幼い頃母はよく「子供はコーヒーなど飲んではいけない」と言ったものだ。
おそらく、カフェインなどが良くないと考えられていたからだろう。その当時は私の家だけでなく、大抵の家では子供にコーヒーを飲ませて無かったと思う。
私はあまり考えることもなくその言いつけに従っていた。
だから、中学生になるまでコーヒーは飲んだことがなかったのである。
中学生になると晴れてコーヒーが解禁になり、私はちょくちょく自宅でコーヒーを作って飲むようになった。
母も父もコーヒーは好きであり、特に父親は私がコーヒーを作り始めると「俺にも一杯頼む」と言って作らせた。
我が家ではドリップ式のコーヒーメーカーがあり、朝となく夜となく家の中にコーヒーの良い香りが漂っていた。
夕食後は母がコーヒーを作り、皆のカップに注ぐのが日課でもあった。
キリマンジャロ、モカ、ブルーマウンテンなどの粉を日替わりで淹れてくれた。
その頃の私はすでに立派なコーヒー党であった。
ジュースも好きであったが、飲み物はコーヒーを飲むことが多かった。
高校生ともなれば夜更しもする。深夜ラジオを聞きながらコーヒーを啜り勉強した。
大学生の時は授業をサボり近くの喫茶店でコーヒーを飲み本を読んだ。
卒業して社会人になってもコーヒーはいつも私とともにあった。
彼と出会ったのは会社の中である。彼は年下で私の部下のような立ち位置だった。
私は彼の面倒見を頼まれ、彼も私に仕事のことを聞いてきた。
そんなある日、彼が外で会ってくれと言ってきた。
私は何か会社内で話せないことを言われるのではないかと思い、一緒に会社を出てファミレスに向かった。
ケーキセットを頼み、やはりコーヒーを啜っていた私に彼は言った。
「これから、いろいろ聞きたいんです。メールアドレス教えて貰っていいですか?」
深刻な話をされると思い身構えた私は拍子抜けしたけど、別に断る理由もなかった。
それから毎日のようにメールをくれた彼。
そうして当たり前のように付き合うようになった。
彼は大腸性潰瘍性症候群という病気を患っていたためコーヒーが飲めなかった。
ラーメンも食べられなかった。
発病前は好きだったようで、私がコーヒーを飲んでいると「一口ちょうだい」と良く言った。
本当に一口しか飲まなかった。
彼はもっぱら紅茶を頼んでいたと思う。
彼とはドライブデートを良くした。もともと二人の住まいが遠かったので、私を迎えに来てくれるだけでもちょっとしたドライブだったと思う。
私を迎えに来て、更に彼の地元まで戻ることも多かった。
ドライブの途中で素敵な喫茶店を見つけ入ってみた。
ちょっと洋風な佇まいのそこは、木に覆われていて二人のお気に入りになった。
良くドライブの途中で立ち寄ったものである。
また、高速道路を運転してドライブインに立ち寄ると豆から挽いたコーヒーが出てくる自動販売機があり、缶コーヒーより高かったが彼は良く「こっちのほうが美味しいよ」と言って私のためにコーヒーを買ってくれたものだ。
ディズニーランドは二人のお気に入りのデートスポットで今思うと贅沢だが、一年に2回くらいは行っていたと思う。
そこでも彼は私のためにコーヒーを飲むためのカップを買ってくれた。
「来る度に少しずつ集めたら?」と言って。
そんな優しい彼とある時大ゲンカをしてしまった。
原因は何だったのだろう?
はっきりとは思い出せないが、彼がはっきりとした言い方をしないで、遠回しに私に言いにくいことを言ってきたのだと思う。
私はその話の内容より、その遠回しな言い方に猛烈に腹が立ってしまった。
あたかも私が話を理解しないという前提に立った言い方だったからだ。
きちんと筋が通っていれば自分にとって面白くない事でも受け入れる、というのが私なのに、彼はそれを理解せず、怒らせまいとして婉曲な言い回しをしたのだった。
私の自尊心はそのことで傷付き、怒りが爆発した。
メールで怒りの長文を送りつけ、電話も着信拒否にしてしまった。
電話に出たら怒りにまかせて何を言うかわからなかった。
メールだけは拒否しなかったのは、やはり彼の反応が知りたかったからだ。
でも、怒りが納まるまでメールの返信もしないと決めた。
その日私は会社が休みで家にいた。
そんな状態だから、布団にくるまって携帯を眺めていた。
彼も休みで、ちょこちょこメールが来る。
「本当にごめんなさい」
「あなたを怒らせた自分に腹が立っている」
「会ってくれないと思うけどあなたの家の側まで来ました」
携帯が鳴る度にすぐには見ずに、でもやはり確認してしまう私。
そんなに言ってくれても一度怒ってしまった気持ちはなかなか元には戻らなかった。
どうやら家の側にいるらしい。
いつまでいる気かしら。
夜になっていた。
次の日は仕事だし、私は近いが彼は会社まで1時間半の道のりである。
私の家から彼の家までもそのくらいはかかる。
夜の九時を過ぎて心配になってきた。
諦めて引き返した形跡がない。
多分まだいるのだろう。
私のことはともかく、会社に迷惑をかけるわけにはいかない。
私は彼にとにかく帰れとだけ言おうと思って立ち上がった。
