アンラッキーコーヒー

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コーヒーについて語れと言われると、それはけっこう面倒くさい作業になる。多くの人間がコーヒーを飲むが、思い入れは様々だからである。ほとんど知識のない人間もいれば、追求した先に自分のコーヒーショップを開いてしまう人間もいる。相手のことをそれなりに知らないと、何から話してよいのか分からなくなってしまう。それに、話したところで相手の心には何も残らないかもしれない。

 

宝くじの券や妊娠検査キットのようにハッとするものを示すことができたらどれだけ便利だろうか。
だから、コーヒーについてではなく、コーヒーにまつわる個人的なエピソードを話そうと思う。その方が僕としては気が楽だし、なによりもあの頃の思い出を心の中に蘇らせることができる。
梅雨に入ったばかりの頃だった。なんとなくつけたテレビの占いで「今日のあなたはアンラッキー」と宣告をうけてから1日がスタートした。家をでた時はところどころ青空がのぞいていたが、すぐに弱々しい雨が降り始め、午後になると鉛色の雲が一面を覆っていた。僕は人気の少なくなった大学の食堂で弁当を食べていた。とにかく早く食べ終えて、バイトに向かわなくてはならない。その一心で黙々と箸をすすめていたせいか、前から歩いてくる男女に気がつかなかった。

 

ブハッ

 

そんな音がして、何かが顔にかかった。と同時に「すいません」と声が聞こえた。顔をあげると額から液体が垂れる。さらに顔をあげると、あっけにとられた男と眉毛をハの字に曲げて悲しそうな表情を浮かべた女が立っていた。
女の手にはストローのささった透明のプラスチックカップ。コーヒーの香りがフワッと舞った。

 

思わずシャツの袖で顔をぬぐった。白い布地が泥水を吸ったようになる。どっと沸きあがる怒りを抑えこみ、ポケットからとりだしたハンカチで顔をふいた。その間も女は謝っているようだったが、気持ちが動揺していて耳に入ってこなかった。

 

「本当にすみません!」

 

何度目だろう、そう言われて女のほうをむいた。女は泣きそうな表情を浮かべながら、おびえるような目で僕をみていた。

 

「ああ、大丈夫ですよ」

 

そう言うしかなかった。隣にいる男は一刻も早くその場を去りたそうで、なんだかずいぶん遠くにいるようにみえた。

 

「本当に大丈夫ですか?」女が聞いた。

 

大丈夫なわけがない。コーヒーを口からぶっかけられたのだ。

「大丈夫ですよ。ほんとに」なんとか精一杯の笑顔をつくってみせた。

 

「本当にすみません」そう言うと2人は去っていった。

 

僕はしばらく呆然とその場に座っていた。釈然としない気持ちが、出口を求めて体をつつく。
だがすぐにバイトのことを思い出した。汚れたシャツをカバンの中にしまいこみ、弁当を片付けようとすると、蓋に溜まっていたコーヒーがこぼれて股間の辺りに染みをつくった。溜め息をつき、占いも当たるものだな、などと考えた。
それから1週間後、再び彼女と出会った。同じ場所、同じ時間。違ったことといえば、アイスコーヒーを手に持っていなかったこと、それから男と一緒ではなかったことだ。

あ、僕と彼女はほぼ同時に声をあげた。あの時の惨めな感覚が全身を駆け巡ったが、居心地悪そうにしている彼女をみていると、なんだかおかしくなってしまい思わずニヤけてしまった。

 

「この間は本当にすいませんでした」

 

「いや、大丈夫ですよ。ただ、ハンカチくらいは貸してほしかったな」僕がそう言うと、彼女は眉毛をハの字に曲げた。

 

「そうですよね。私もそう思ったんです。それで食堂に戻ったんですけど、もういなくなっていて……」

 

「バイトがあったからさ。でも、わざわざ戻ってきてくれたんだ」

 

「本当に申し訳ないことをしちゃったんで」彼女は背中を丸めて、軽く頭をさげた。

 

「ところでさ、なんでコーヒー吹いたの?」

 

「隣にいた男の子が、変なことを言ったんですよ。それで笑っちゃって」

 

「それわざとでしょ」僕は意地悪げに笑いかけた。

 

「そうなんですよ。私が飲み物を口に含むと、変なことを言って笑わせようとするんです」彼女はすこし困ったような笑みを浮かべた。初めて彼女が笑った瞬間だった。

 
次の週も、その次の週も僕らは食堂で会った。明日彼女に会うと思うと、なんとなくそわそわして寝付きが悪くなるわりに、朝早く目覚めてしまった。あくびをしながら窓をあけると、夏の朝の匂いがたちこめ、手足をのばした太陽が街を見据えていた。梅雨はとっくに過ぎ去り、前期のテストが迫っていた。大学にもだいぶ学生が戻ってきた。そうなると色んな連中が席を占領するようになって、食堂でのんびりと過ごせなくなる。ここで彼女に会えるのは最後になるかもしれない。

 

「こんにちは」彼女は僕をみつけるとニコッと笑った。

 

「おう」僕も手をあげた。

 

彼女は僕の前に座って、アイスコーヒーの容器をテーブルにおいた。

 

「それ、吹き出さないでくれよ」

 

「私が飲んだら変なこと言わないでくださいね」

 

僕らは笑った。ひとしきり笑うと何かが痛烈に心の奥を突いた。他愛のない笑い話を続けていても、寂しさがグルグルと旋回し僕の心を揺さぶる。

 

「じゃあ、そろそろいきますね」彼女がそう言って立ちあがったとき、僕はこの人に恋をしていると思った。

 

「連絡先を教えてくれないかな?」思い切って言った。

 

彼女は何度かまばたきをして、少し驚いたような表情をみせた。嫌な予感がしたが、すぐに彼女は笑顔になって、いいよと答えた。

 
これが僕のコーヒーに関する思い出である。僕の大学生活はたいしたものではなかったけれど、彼女と出会えただけでも大学に行った意味があったのかもしれない、そんな風に思うことがある。

 

彼女は僕の中に、はっきりしたものを残していった。それは、物事の考え方だったり、人との付き合い方だったり、コーヒーだったりした。彼女はとてもおいしいコーヒーを淹れることができたし、深い知識を持っていた。1度だけそのことについて聞いたことがある。しかし彼女は悲しげな表情を浮かべながら、それは誰にもいいたくないのよ、と言うだけだった。
僕はそれなりの社会人生活を送っている。仕事はきついが、休みはきちんととれるし、給料だって悪くない。学生のときにはできなかったことを、社会にでてからいくつも経験することができた。それでも、あの頃に飲んだおいしいコーヒーを自分で淹れることはできない。どんなに立派なコーヒーマシンを買っても、どんなに新鮮な豆を揃えても再現することができない。楽しみを抱えた夏の夜、コーヒーの香り、将来への思い。かつて存在していたものは、音もたてずにどこかへ消えてしまった。

 

だから僕はこんなエピソードを語り、あの頃を思い出すのである。

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