コーヒーの苦さと恋情の居心地

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大学1年生になって、やっと喫茶店に一緒に行ってくれるようになった片想いの彼だった。
「小林さんは、この後どうするの?」聞いているのは男性でなく、女性である私の方だった。高校1年生の時に好きになってから、ずっと淡い想いを抱いていた。
しかし、「うん、本屋に寄って帰るかな。」何とも脈のない答えである。
いつも避けられているように感じ、友達としてはいてくれる釣れない人に恋をしている悲しさが募る。
「そうか。」としか言えない私が悪いのか、『行かないで。私といてくれないかな。』と言わせてくれない彼が悪いのかはわからないが、振り向いてもらえない分の切なさが残る。
そんな時に、「お待たせ致しました。」とマスターが淹れてくれたコーヒーの苦さが丁度よく感じてしまう。
こんなにも人を好きになった事はないし、この人が私を見てくれるのならどんな事でもやってのける自信はあるのに、嫌な携帯の着信が響いて、

「先に帰るね。」
と言った彼を当たり前のように見送る自分が寂しかった。その孤独な心を包むように温かいコーヒーが私を癒してくれる。
このコーヒーを飲むようになったのも彼に好かれる為だった。ダイエットに効くと聞いたからでもある。痩せて綺麗になれば、好きになってもらえるかもしれないとおこがましいような気持ちでいっぱいだった。
何故か、好きでもない人からは、沢山モテる。

『早坂さん、付き合ってくれませんか。』

その言葉を初めて耳にした時、彼が近くにいたから、『どう思う?』と聞いた。案の定、『やめといた方がいいよ。』と言ってくれたので少しは私に興味があるのかと勘違いし、喜んだのがこの恋の自惚れの始まりだった。彼は、私が好きだった訳ではなく、本当にその男性に対して良い印象を持っていなかったから断れと言っただけ。
私への執着など1mmも無かったのだと思い知ったのは、『デートしてくれないかな?』と誘ってしまった後の事だった。反応が悪かったので、『痩せたら、映画に行ってくれないかな。』と頼み込んだが、『ダイエットは体に悪いから、やめた方がいいよ。』と遠回しに断られただけだった。
友達としてしか見られていない現実に失望してしまい、諦めて違う男性と映画に行ったが虚しいだけだった。その後に飲んだブラックコーヒーの味は、何もしなかった。
一緒にいる相手が違うだけでこんなにも全てがどうでもよくなるのかと暗い気持ちで帰宅した。その間にもずっと彼の事を考えながら、想ってもくれないとハッキリわかっているその人の事だけしか頭には入って来なかった。
勿論、進学校だったので勉強も頑張ったし、『早坂さん、よくやったね。』『今回は国語と社会が学年3位よ。』とこっそり担任や副担任の先生に誉めてもらって、満面の笑みにはなれたが、それが欲しかった訳じゃない。私が欲しかったのは、彼の気持ちだけだった。どんなに努力しても、手を伸ばしても藻掻き苦しめば苦しむ程、手に入らない。虚しさが募って、1年また1年と時が経ってしまった。
その間にも、バレンタインデーにはチョコレートを渡し、誕生日にはおめでとうメールを送り、一緒に帰ってくれる事もあったが、この人は私のモノではないのだとわかっているのが切なかった。
『好きだよ』と言って返してくれる人を好きにはなれない。そんな自分も我が儘だったのだと思う。それでも、どうしてもこの執着からは逃れられなかった。
誰に間違っている、やめておきなよと言われても、私にはこの人しかいなかった。
バカかもしれない。泣ける程に、好きだった。
でも、我慢も2年半を過ぎると痛みにしかならなくなった。自分勝手な想いだが、周りに彼氏ができたり、幸せそうな雰囲気が漂うのを見ると辛く感じる事が多くなってきた。奥手な友人がいて安心していた訳でもないのだが、その子にまで彼氏ができて1人ぼっちになったようで悲しかった。
一緒に帰る人もいなくなって、寂しく教室にいたら、「一緒に帰ろう。」と声をかけてくれたのは彼だった。

帰りながら、こんな事を尋ねていいのかと疑問に思ったが、どうしても気になる事があったので聞いてみた。

「彩ちゃんと付き合ってるの?」と確認してしまった。付き合っていたとしたら、生きてはいられないくらい精神が崩壊するだろうとわかっていたのに、聞いてしまった。もう遅いと思って、自分の行動に嫌気が差した。
しかし、「付き合ってないよ。俺は、今まで誰とも付き合った事がない。」と冗談のような笑顔が目に入った。「可愛いって言ってたよね?」と言ったら、「確かに綺麗な子だけど、性格が合わなかった。」と言われた。ほっとして、物凄く幸せな気分になった。
でも、卒業間近の友人達とのボーリング大会の時に、「早坂君と葉子ちゃんは付き合っているから、私達は見守って2人きりにしてあげよう。」と友人に言われた。心臓が潰れたような、目の前が真っ暗になったかのような絶望感と自分の大切なモノを奪われたような喪失感に苛まれた。
友人達に聞くと、付き合っていると口々に言われて、雰囲気を壊さない程度に明るく場を盛り上げてからトイレで1人泣いた。
自分が養って鳥籠に囲ってもいいと思える程、好きだった。最悪、私を好きじゃなくても彼がいてくれれば強くなれると思えるくらい、この気持ちは一途で愚かだった。
泣いて目を腫らして夜の闇に消えていると後ろから彼氏持ちの友人の声がした。
「コーヒー、飲みに行こうよ!美味しいとこ、知ってるから。」と誘ってくれた。「うん。」と笑い、付いて行ったコーヒー店は本格的なエスプレッソの匂いがしてとてもいい香りだった。
それなのに、注文したのは、薄いブラックのアメリカンで、泣き過ぎたのか味がよくわからなかった。彼と来たかった等と思って、また泣きそうになった。
残念ながら、精神的に不安定だった私は、成績を落とし、彼と同じ大学には行けなかった。笑える話だが、失恋で鬱病にかかり、授業中に寝てしまったりして受験生のクラスメイト達に嫌われてしまった。

