炭焼きコーヒーはほろ苦い大人の香り

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最近の若い人の中には、ブラックコーヒーを飲めない人が増えていると聞きます。
かくいう私は自慢ではありませんが、子供のころからコーヒー派でした。
父がお酒を飲めずにコーヒーが好きだった影響があったのかもしれません。
でも、子供でしたから飲んでいたのはインスタント、しかも砂糖とミルクをたっぷり入れないと飲めませんでした。全然自慢になりません。
子供ながらに、ブラックコーヒーは大人の飲むものだという認識がずっとあった記憶があります。
そんな私も大人になり、「ブラックデビュー」を果たす日が来ました。

 

あれは20代初めで社会人になりたてのころ、当時付き合っていた人にこっぴどく振られてものすごく落ち込んでいた時でした。
あまりの落ち込みっぷりに私の失恋は会社中に知れ渡ることになり、会社の2つ上の男性が誰かを紹介してくれることになりました。
とにかく失恋のショックを紛らわしたかった私は、どんな人を紹介してくれるのか全く分からないのに2つ返事でお願いしていました。

 

その男性に連れられて行ったのが、昔ながらのちょっとレトロな喫茶店。
少し気難しそうなマスターと、底抜けににこやかで人のよさそうなママさんが2人で経営しているお店でした。
男性はこのお店の常連だそうで、緊張している私をカウンターに座らせてブレンドコーヒーを2つ注文しました。
注文を聞いたマスターが、私の目の前でコーヒー豆を挽いてサイフォンでゆっくりとコーヒーを点てます。
あたりにコーヒーのやわらかくて深い香りがふわっと広がります。
家で母が紙フィルターで適当に入れてるコーヒーとは全然違う香りでした。
これが本当のコーヒーの香りなんだ・・・
その香りをかいでいるだけで、なんだか大人になった気分でした。
そして目の前に、素焼きの渋めなカップに注がれたブレンドコーヒーが出てきました。
家では迷わず砂糖とミルクをたくさん入れる私ですが、さすがにこの場はそんなことができないという空気を読んだ私は
生まれて初めてブラックのコーヒーを味わったのでした。
・・・に、苦い・・・
香りだけでは大人になれなかったようで、その後こっそり砂糖とミルクを入れさせてもらいました。

 

そうしているうちにお店のドアチャイムがカラコロと鳴り、一人の男性が入ってきました。
ママさんが「あらこんばんは」とその男性に声をかけました。
その男性は慣れた感じでカウンターの真ん中にどっかり座り、私を連れてきてくれた男性と何やら親しげに話しています。
誰だろう・・・と思っていた私に、連れの男性が「ツトムさんだよ」と紹介してくれました。
へっ?
そう、ブラックコーヒーデビューですっかり忘れていましたが、私は男性を紹介してもらいにこのお店に連れてこられたのでした。
そして男性曰く「ツトムさん」が、その相手だったのです。

 

ツトムさんは、連れの男性のさらに2つ上の先輩でした。
その人の名前は、私も会社内で聞いたことがありました。
なんでもずいぶんな変わり者だ、ということで・・・
聞けばツトムさんも、最近長年付き合っていた彼女と別れたばかりだとのことでした。
それで失恋したばかりの者同士をくっつけようとしたんです。
経緯は分かったけれど、変わり者なんだよね・・・大丈夫なのかな、と少し不安になりました。
その「変わり者」のツトムさんがマスターに「俺もコーヒー」と注文しました。
マスターがまた慣れた手つきでコーヒー豆を挽き始めましたが、さっきとは少し違う香りが。
彼もまたこのお店の常連で、ツトムさんがいつも注文するのはどうやら炭焼きコーヒーでした。
ブラックデビューしたての私でも分かる香りの違いでした。
・・・さっ、さらに苦そう・・・
香りからして苦そうな炭焼きコーヒーを当たり前のようにブラックで飲むツトムさんに、思わず「苦くないんですか?」と聞いてしまいました。
ツトムさんはにっと笑いながら「飲んでみる?」と尋ねてきます。
ぶるぶると大きく頭を振る私に、クスクス笑いながら「まだ早いかもね」とツトムさんは言いました。
その笑顔がなんだか妙に優しくて、炭焼きコーヒーの香りも相まってずいぶん大人に見えて、
ちょっとドキドキしながら私は砂糖とミルクの入ったブレンドコーヒーを飲んでいました。

 

ツトムさんとはその後何度か連れの男性と一緒に喫茶店で会ったのですが、
一向にそのあとの進展がありませんでした。
なぜ進展がなかったのか・・・
それは、ツトムさんを紹介してくれたはずの連れの男性が私に告白してきたからでした。
何度か一緒に喫茶店でコーヒーを飲んでいる間に、私のことを気に入ってくれたそうです。
そして、ツトムさんは実は別れた彼女のことをまだ引きずっているからやめておいたほうがいいと。
しばらく考えましたが、そういうことならツトムさんとはこれ以上の進展がないだろうし、
連れの男性は同じ営業所に勤めていたので断ると仕事が気まずくなるかなと思うと簡単に断ることも出来ず、
私は連れの男性とお付き合いすることになりました。
ツトムさんは彼の先輩だということもあり、付き合うことになったと報告をすると素直に喜んでくれました。
なんだか複雑な気分でした。
彼と付き合うようになってからも、喫茶店によくコーヒーを飲みに行っていました。
ツトムさんともよくお店で会いました。
相変わらず私は砂糖とミルクを入れたブレンド、ツトムさんはブラックの炭焼きを飲んでいました。