手には携帯を握りしめ、いつも私を迎えに来てくれる場所へ向かった。
どうやら、私がそう思うのと彼が家路についたのは同時だったようである。
私がその場所へつくと彼の車は無く、安心と同時に気が抜けた私は回れ右をして家に帰った。
と、その時、携帯が鳴った。メールである。
「帰ります。僕が来た証拠にいつもの場所に缶コーヒーを置いていきます。」と。
私は驚いて、また同じ場所に引き返した。
そして、良く見てみるとそこには缶コーヒーが置かれていたのだった。
さほど時間が経ってなかったらしく、ほのあたたかった。
私はそれを持ち帰り、飲んでみた。
彼の気持ちが沁みこむように思った。
それがきっかけとなり、私達は仲直りをした。
けれど、幸せは長く続かなかった。
程なくして彼が転職したのだ。
彼の古い知人の紹介で一流企業に入社出来ることになったが、激務が予想されたため彼は悩んでいた。しかし、そんなチャンスそうはあるものではないと私は賛成し、彼も今の職場より色々な面で待遇の良いその会社に行くことを決めたのだった。
彼が転職して、私達の関係は変わっていった。
今までと違っていつでも会えるわけではなくなった。
当たり前のことだが、一流企業というのはとてつもなく忙しいようであった。
彼は朝から晩まで仕事をしているようだったし、休みも週に一度しかとっていなかった。
私の淋しさは例えようもなかった。
頭では分かっていても、心がついていかなかった。
それだけ、同じ職場に居た時は彼によって満たされていたのだと痛感した。
毎日会っていたのが月に一度会えればいい方に変わり、淋しさから心がねじくれてしまった私はデート中にも少しのことで怒るようになった。
せっかくのデートが台無しになるのに自分を制することができなかった。
彼も悩んでしまった。「女の人は良く仕事と私とどっちが大事?って聞くでしょ。俺はそう言われている男の気持ちがわかる」
「男にとってはどっちも大事で選べない」とも。
私達はあの頃どうしたら良かったんだろう、と良く考える。
お互い、大切に想い合っていたのに、ただ会えないというだけですれ違っていた心。
彼は徐々に私と離れたほうが私を不幸にしないと考えるようになったように思う。
彼は新しい職場で偉くなりたいのだと言った。それはつまり、人の何倍も努力するという声明だった。
私はその考えに賛成だったが、
それはつまり二人の時間が無くなるということを意味していた。
私達は何度も会う度に、その話をし「別れることが最善の道である」と納得し合わなければならなかった。
ある日彼が「来月は会える日が無い」と言った。
それはウソかもしれないと思ったが、私は「そう」と答えるのが精一杯だった。
彼は少しずつ私に自分と一緒にいないほうが良いと分からせてくれようとしたのだと思う。
私は彼とずっと付き合っていたかったが、それが無理なのだとうすうす分かっていた。
その最後の日に、お互い、離れ難いものを剥がすように私達は別れた。
今思い返しても胸が痛い。
しかし、若い時に精一杯誰かを愛し愛された経験は、何物にも代えがたい宝物のようにいつまでも輝いている。
だが、今思えばその関係は熱すぎた。
常に全力で相手に想いをぶつけ合って、情熱のまま突き進んでいた関係だった。
ぶつける相手が同じ熱さで投げ返してくれている間は、安定した関係だったが、一度相手が他の方を向いてしまうと、私の情熱は行き場を失った。
それが戸惑いとなり、受け止めてくれない情熱を持て余し、荒れ狂っていた。
だから、たまに会うと出口を求めていた情熱は怒りに形を変えて相手に降り注いだ。
そんな自分を抑えられないのも嫌だか、猛り狂う情熱を持て余すのも嫌であった。
熱すぎるコーヒーを味わうことが難しいように、熱すぎる熱情はともすればお互いを損なうのである。
やはり、コーヒーも恋愛も適温が良いのである。
その香り、味、風味を感じとる鼻や舌に耐えられる温度。
いや、もしかしたら恋愛においてはあのケンカの日に彼が置いて行った缶コーヒーほどのほのあたたかい温度が良いのかもしれない。
持病のためにコーヒーが飲めなかった彼。
それなのに、コーヒー好きの私のために美味しいコーヒーを良くご馳走してくれた。
食べ物に制限があるからか
奥さんが可哀想だと思うから結婚はしないのだと言っていた彼。
自分には10円ほどの価値しか無いと言っていた彼。
貴女は自分よりずっと価値があるのに人に誤解されて損だと自分のことのように怒っていたっけね。
私にしたらいつも人のことを思いやれる貴方は私よりすごい存在だったのに。
みんな貴方のことを好きだったよね。
あの後、どうしましたか?
偉くなれましたか?
偉くなくても私は貴方のことが好きだったよ。
どうか幸せでいて下さい。
できれば幸せな結婚をして子供でもいて、優しい奥さんを貰ってくれてるといいな。
貴方は私をすごく幸せにしてくれたんだよ。
あの時言えなかったけど本当にありがとう。
たまには貴方を思い出しながらコーヒーを飲んでみよう。
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