先生とコーヒー

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あぁ、嫌になってくる。
私は大きなため息をついた。

高校2年生に進学して3か月過ぎたというのに、先生は相変わらず女子生徒に人気だ。

きゃあきゃあ珍しがって騒がれるのも4月のうちだけかと思っていたけれど。

先生は新卒の美術教師だ。
スラッとした痩せ型で眼鏡が知的で顔立ちも整っている。
話し方は優しく、他の先生と比べると若くてかっこいい。

私もきゃあきゃあ騒ぐ女子達にまざって騒ぎたいけれどそういうキャラクターをしていないので大人しく見ているしかない。

こういうときは自分の地味さ、真面目っぽさが嫌になるけどしょせん先生と生徒はそれ以上でもそれ以下でもない。

放課後の美術室は美術部が使用する。
先生は4月から美術部の顧問になったので生徒が絵を描いているのを見回ったり、たまに自分も油絵を描いている。

部活がない日も先生は美術室で作品の続きを描いていることが多い。
先生と個人的に話したいなら放課後が一番のチャンスだ。

3月までは美術室なんて授業以外で来たことがないようなギャルまでやって来て先生と話していることもある。
「先生彼女いるの?」
「先生眼鏡はずしてみてー」
先生はそんな彼女達の話に相槌をうったりちょっと笑ったりしながら作業をしている。

元々美術部員の私はそんなやり取りにため息をつく。

部活がない日も美術室にやって来ては絵を描きながら、先生と女子とのやり取りをヤキモキしながら見ているというわけだ。

その日、先生はコーヒーを片手に休憩していた。
美術室はガランとしていてまだ先生以外誰もいない。

ヤバイ、はやく来すぎた。
先生と二人なんて何を話せばいいんだろう!
どうしよう!
「…失礼します。」
「お、早いなぁ。」
先生がニコッと笑っただけで、怯んで一瞬足が止まってしまった。
心臓がばくばくしてしまう。

感づかれないように絵の具を出したり椅子を持ってきたりとわざとガチャガチャと音を出して用意をした。

いつも聞けないことを聞いてみよう、と勇気を振り絞ってみる。
「いつもコーヒー飲んでますよね。先生はコーヒー好きなんですか?」

先生のコーヒーカップは綺麗な紺色をしている。
机にポンとおいてあるカップの内側は白く、中の黒い液体が余計真っ黒に見えた。

先生はちょっと考えるような仕草をしてから
「うん、好きだよ。」
「ブラックですか?」
「うん。大人になったらブラックしか飲まなくなったよ。…昔はミルクと砂糖をたくさんいれてたけどね。」

…大人だ。
わかってたけどやっぱり先生は大人だ。
私はコーヒーは苦くてブラックは絶対飲まない。

私は学校でしか先生を知らない。
今まで部活でもろくに話したことがない。
でも、勝手に憧れて、ちょっと話しただけで舞い上がってしまうくらい子供だ。

「君は部活がない日も続きを描きに来るから、油絵が本当に好きなんだね。」
先生がコーヒーを片手に顔を覗きこんでくる。

ヤバイ、眉毛何日も整えてないし。
今日はリップもぬってないし。
顔面がヤバイ気がする!

先生がそういうところを見ていないのはわかっているけど、どうしても気になってしまう。

「下手だけど絵を描くのが好きなんです。だから毎日描きに来るんです!」
先生の顔をまともに見られないほど動揺して変な声になってしまった。

「あ~!アタシ達が一番だと思ったのに!」
「美術部マジで真面目!」
と、いつもやって来る女子達が何人かでわいわいとやって来た。
いつもはうるさいし先生と楽しそうにしているので大嫌いだけど今日は来てくれてちょっとほっとした。

男性に免疫がないぶん私は好きな人ともまともに話せないみたいだ…。
その日も先生は女子達と話しながら作業をして、私はそれをチラチラと気にしながら油絵を描いた。

次の日の放課後、部活でまた美術室へ向かう。
また、先生と二人きりになったら何を話そうかな。
ご趣味は?とか聞いたらお見合いみたいだよね。
好きな食べ物とか聞いてみよう。
とぐるぐる考えながら美術室へ。

心配には及ばず既に部員が何人も絵の準備を始めていた。
先生はいつものようにコーヒーを片手に私にニコッと笑った。

「白を混ぜたら?」
「もう少し陰影をつけた方がいいね。」

先生が何人かの生徒に声をかけている。

私も先生にアドバイスをもらいたくてチラチラと先生の方を見るがこちらに来てくれる気配はない。

仕方なくまたいつも通りに好きなように描くことにした。
油絵は水彩画と違って塗り重ねていく楽しさが私は気に入っていた。
失敗してもいいや、と気楽に描けるし我ながらわりといい感じに出来上がる。

先生の机にはいつものように紺色のコーヒーカップが置かれている。
あの中にはまたいつものように苦くて真っ黒の液体が入っているんだ。
私には飲めない物が。

「閉めるぞー」
部活が終わって美術室の鍵を先生が閉める。
「バイバイ」
「先生また明日」
「失礼します」
それぞれ挨拶して帰る。
先生は空っぽになったコーヒーカップを片手に持って手をふってくれた。

