バリスタに一目惚れ

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それは先日のことだった。珈琲を飲みに行こうと母とわたしはいつものお気に入りの喫茶店に出向いた。しかし到着してみたらなんと臨時休業で閉まっていたため、がっくり・・・。仕方ないよね・・・としぶしぶ気持ちをあらため、母が知っている近くの新しくできた珈琲店に行ってみることにした。聞いてみると珍しくホームセンターの一角にできた喫茶店らしい。

 

ホームセンターの喫茶って雰囲気良いんだろうか、ホームセンターよホームセンター!なんて疑心暗鬼になるわたし。だけど行ってみるとその考えは覆された。確かにホームセンターの中に位置している、でも、ちょうど園芸や観葉植物コーナーの中に出来ていてその小さな店の周りには愛らしかったりクールだったりする植物がたくさん置かれていた。緑緑緑・・・花花花・・・、まるで小さな森の中の静かな喫茶店みたいなところだった。小さなこの区画だけ空気が美味しい。そんなグリーンたちに導かれるようにして珈琲店に入店。でも内心はお気に入りの店に行きたかったなぁという思いが強かった。あそこの珈琲のオリジナルブレンドは香りも味もキレもコクも、なんといっても自分の中で一番といえるほどに美味しいんだもの。

 

でも、新しく来てみたこのお店。中は木目の美しい机と静かで落ち着く音楽と温かな色の証明が素敵な空間で本当に驚いた。インテリアもアンティーク調でとてもいい感じ。さっきまでいつもの喫茶店に後ろ髪を引かれていたわたしは新しい店に来るのも悪くないなと入店してすぐに感じたものだ。

 

店の前にはケーキのショーケースがあった。母もわたしもやはり女子!おいしそうなデザートには目がない。母はいちごタルト、わたしはブルーベリータルトにくぎづけになった。見た目もかわいいしいちごもブルーベリーも沢山乗っていてキュンキュンした。女性は可愛くて甘いものが大好きだ。母とこれらを店内で注文しようということになった。でもいちごタルトはあと残りひとつ。お店にはこれから注文しようとしているお客さんも幾人かいそうで「もしかしたらいちごタルトが売り切れになっちゃうかもしれないね、すでに頼んでいる人がいたりして。」なんて母と言いながらわたしたちはそのお店に入店した。

席についてすぐにスタッフのお兄さんが注文を取りに来てくれた。でも珈琲の種類はたくさん。どれにするかが決まっていなくて、先にタルトを注文しようと思った。ケーキのことを伝えると、お兄さんはとても気が利く人で「先におさえときますね、あのいちごタルト。人気なので。その間にお飲み物決めて頂けたら大丈夫ですよ。」と笑顔でわたしたちのためにケーキを確保しに戻ってくれた。もう一度戻ってきてくれたお兄さんに「ありがとうございます」と伝え、珈琲はホットブレンドを注文した。いろいろ迷った挙句、やっぱり店の味、特徴を確かめたくてブレンドにした。

 

お兄さんはカウンター内に戻ってわたしたちの珈琲を淹れる用意をはじめた。もう一人男性スタッフがいるけど焙煎専門みたいで、どうやら珈琲を淹れるバリスタはお兄さんみたい。そして、カウンターにはコーヒープレスが並んでいてここはそれが売りみたいだ。オレンジ色の照明のひかりがあたたかく広がる店内は感じの良いピアノのインストゥルメンタルが流れている。そして何より店中を埋め尽くす珈琲の芳ばしい香り。とっても落ち着く空間。気づけばわたしはぼうっとお兄さんを見つめていた。その数分の間にはやくも、なんかいいなぁ・・・と、お兄さんの姿が素敵に見えてしまった。え、今の何?「なんか良いなあ」?恋?まさか。うーん、そんなことないはずなんだけど。いや恋じゃなくてこの雰囲気でしょ、そうそう、雰囲気よ。珈琲「店」!店の力もあるのよ!と自問自答をしている間、ちらちらとお兄さんのほうを確認してしまった。立ち上がる珈琲の香りがわたしの感覚を気持ちよくさせていく。なんだろうこれ、珈琲マジックだろうか。馬鹿みたいに考えを高速でめぐらせたあとに、あまりずっと目で追うのもあれだしな・・と視線を自分の座っているテーブルに戻した。

そしてお兄さんはケーキ二つと珈琲を持ち、テーブルに来てくれた。
「お待たせしました。どうぞ。」と目の前に頼んだ品がおかれる。何か話しかけてみようと思ってお兄さんに「ここは珈琲をプレスで淹れるんですね。」と言ってみたわたし。お兄さんは「そうです。抽出したオイルにうまみや甘みがたくさん含まれてます。美味しいですよ、どうぞ。」と言ってくれた。いつもドリッパーやたまにサイフォンで淹れる珈琲を飲む機会が多くて、プレスで飲むのは久しぶりだった。正式にはフレンチプレスという抽出方法で金属製のフィルターなのでコーヒーのオイルも抽出される。ペーパーフィルターではこのオイルがフィルターを通らない。まあ、ペーパーフィルターにはペーパーフィルターの良さがあるけど。

