ブラックコーヒー

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あの頃、私はまだ学生だった。

当時付き合っていた彼と半同棲をしていて、毎日をただ楽しく無責任に過ごしていた。どちらも就職が決まっている大学4年生という気楽な身分だった。彼は地方から上京してきて、私の実家がある駅の近くにワンルームマンションを借りて生活していた。6畳の部屋には物が溢れていて、かといって冷蔵庫の中はすっからかんだった。頻繁に彼の部屋に通うようになってからは、掃除をしながら整理整頓し、近くのスーパーに行って食材を買ってくるのが私の役目になった。しかし、コーヒーマシンとコーヒー豆は別だった。

 
私たちは駅の近くのカフェで出会った。私がアルバイトをしていた店に同じように彼もやってきたのだ。すぐに仲良くなり、次第に夜遅くまで話し込むようになった。デートをし、付き合った。それは川の流れのように自然で、太陽がのぼるように運命づけられたことのように思えた。

 
「コーヒーは最高だ」

 

彼はよくそう言いながらコーヒーマシンを掃除した。店から安く手に入れたコーヒー豆を丁寧にラップし冷蔵庫へいれた。コーヒーマシンも店長から譲り受けたものだった。どれだけ部屋の中が雑然としていても、その2つだけは彼の手によってあるべき状態に保たれていた。

 

「コーヒー飲むかい?」

 

朝目覚めると必ずそう聞かれた。飲む、と答えると彼は嬉しそうにコーヒーを淹れてくれた。

 

「就職したら自動のコーヒーミルを買うよ。きっと時間もないだろうから」

 

そう言いながら彼は豆を挽いた。ガリガリっと豆が砕け、コーヒーの香りがフワッと舞った。私は別に買わなくてもよいのにと思った。手間をかけて豆を挽いている彼を見ていると、なんだか自分が大切にされているように感じて、温かいベッドの中でとても幸せな気分になれた。
一般的なカップルがそうであるように、私と彼には共通点があり、そうでない点があった。たとえば、私は甘党で彼はそうではなかった。彼はブラックコーヒーを飲み、私は砂糖とミルクをたっぷりいれて飲んだ。彼はそんな私の行動を面白おかしく眺めていた。

 

「ブラックじゃ飲めないのよ」私は言った。
「好きなように飲めばいいんだよ。コーヒーの飲み方は人それぞれなんだ。でも」彼はコーヒーを1口飲んで言った。
「いつかブラックコーヒーを飲めるようになるかもしれない」
「そんな苦いもの絶対に飲めないよ」

 

彼のお気に入りはブラジル産の豆だった。苦味が強くて、値段もわりと手頃らしい。

 

「大人になったら飲めるかもしれない」
「もう大人です」私はきっぱりと言った。
「たしかに」彼は笑いながらこちらを見ていた。

 

あの時私は学生だったけれど、21才になっていて、そういう意味では大人だった。でも、思い返すとあの頃の私はまだ若く、ほんの子供だった。

 
結末から言ってしまえば、私たちは社会人になって半年ほどして別れた。お互いに仕事が忙しく、彼の家に行くことも少なくなり、会うと喧嘩ばかりするようになった。最後の3ヶ月間は本当にひどい関係だった。そんなわけで、私たちは別れることにした。付き合ったときと同じように別れもごく自然なものだった。未練はなかった。それでも、カフェでコーヒーを飲んでいる男の人をみると、彼を思い出してしまうことがある。

 

コーヒーカップを手に持ち、口元へ運んでいる動作をみていると、その先に彼の顔があるんじゃないかと思ってしまう。そこに悲しみや後悔はないけれど、どうしているんだろう、となんとなく思うのだ。そんなことを考えていると、彼との思い出が頭の中へどっと流れ込んできて、その人の顔は見ずにいようと思う。すぐに別のことを考える。私としてもきっぱりと彼のことは忘れたいのだ。

 
さて、私の社会人生活はというと、こちらもひどいものだった。元々、物覚えが悪いうえに要領よく動けない私は、上司やお客さんから毎日のように注意され、怒られ、呆れられたりした。入社してしばらくの間は彼との関係もうまくいっていないこともあって、精神的にかなりまいっていた。それでも、彼との関係に整理がついて気持ちに余裕ができてくると、仕事への熱も高まっていった。

 

「すいません、ちょっと分からないことがあるんだけど……」

 

ある日、私が窓口に立っていると、パンフレットを手にしたおばあさんがやってきた。白髪をふんわりとカールさせ、銀縁眼鏡をかけた感じのよい女性だった。彼女が質問し、私が答えた。それも丁寧に、分かりやすく、笑顔で答えることができた。家でコツコツと勉強していた内容だったのだ。

 

「ありがとう。あなた感じが良いわね」話が終わると彼女は微笑んだ。

 

私は照れてしまって、「あ、ありがとうございます」と言って頭を下げた。

 

「他の窓口もあなたみたいな人だといいのにね」彼女は小声でそう言って、おどけた顔をみせた。

 

何といっていいのかわからずに困っていると、じゃあね、といって彼女は去っていった。私はなんだかとても満たされた感じを覚えて、店からでたあともガラス越しに彼女を見つめていた。外には春の陽光が柔らかに舞い降りて、ゆったりとした時間が流れていた。社会人になって1年が過ぎていた。
そんな風にして、少しずつではあるけれど、社会人生活は軌道にのっていった。母親から、早く彼氏をつくりなさいよ、と言われるのだが、私としてはその時の状態に満足していたし変化を求めようとも思わなかった。それでも、会うたびにそんなことを言われると、心が動かないでもなかった。私も20代後半にさしかかっていたのだ。
「よかったら帰りにカフェでもよりませんか?」

 

社員のほとんどが帰ったあとの閑散としたオフィスで後輩の男から声をかけられた。彼は私より1年遅れて入社し、隣のチームに所属していた。仕事で関わることは何度もあったし、新年会や忘年会なんかも私のチームと合同でやっている。とても親しみやすい性格だったのでわりと仲の良い間柄だったが、こんな風に誘われたのは初めてだった。

 

「いいよ」と言った。

 

私たちは駅へむかう通りを歩き、繁華街にさしかかる手前でカフェへ入った。昼間はサラリーマンでごった返しているが、この時間は人が少なかった。そのままレジへむかい注文を聞かれた。

 

「ブラックコーヒー1つ」思わず口を突いてでた。
間があって「僕も」と聞こえた。

 

コーヒーカップを持ちながら、隅のほうの席へ座った。コーヒーの香りが広がる。彼はコーヒーカップを持ち、それを口元へ運んだ。私は彼の顔を見た。彼は遠慮がちにすすったあと顔をしかめた。

 

「本当はブラック飲めないんですよ。子供みたいですよね。でも、先輩が頼んだからつい見栄で」そう言って彼は笑った。

 

「コーヒーは人それぞれなんだから、好きなものを頼めばいいのよ」私はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
心地よい苦味が体に染み込んだ

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