てしまう。

私が海外好きな理由のひとつに、日本語が通じないということがある。だからついつい、ひとり言が多くなってしまう。日本人の前では失礼に当たるツッコミや本心を、大声で言っても相手には通じない。「あなたの瞳はフレンチロースト」なんて恥ずかしいセリフだって、海外だからこそ、口に出して言うことができるのだ。

でも今でも思う、あの時、あのバリスタと出会ったのがカフェテリアでなかったら。あのバリスタが彼の瞳のように輝く深煎りフレンチローストのコーヒー豆を見せてくれなかったら。私が素直に思ったことを口に出せる海外にいるんじゃなかったら。
きっと私は彼に恋することはなかった。コーヒーが私の恋を連れてきてくれたんだ。

次の日も、彼のいるカフェテリアへ足を運んだ。「タノシイデスカ?」また尋ねられる。「シィ」はい、楽しいです、と答える。昨日の「時空を超えた旅行者の気分」で楽しいだけではなく、バリスタともっと親しくなりたい、あの黒いフレンチローストのコーヒー豆のような瞳に吸い込まれたい、という目的を持っているのだから、ウキウキしているのも仕方ない話だ。

「今日はもっとコーヒーのことを教えてもらいたくて来た」と告げると、「よかったらおすすめの農園へ連れて行けるよ」という。彼のカフェテリアがいつも購入しているコーヒー農園の見学に行かないか、というのだ。彼と出かける、ということに胸が高鳴る。もちろんそれだけではない、「商社の買い付け」という立場で農園に入るのとは違う、本質を突いた見学ができるかもしれないではないか。ちょっぴり「仕事」の言い訳を入れて、出張中のアバンチュールを後ろめたくないようにする私を、どうか、許してください。
乗り合いバスで出かける30分ほどの道のりは、胸が高鳴り全く覚えていない。私の気持ちに気付いてか気づかないでか、ささやくように耳元に顔を近づけるたびに、ドキドキする。一日中コーヒーを取り扱っているバリスタからただよう焙煎の香りに、ますます気持ちが高鳴ってしまう。
まじめに農園見学をするのは至難のわざ。知り合いの農園というだけあって、彼は農園の従業員のほとんどと顔見知りのようだ。日本人と歩いているからか、さんざんからかわれる。日本では聞くこともない口笛で、私たちの仲をはやし立てる。普段だったら怒り心頭で固くなってしまうのに、今日は恥ずかしさとドキドキで、ますます体が固くなってしまう。
これでは仕事にならない。「明日、一人で出直そう」と決意。今日は彼とのデートに徹して、明日また仕事モードで戻ってこよう。

「どう、コーヒー豆と向き合う気分になった?」
彼が尋ねる。そうだった、今日の目的は、買い付けとか、デートとか、そんなんじゃなくて、ここアティトランのコーヒーがどうしてあんな柑橘系の味がするのか、なぜ輝くフレンチローストが合うのか、それを体験して知ることが目的だった。
「アティトランのことがちょっと分かったわ。またカフェテリアに戻って、あなたのコーヒーをもう1杯だけ飲ませて」あ、私ったら、カフェテリアの名前「『juun chi cape』(もう1杯)」って言ってる。二人で瞳を合わせて笑い転げる。お酒以外でコーヒーにも、こんなふうに「もう1杯」って注文する時が、来たんだなあ。

彼は私にコーヒーと向き合うこと、ひと粒ひと粒の背景と向き合うことを教えてくれた。グアテマラのアティトランコーヒーは、高地で太陽の光をいっぱい浴びたコーヒー。そんなコーヒーを、伝統を守る人たちが、ひと粒ひと粒、手で摘むのだ。そんなアティトランの人たちの瞳は、「juun chi cape」のバリスタと同じで、黒く輝いている。生活に満足しているから、自分たちの文化に誇りを持っているから。
アティトランのコーヒーは、自信を持って日本に紹介できる。
私の仕事に自信をつけてくれたのも、まるでフレンチローストのように漆黒の瞳のバリスタが、ひと粒ひと粒のコーヒー豆と向き合うことを教えてくれたから。
私はただ仕事をこなしているのではない、この仕事を通して、人々と深く知り合い、深煎りローストしたコーヒー豆を通して、人々の想いを日本に伝えるんだ。
フレンチローストの瞳のバリスタが私に教えてくれたのは、私の生きる意味。

「彼を手放さない」街で大きな声でつぶやく。
次は出張ではない、彼に会うために戻ってくる。そしてそして、もっともっと本心を伝えて、親しくなろう。私の生きる意味を教えてくれたことへ、感謝しよう。大好きだって、伝えよう。

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