 

付き合い始めて2年ほどたったころ、
私は彼と待ち合わせるために一人で喫茶店に行きました。
すると、ツトムさんがカウンターでコーヒーを飲んでいました。
「珍しいね。一人?彼は?」ツトムさんは屈託のない笑顔で私に問いかけてきます。
「うん・・・」と返事をする私に「どうしたの?なんか元気ないね」とツトムさんに聞かれました。
ちょっとドキッとしました。
実はそのころ、成り行きで付き合いだしてしまった彼とは(当然)あまりうまくいっておらず、
今日喫茶店で待ち合わせたのもそんな流れで、少し憂鬱なデートのためでした。
どうしてわかったのかな?
尋ねようとしたその時、ツトムさんの飲んでいる炭焼きコーヒーの香りがしてきました。
最初に感じた時と同じ、苦み走ってるけどやわらかくてとても大人びた香り。
ツトムさんの人と成りが、そのまま香りに表れているようでした。
思わず私はマスターに「炭焼き」と言ってしまっていました。
自分でもびっくりでマスターもびっくりしていましたが、ツトムさんも驚いていました。
そんな私を見て、何かあったんだろうなと察したようでした。
私はなるべく平静を装って、出てきた炭焼きコーヒーを、砂糖とミルクを入れずにブラックで一口。
・・・やっぱり苦い。
ちょっと顔をしかめて「うえ~」という顔をした私をツトムさんはクスクス笑いながら見ていました。
あ、初めて会った時と同じ笑顔だ・・・
ちょっと曇っていた私の心もその笑顔で少し晴れたような気がして、私もつられて笑っていました。
その時お店の電話が鳴り、マスターが持ち場を離れてカウンターは私とツトムさんだけになりました。
するとツトムさんが私のほうに顔を近づけて、耳元でそっと「この後2人でどこかドライブでも行くかい?」と聞いてきたのです。
えっ?!
ツトムさんとも知り合って2年ほど経ちますが、そんなことを言われたのは初めてでした。
ツトムさんのほうを見ると、さっきの笑顔は少しなりを潜めて、ツトムさんの顔は真顔になっていました。
そんな真顔を見るのも初めてだったので、私は一気に気持ちがざわつき始めました。
これって、どういうことだろう・・・?
もしかして私、ツトムさんのこと・・・?そしてツトムさんも私のこと・・・?
???が、頭の中をぐるぐる回ります。

 

その時マスターが電話口から
「〇〇くん(彼)、仕事が遅くなってお店に来られないから迎えに来てくれって」
と私に言いました。
そうだ。
私これから彼とデートだったんだ。
それを聞いたであろうツトムくんも我に返ったのか
「〇〇くん忙しそうだね。早く行ってあげなよ」といつもの笑顔で私に言いました。
私はあわてて、炭焼きコーヒーをカップに半分残したままお店をあとにしました。
迎えに行く車の中で、口の中に残った炭焼きコーヒーの香りを感じながら
ツトムさんの真顔が頭からずっと離れませんでした。

 

それからしばらくして、
私と彼は結局ギクシャクしたまま、どちらからともなく別れてしまいました。
うまくいくはずもない間柄だったのでさほどショックはなかったのですが、
別れた時に「あ、もうあの喫茶店にはしばらく行けないな・・・」と思い、なぜか少し寂しくなりました。
ツトムさんのことが時々頭をよぎりましたが、
私たちが別れる少し前に、ツトムさんは以前付き合っていた彼女とよりを戻し、近々結婚すると聞いていました。
よかったね・・・と思う反面、ちょっと寂しかったのを今でも覚えています。

 

あれから30年近くが経ち、私も恋愛や仕事も含めていろいろな経験を積んできました。
コーヒーもブラックで飲めるようになり、あちこちにコーヒーショップが出来たのを機にさらに飲むようになりました。
でも同時に、昔ながらの喫茶店のようなお店にはあまり行かなくなりました。
なぜかコーヒーショップと違って、敷居が高い感覚があるのです。
それは20代初めの、あのほろ苦い恋の記憶がそうさせているのかもしれません。
もしあの時、電話がもっと後にかかってきていたら・・・
もしあの時、ツトムさんの誘いに迷わずのっていたら・・・
もしかしたら、ツトムさんは私のことを好きだったんだろうか・・・
・・・もちろん、全部私の考え過ぎだったのかもしれません。
ツトムさんがその日暇すぎて、気まぐれに私を誘っただけなのかもしれません。
あのツトムさんが、子供っぽい私なんかを相手にするなんて幻想だったのかもしれません。
でも私はあの時確かに、少し背伸びをしてツトムさんと同じ炭焼きコーヒーを飲んでいたのです。
あの大人びた味と香りを、ツトムさんと一緒に感じていたかったのです。

 

数年前に地元に帰った時にあの喫茶店の前を通りましたが、
お店は跡形もなくなくなっていました。
いつ閉店したんだろう?
今となっては知る術もありません。
当時の彼も、マスターも、そしてツトムさんもみんな音信不通ですから・・・
もうすぐ50歳になろうとしているのに、相変わらず炭焼きコーヒーは苦くてブラックでは飲めません。
ほろ苦い大人の味のままです。

ツトムさん、元気にしているのかな。相変わらず炭焼きコーヒーが好きなのかな・・・

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