飲んでみるとまろやかでほんのり甘い感じがした。いつも通っている喫茶店ではキレ!コク!といった特徴だけど、このお店はそれらをまるくした感じ。珈琲のせいだか、お店の雰囲気のせいだか、お兄さんのせいだかわからないまま、美味しい珈琲を飲みながら酔いしれていた。

ケーキもペロリと食べてしまって、珈琲も味わいながら飲み干し、母もわたしもお店を出た。帰り道車の中で母に「ねえお母さん、わたし、あの人タイプかもしれない。」と言ってみると母は「また何を言ってるの。」と変な顔をされてしまった。その母の反応でわたしも正気に戻れたかというと戻れず、家に帰ってみても頭の中はお兄さんとあの珈琲の味でいっぱいだった。

あんな短時間のうちに恋に落ちるものなのだろうか。まさか、と思うが、一種の一目ぼれのようなものかもしれない。わたしは現実的な考えを持っているほうで一目ぼれなんて・・な、という冷静さは今でもある。新しいトキメキにそんなに浮かれているわけでもない。でもあの空間も時間もすてきで、お兄さんの持つ空気感がわたしには素直に感じられた。そんなに口数が多くなくて、嫋やかに静かに対話するように珈琲を淹れていたお兄さんの「空気」にきっとわたしは恋をしてしまったのだと思う。あの短い時間を何度も何度も記憶の中で繰り返す。自分が一体どうしてしまったのか整理するために、わたしは自分の部屋でゆっくりと思い起こしていた。

 

「珈琲か。」
ぽそっと一人つぶやく。とても美味しかったあの味。あの香り。あの空間。時間。珈琲を淹れるお兄さんの沈黙の中に語られていた彼自身の個性や生き方や哲学なんかが自分には確かに感じられたのだ。

 

「こりゃ恋だな。」
わたしはもう腑に落ちてしまった。短時間で恋に落ちるなんて初めてのわたし。生きてきた人生の中での恋でももうダントツと言えるほどに速い。自分で驚いている。これまではゆっくりゆっくり人を好きになっていった。ゆっくりじっくり始まった恋が多かったのだ。なんというか現実的なスロースターターだった自分。相手のほうから来てくれて恋を始めることも多かった。「わたし一目ぼれしちゃったぁ!」なんて言っている友人を「なーに浮かれてんの」と半ばちょっと小ばかにしていた自分がいたけれど、まさか自分がそうなるなんて。一目ぼれってあるんだな。28歳にして初めて知った。

 

ストンと落ちたのだ。あの日。そう思うのが一番しっくりくる。その人がどういう人間なのかを表現しているのは、言葉や字のように目に見えるものだけではない。目に見えない場所にこそ本当のわたし、あなたがいるのかもしれない。わたしはそういう事を学べずにわからないでいた。ずっと。形あるものや手に取れて理解できることで安心する癖があった。現実的で固いかもしれないけれど、どこかなにかつまらなくて面白味のない自分がコンプレックスでもあった。そうか。わたしはストンと落ちてしまったのだ。これまでわからなかった一目ぼれの「恋」が一瞬にしてわかってしまったみたいだ。

 

この感じは一体何なのだろう。うまく言葉で言い表せられない。でも確かな感覚。ずっとドクンドクンと脈打っている漢字。いつまでも淹れたての珈琲みたく冷めることを知らない「恋」のこの感じ。

 

でも、あのお兄さんには彼女が居たりして。いや、結婚していたりして。でも指輪はしてなかった。待って、最近じゃ指輪をしない人だっているし、仕事中だからしないってこともある。うーん、考えが押し寄せてくる!

 

お兄さんのことを考えるだけでまるで少女のようになってしまう。アラサーのわたしが少女。でも恋ってそういうものなのかもしれない。甘酸っぱくて若々しくて少年少女のようで。「甘い」か。あの珈琲、どこか甘かったよなぁ。美味しかったなぁ。

気づけばわたしは大学を卒業して就活も順調でOLになって、気が付けば30が近くて、熱烈な恋愛もしたことのない平坦な人生を送ってきた。だけどこうして少女の様な恋がまたできるなんて本当に嬉しい。あのお店が臨時休業だったことは天使の悪戯、というかプレゼントだったのかも。

わたしは自分の部屋を出てキッチンへ行き、いつものその喫茶店で買った豆で珈琲を淹れた。ずっとお気に入りだったあの店の味だ、確かにおいしい、いつも通りおいしい。香り、味、キレ、コク。でも何かが足りない。甘み、まるみ、まろやかさ。ああ、コーヒープレスで抽出したあの珈琲がどうしても飲みたい。植物に囲まれた小さなあの店の空間に行きたい。タルトも食べたい。ピアノのインストゥルメンタル!でも、一番にただ素直にお兄さんに会いたい!30近い女がただばかみたいに一目ぼれの恋をしてるのはわかってる。馬鹿だ、こんなの、私ってきっと馬鹿。一人でずっとこうして考えて浮かれたり不安になったり。でももう止まらない。わたしはあの人が好きだ。気の利くところ、やさしい声、知的な雰囲気、寡黙なところ、静かに珈琲を淹れるあいだ漂わせる彼の哲学や信念、独特の空気。わたしは恋に落ちた少女。うん、もう一度珈琲を飲みにいこう。そしてブレンドとタルトを頼もう。美しい化粧をして!お気に入りの洋服を着て!昨日よりもキレイで可愛い私になって。

明日にでも!

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