「また寝てるよ。早坂さんは何の為に学校に来てるの?」と言われる始末だ。『そんなの、彼に会う為だけに来てるに決まってる』と言える訳もなかったが、報われない意地にも似た執念が私を離してはくれなかった。
教師も苦笑いするしかない程、「私は、1人競技に出るから。それはできない。」と協調性を無くし、やつれていった。
だから、高校3年になって別人のように人に好かれなくなった。
彼以外は、いらないのでどうでもよかった。それだけだったのだが、要らぬ誤解を招いた。
「早坂さんって、援助交際してるらしいよ。」「可愛くもないのに。」等とやってもいない罪を被せられても全く気にする余裕も無かった。バカみたいに彼の事だけにしがみつこうとしていた。
彼は繊細でか弱い人間だったから、そんな私を良くは思ってくれなかった。きっと、人柄が良くて精神的に強く朗らかな女性がタイプだという事もわかっている。
その時の心境は、鬱病で弱っていく私をあなたが好きにならなくてよかったと言うものだった。本当に好きだったから、守ってあげられないくらい体がふらふらな自分が彼を幸せにしてあげる自信が無くなったのだ。守って欲しいなんて、愛して欲しいなんて言わないから、こっちを見て欲しい。それだけなのに、何故伝わらないんだろう、まるでトレンディー俳優の3枚目のような自分が悲しくて仕方なかった。
抱き締めてくれる腕を望んでいる訳じゃないのにここまで叶わないなんて、と現実に追い込まれる毎日だった。
卒業して、彼が側にいなくなると少し心が落ち着いたように思えた。お互いの為に彼の連絡先も消して、総てを忘れたように大学生活を送った。
友人も沢山できて、無理矢理他の人を好きになる努力もしたし、彼氏もできた。
入学3か月後、彼の番号から携帯に連絡が入ってしまった。

「出ていいよ。」
と新しく出会った男性に言われたが、1日中無視をしてその日は出なかった。私が無視をしたのも初めてだし、彼がこんなにしつこくかけて来た事も今までに無かった。

「秀実ちゃん、どうしたの?」

と彼氏に聞かれて、はっとしてしまうくらいには気が動転していた。「ううん。最近、オレオレ詐欺が携帯にまで掛かって来るらしいよ。自分の携帯で自分に掛かって来るのに、本人を装ってお金を請求して来るって。凄いよね。」「最早、執念やな。」と誤魔化しながら会話をした。早く何か喋らなければと慌てていると、友人の言っていた台詞が口をついた。
癖になったアメリカンのブラックコーヒーを飲みながら、美味しさを感じられるくらいには立ち直れたと思う。2度と近寄らないでおこうと決意した。
その筈だったのに、お盆に帰省した彼に偶然出会ってしまった。顔を見ると、もうダメだった。他の人まで彼の顔に見える。3か月では気持ちがどうにもならなかったのかもしれない。爽やかに、変わらぬ笑顔で、

「早坂さん!」

と言われてしまえば、飼い犬みたいに、「久し振り、小林君!」と嬉しそうな態度を取ってしまった。彼に興味を抱かれない原因がそこである事もわかっているのに、無下にできない。惚れている側なのだと、いつもいつも認識させられる。
それは喜びであり、悲哀でもある。

「新しくオープンした喫茶店に行かない?」なんて、男性から言ってもらう言葉を彼よりも先に発してしまう。
「守らなければと言う心構えが間違っている。お母ちゃんじゃないんだから。女の子はしてもらうように持って行った方がいいよ。」と言ってくれた女友達のアドバイスもこの時の私には通じていなかった。
レディファーストのように、彼が困らないように知らない場所を案内してあげるし、ナイトのように彼の犠牲になってもいいと思えるくらい、好きだったからだ。彼の手を煩わせたくない、その一心だった。色んな店を案内してあげたり、楽しんでくれているかを気にしたり、女と言う性別を捨ててもよかった。
彼といられる事の幸せで、してあげる事に何の違和感も抱かなくなっていた。
もしかしたら、彼はしてあげたかったのかもしれない。そう思えるようになったのは、帰って来る度にしつこくコーヒー店にデートに誘って1年が過ぎた頃だった。
私はプレゼントでも何でも本人の欲しい物ではなく、自分が欲しい物をあげるタイプだった。
でも、相手からしてみると、「いや、男物の方が良かった。」と言われる事が多い。「でも、これ、可愛いのはし。」と批判精神が強い上に我を通す癖があったのだ。
付き合っていた人にも、付き合い切れないとフラれてしまった。
しかし、彼に相談する気にもなれず、いつものように彼の家まで迎えに行って一緒にコーヒーを飲んでいたら、
「はい、どうぞ。」と彼が扉を開けてくれた。嬉しくて世界一幸福であると言える自信があった。コーヒーも合わせてみて、少しは見栄を張らずに女性らしく振る舞っていた。すると、「映画に行かない?」とあちらからお声が掛かって、思考が停止した。それまで、コーヒーがこんなに美味しい物だとわからなかった。
ただ飲んでいるだけ、雰囲気のような物だったのだが、28歳になって大好きな彼と暮らせるようになってからは、「先生、プロフィール書いて。後で渡してくれたら、いいから。」「わかった。ちょっと待っててね。」と、教職に就いた私の生徒のプロフィール帳にある大好物の欄に『アメリカン』の名が記されている。

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