私と彼が出会ったのは大学生の頃。その当時、私鉄沿線沿いの各停停車駅に住んでいました。新宿からも近かったのですが、各駅停車しかとまらないその駅はなんとなくのんびりとした雰囲気が漂っていました。駅前のドラッグストアや、野良猫や、定食屋からのてんぷらの匂いがぴったりの駅にその珈琲屋はありました。
大学時代から一体何時間、その店で私は過ごしたのだろうと思うと、本当に懐かしい気持ちでいっぱいになります。
彼は当時、駅近くのレンタルビデオ屋さんでアルバイトをしている学生でした。私は近所に住んでいる実家住まいの女子大生。当時流行ったアメリカンドラマを借りるために足げく通ったそのレンバルビデオ屋さんで、「自動車の教習所が同じだよね」とアルバイトの方に話かけられ、それがきっかけで他のアルバイトの子たちとも仲良くなりました。
実家暮らしだった私は時間をつぶしたり、大学から帰ってきておしゃべりをするためにビデオ屋さんの隣にあった珈琲屋でレポートを書いたり、予習をしたり、テスト勉強をしたりしていました。その店でアメリカンを飲んでいると、誰かしらが顔を出してくれるのです。猫アレルギーだった私が、ガラス越しに日向ぼっこしている野良たちを見ることができたのも楽しく時間を潰せる要因の一つでした。珈琲店の前の猫たちは本当に幸せそうで、平和そのものの陽だまりをいつも満喫していました。その猫を見ながら珈琲を飲んでいる私も平和の陽だまりの中にいれてもらえることができました。珈琲店での時間も陽だまりそのものでした。何時間もアルバイトの子たちと溜まって、他愛もおしゃべりができる楽しい空間がそこにはありました。誰と誰がつきあった、レンタル人気のビデオ、サークルでの話、やめていったアルバイトの先輩が就職した話。底なし沼のように話題がつきることはありませんでした。
箸が転がっても楽しい年齢。笑い、尽きないおしゃべり、そして、アメリカン珈琲。アメリカンはお代わり自由だったために、何時間でもいられることができて、店の隅で誰かしらがおしゃべりに花を咲かせました。そのうちにレンタルビデオ屋さんと珈琲店とかけもちしてアルバイトをする子もでてくるようになりました。おそらく、レンタルビデオ屋さんのオーナーと珈琲屋さんのオーナーが兄弟だったためか、店の客もどちらの店にも行き来という感じがあり、アルバイトに関しても融通が利いたのかなと思います。
珈琲屋のオーナーは稀に見る高学歴な方で、写真家として身を立てようと思われていたようなのですが、途中ですっぱりとその道を諦めて、珈琲店のオーナーになられたそうです。そんな博識なオーナーがいろいろと親身になって相談に乗ってくれたりするのもその店の魅力でした。アイスコーヒーは水出しでとても濃厚で美味しいものでしたが、学生の私たちは専ら、お代わり自由のアメリカンばかり飲んでいました。
私が彼に初めて告白されたのも、別れを切り出したのも、その店でした。何時間も話をしていた後に、一人帰り、二人帰りしたときにたまたま彼と私が二人きりになり、そこで私は夫に「前から好きだった。付き合ってくれないか」と言ってくれました。私も淡い恋心は彼に抱いていたので、すぐにOKしました。多分、その告白も店の片隅でそっとオーナーは聞いていたのだと思います。でも何も言わず、カウンターを磨いていました。
彼と付き合い始めて、人に大事にされるということを初めて知った気がします。田舎から出てきたビンボウ学生だった彼は家に洗濯機がなく、よくコインランドリーから公衆電話で電話をくれました。話の内容はしょっちゅうあっているのに「元気?」とか「ご飯は食べたの?」とかくだらない話ばかりでした。
そのうち、父の仕事の関係で家を引っ越すことになりました。今までは大学からとても近いその私鉄沿線沿いの駅近くに住んでいたのですが、東京都を離れ、かなり遠くから通うことになりました。そして、お互いに就職活動が始まったりして、彼もアルバイトも忙しくなかなか会う機会も少なくなり、珈琲店で会うこともままならなくなってきてほどなく、付き合うこと自体がなんとなく負担に感じ始めていた私が、彼との別れを切り出しました。彼としては晴天の霹靂だったようで、驚き、遠くにある私の家まで文字通り車を飛ばしてきた彼に私は「今、付き合っているどころじゃないの。自分のためにもっと勉強とかしないと。これ以上付き合う気はないから」と伝えました。今考えると、就職活動もなかなか思うように進まなくなっていたことに焦りを感じていた私は、何かストイックになることでふっ切りたかったのかもしれません。自分の周りに渦巻くうまくいかない空気のようなものを。
とりあえず、お世話になっていた珈琲店のオーナーに電話をして、「彼と別れることにしました」と言うと、それに対しては無言。そして「いつでも珈琲、飲みにおいでね」と優しい言葉でオーナーは電話を切りました。
それからなんだ言いつつも就職活動が終わり、私も社会人になりました。彼のことは風のたよりでシステムエンジニアになり結婚間近な彼女がいるということを聞きました。私は社会人になってから知り合った人と婚約をしていたので、彼も幸せだったらよかったと思っていました。
