三日珈琲

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その珈琲屋に出会ったのは、うだるような暑さの夏。社会人をやりながら、建築の勉強をしていた私は、会社の夏休みを利用して1週間の滞在予定で京都に来ていた。

 

街自体が、映画の舞台のような京都は「古都」というイメージが強いが、モダンで前衛的なお店が実は多いことも、今は大分しられている。

そして、珈琲屋さんも驚く程多い。東京都の決定的な違いは、その質の高さ。
もちろん東京にだって良い店はあるが、とにかく、店と店が点在しすぎていて、数年経てば入れ替わり、一昨年いった店に行こう…と思ったらなくなっていた、というのはザラである。

 

京都は10年前に存在していた店が、ちゃんとある。そして、その輝きは深みを増し、独自の存在感をキラキラ放つ。
祇園をふらふらと散策していた月曜日、私はその店に出会った。路地と言うよりは「隙間」という表現がぴったりの道を入ってほどなく、古ぼけたビルの階段を3階まで上がると、今にも朽ち果てそうな重厚な木の扉があった。

 
正直、店の店名に「COFFEE」と書いてなかったら、絶対にそのドアを開けなかっただろう。度胸があるのは、私の一つの自慢かもしれない。それくらい怪しい店構えだった。

 

ギギ。予想通りの音とともに、開いたドアの隙間から漂ってきたのは、強い強い珈琲の香り。酔ってしまいそうな香ばしさに、不安は期待へと変わり、店内へ。
通や常連しか入れないような雰囲気でありながら、店員さんは気さくで優しかった。案内された席に座り、何はともあれブレンドを注文すると、水を一口飲んで、ようやく店内の様子を見る余裕が出てきた。

 
廃材を利用したように見せている床、コンクリートは凸凹に塗られ、素人仕事に見えるが計算された無造作感が、逆にプロのこだわりを感じさせる。少し開いた窓から外の喧噪がボリュームを絞ったラジオのように聞こえ、そこに店内を流れるジャズが重なり、店内の風景に色をつけている。
大きなカウンター、そして私が座った小さなテーブル席。床に積み木のようにつまれた雑誌や本は、どうやら販売しているらしい。建築雑誌のバックナンバーを手に取り、珈琲を待つことにした。店内は、私の他は2名ほど。

 

「京都の町屋のリアルな日常」という記事にさしかかった時、またギギ、という音がして、男性が一人入店した。
どうやら常連らしく、店員に目配せすると、真っ直ぐに店の奥へ向かい、私が読んでいた雑誌の別のナンバーを取り、カウンターに向った。

 

そして、珈琲が来た。
香りに負けないストロング系のパンチのある味。男性好みだが、美味しいものに性別は関係無い。私は珈琲に添えられたチョコレートをつまみながら、空間と味が一体化したこの素晴らしい「今」に感謝をしていた。

 

店が混み合ってくると、テーブル席に一人で座っているのが申し訳なく、カウンターに移動した。読んでいた雑誌をカウンターに置くと、同じ雑誌を見ていた男性が「良かったら、交換しませんか?」と声をかけてきた。

 

その声に、一聞惚れしたのである。
「どうぞ」
今思い出しても恥ずかしいくらいの小さな声だった。30代なのに、女子中学生でももっと上手に答えられるだろうと、反省しながら。

 

その男性は京都の大学院で建築を学んでいると言った。私よりも8歳も年下だったが「建築」という共通の話、そして何よりこの店で珈琲を飲んでいるという、感性の共通点が私たちをどんどん引き寄せていった。

 

そろそろ、家庭教師のバイトがあるから、と男性が席を立とうとした時、かつてない寂しさが自分を襲ったが、旅先、しかも8歳も年下の男性に連絡先を聞けるほど、自身のある30代ではなかった。
「ありがとう、お話しできて楽しかったです」それが精一杯だった。

 

しかし、奇跡は時に起きるものである。
「僕、毎日同じ時間にここで珈琲飲んでますから」と男性は告げて、お会計をして出て行った。

 

こんなことが、人生にはあるんだ。自分の身の上に起きたことがよく分からず、私もほどなくして店を出た。それから何軒か建築物を見て回ったが、景色は全然違って見えた。
明日もあの店に行こう、そして、その時に色んな話をしたい。そんな思いが私に生まれていた。

 

不思議だが、他の店ではそんなことは起きなかった。
自分が心から素敵だと思って行った店。そして、同じ気持ちで集う人たちには、見えない共通の糸で繋がることができるのではないか。そんなことを思わせるような不思議な店。
でもそれは、珈琲だから起きる出会いだと思う。
紅茶では、気取りすぎている。ジュースでは、健康的すぎる。お酒では、危う過ぎる。

 

珈琲という、色気がありつつも、どこか醒めた、でも熱い。そんな飲み物だから恋愛の舞台の重要な小道具になり得るのだ。いや、小道具という言い方も失礼かもしれない。それはもう、立派な出演者とも言える。

 

火曜の昼、同じ席。少し時間を遅らせて行くと、彼はいた。昨日と、今日の午前中にめぐった建物の話から、彼の出身地、好きな作家や映画、旅行の話まで、私たちはもう数年付き合ったカップルのように親しく話をしたが、それは全くもって自然の流れのように思えた。
そして、昨日と同じように、彼は席を立ったが、台詞は違っていた。

 

「明日はこのお店お休みですから、お会いできませんね」
それは「会いたい」というニュアンスに聞こえたので、そこは大人の女性らしく「良かったら、あなたのお気に入りの他のお店を案内してもらえませんか」と言い、誘いにのることにした。

 

恋愛がしたくて、京都に来た訳ではない。でも、失い難い出会いだと思わせる何かがあった。そしてそれは、珈琲なしでは語れない出来事だ。

 

結局、私と彼は水曜日に会い、彼がよく行く、というお店と、行ってみたいと思っていたというお店と、数軒はしごして、珈琲を飲んだ。
火曜日とはうってかわって、お互いほとんど話さなかった。

 

珈琲の力は、一期一会だったのだ。
結局、夕方鴨川沿いを歩き「解散」した。
連絡先も交換しなかった。

 

そして、木曜日、東京へ戻る新幹線まで時間があったので、再びあの珈琲屋さんに行ったが、彼はいなかった。たまたま時間がずれていたのか、私と顔を合わせたくなかったのかは分からない。とにかく彼はいなかった。

 

でも、ブレンドは相変わらず力強くて美味しかった。
たった3日の出来事を、こんなにも美しい思い出に変えてしまったこの店と珈琲に心から感謝して、私は京都をあとにした。

 

恋愛の始まりと終わり。そこに珈琲があったら、間違いなく人の心は一生揺さぶられるのだろう。嗅覚は記憶を司る脳の一部と直結している、と何かの本で読んだ。
珈琲の香りを嗅ぐ度に、きっと私の胸は少し痛み、それを褐色の苦い液体で癒すのだろう。

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