それから何年か過ぎ、一児の母となった私は、夫の浮気というきっかけから結婚生活がガラガラと崩壊していくのを感じました。離婚をするのは時間の問題で、弁護士に相談に行ったり、子供がいつつ仕事ができる場を探すために翻弄することになりました。そして、離婚届けを出した日になんとなくふらりとその珈琲店に立ち寄ったのです。立ち寄ったというか、わざわざ子供を実家にあずけ、そして片道50分近くをかけて車で珈琲を飲みにいったのです。もちろん駅前の小さな珈琲店ですから駐車場もなく、コインパーキングをカーナビで探して、そして飲みにいきました。
ドアを開けると懐かしいカウベルの音が響きました。カウンターの中には懐かしいオーナーが少し年をとって小さくなって、でも相変わらず黙々とカウンターで作業をしていました。アルバイトの子たちもどこか若々しい、今の大学生たちになっていました。カウンターから私に目を留めたオーナーは少しだけ目を見開きました、そしてニッコリと微笑んでくれました。
「懐かしい顔だね。元気だった?」
私も笑い返して、いつもの奥の席ではなく、オーナーの目の前、カウンターの席に座りました。懐かしい場所。懐かしい人。何年かのうちに私はどれだけのものを失ってしまったのだろうと思いました。
「離婚したんです。今日、届けを出してきて」
オーナーはまた少し驚いたようでしたが、静かに珈琲をいれてくれました。アメリカンではなくてブレンド。そしてモンブランを添えて。
「今日は僕のおごりだよ。辛かったね」
優しいオーナーの声が私の涙腺を緩めそうになりました。でも、ここで泣いてはいけないのです。オーナーが困ってしまうではないですか。ぐっと我慢をしていると、オーナーが言いました。
「体には気をつけないとね。大変だったね。」
「私もわがままですから、思い通りにはなかなかいかないです。今度の職場はシングルマザーに理解があるんです。それでよしとしないと。」
と無理に笑顔を作ると、オーナーが言いました。
「よかったね、よさそうな仕事場が決まって。親権はもらえたんだね」
「はい」
ブレンドの優しい香りがオーナーの声と一緒に、なんとなく私の中の冷たい氷を溶かしていくように感じがしました。
「あれから何年経ったかな。そうだ、◯◯くんと連絡とっている?」
元彼の話です。
「いえ、全然。彼女と結婚間際というのを聞いたのだけれども」
「いや、うまくいかなかったみたいよ。今も一人だから。連絡してみたら?」
そう言って、オーナーは彼の携帯番号を記した紙を渡してくれました。その日はオーナーと昔話をして、帰りました。まだまだ胸の傷口は痛みましたが、オーナーおかげで実家に帰って、息子を迎えにいくことができました。
それから程なくして、迷った末に、彼に電話をかけた私は「会おうよ」というまっすぐな彼の言葉に従い、息子も一緒に会うことにしました。久々に会った彼はちょっとおじさんになっていました。きっと私もおばさんになっていることなのでしょう。彼は池で息子をボートに乗せてくれました。久々のお出かけではしゃぐ息子と彼をみていると、なんだか不思議な気がしました。その日、彼と私と息子は珈琲店に寄りました。
「お、来たね。」
とオーナーは嬉しそうに私たちを見て、微笑みました。その日のランチメニューはカレーライス。息子は大きなお皿に乗ったカレーライスをペロリとたいらげ、私と彼はアメリカン珈琲を食後にのみました。
「なんだか遠くまで来ちゃった感じがするね」
と私がポツリというと、彼が笑いました。
「いやいや、まだこれからでしょう。君も僕も」
カウンター越しにオーナーも笑ってくれていました。ふと窓の外に目を向けると、陽だまりの猫が模様は違えども、平和そうに昼寝をしていました。ここだけは時間がとまったような気がすると感じながら、アメリカンを飲み干しました。
それから1年後、彼と私は結婚をしました。彼の実家は、彼の妹がシングルマザーのこともあって息子を含めてとても暖かく迎えてくれました。結婚してから1年経って、今度は女の子が生まれました。
彼と私は息子と娘を連れて、いまもあの珈琲店に通っています。平日は彼も私も仕事が忙しく通うことができませんが、土曜日か日曜日、どちらかにはランチタイムに家族全員でランチを食べに行きます。そして、食後にはいつもアメリカンを頼みます。青春時代、何時間も過ごした珈琲店がいま、まだここにあるという幸せを、アメリカンを飲みながらを私は噛み締めています。陽だまりのねこも相変わらず健在です。
ただ、たまたま訪れた今日は雨。客足も少なく、陽だまりもありません。陽だまり好きの猫たちもガラスの向こうから姿を消しています。
ふと娘が
「猫ちゃんいないね〜」
と夫に言いました。
「猫も雨は寒いから、暖かい場所で珈琲でも飲んでいるんだよ」
夫が言うと、息子が
「うっそだー」
と笑いました。
彼が言うと、なんだか本当に陽だまりの猫たちがオーナーにこっそりと珈琲をもらって、どこかで休んでいる気がします。雨が止んだら、陽だまりもできるでしょう。そうしたら、また猫たちを見に、一人でこっそり珈琲を飲みに来ようかなと思いました。
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