次の日、美術室横の美術準備室に呼ばれた。
私の油絵を賞に応募してみないかというのだ。
正直、今描いている絵が何か賞をとれるほど良いとは思えなかった。

毎日絵を描くために残っている私を気にかけてくれたんだと思う。
その気遣いが嬉しかった。

先生はコーヒーカップを片手に励ましてくれた。
「もし賞をとれなくても挑戦してみるのは良いことだよ?他の部員にも聞いてみるけど、君も出してみたらきっと良い経験になるよ。」
先生に後押しされて出してみることにした。
不思議と今まで以上に絵を描くのが楽しくなった。

部活のない日、また一番乗りの美術室で準備をしていると先生が入ってきた。
「あれ、僕より早い。」
そう言いながら笑っている。

先生の片手にはまた、コーヒーが。
淹れたてのコーヒーの臭いがした。

コーヒーを飲みながら先生が言う。
「申し込みの書類を書いてもらわなくちゃいけなかった。職員室にあるから持ってくるよ」と、賞の申し込みの書類を取りに行ってしまった。
美術室にポツンと残されてしまった。

机にはいつも先生が片手に握っている紺色のコーヒーカップ。
いたずら心というか、今しかない!と思ってしまった。
ちょっとだけ、一口だけ。
どうしてもそのコーヒーカップからコーヒーを一口飲んでみたくなった。

先生と間接キス。

私、やってることヤバイかな?
大丈夫だよね?

そんな風に思いながら、手が震えた。

先生の紺色のコーヒーカップ。
綺麗な紺色。内側の白が一層中の黒いコーヒーを真っ黒に見せる。まるで絵の具の黒みたい。
いつもは先生の片手にあるコーヒーカップ。
それが今は私の手の中。
ドキドキしながらコーヒーカップに口を近づけていく。

コーヒーを一口飲んでみる。

ブラックしか飲まなくなったよ、と言って笑っていた先生の顔が浮かぶ。

先生のコーヒーはすごく甘かった。

先生はミルク抜きの甘いコーヒーを飲んでいたんだ。
なんでブラックしか飲まないって言ったんだろう?

でもたぶん、他の誰も知らないであろう先生のちょっとした秘密を知ることになってちょっと嬉しい。

先生がかっこいいと騒いでいた女子達も先生がまさか甘いコーヒーをいつも飲んでいるとは思っていないはず。
ちょっとだけみんなよりも先生のことを知ったようなそんな気持ちになった。

「お待たせ。これに必要事項を書いて持ってきて。」
先生が美術室に入ってくる。

しまった、コーヒーカップを握りしめたままだった!
ぐるぐる考えていたのでそのままカップを両手で握りしめていた。

私はサッとカップを机に戻す。
何事もなかったかのように書類を受け取り
「わかりました。ありがとうございます。」
と内心ヒヤヒヤしながら答えた。

先生は特に私がカップを握りしめていた事には突っ込まなかった。

すぐに他の部員たちが来たのでそのまま普通に部活に取り組んだけれど、絶対に変だと思われた!と心の中はぐちゃぐちゃだった。

気持ち悪い、とかストーカーだとか先生に思われたらどうしよう!
いつも絵を描きに来るのも迷惑だって言われたら?そんなことを思いながらキャンバスに向かったが全く進まなかった。
その日は一度も先生の方を見ることができなかった。

申込書を先生に提出するため、また美術準備室へ向かった。

「失礼します」
美術準備室のドアを開ける。
先生は授業の準備をしていた。
机にはコーヒーカップ。
「書類を出しにきました。お願いします。」
そう言って書類を渡す。

「はい、じゃあ預かっておくね。」
先生はいつも通りだ。
思いきって先生にコーヒーの事を聞いてみることにした。

「先生は本当にブラックコーヒーしかのまないんですか?」
ドキドキする。
「ん?うん。ブラックだよ。」
さらっと嘘をついている。
「本当ですか?」
私にしては珍しく食い下がり、目を見つめた。
「…うーん、においでわかった?」
とばつの悪そうな顔をしながら先生はコーヒーカップに鼻を近づけてにおいをかいだ。
いえ、直接飲んでわかりました。
とは口がさけても言えない。

「実はね、ブラックコーヒーは苦手なんだ。砂糖をたっぷりいれないと飲めないんだよ。」
苦笑いしながら頭をかいている。

「なんで、ブラックしか飲まないって言ったんですか?」
「いやぁ、ブラックしか飲まないってかっこいいかなって思って」

すごく大人で遠い存在と思っていたけれど、先生が急に身近な人に思えてきた。
かっこいいからって。
何だそれ。
クラスの男子と変わらないじゃないか。
そういえば、先生とは5歳くらいしか変わらない。
先生というよりお兄ちゃんって感じに見える。
でも、なんかかわいい。

「他の生徒には内緒だぞ?先生がいつも甘ったるいコーヒー飲んでるって言いふらすなよー」
といたずらっぽく笑った。

「わかりました。内緒にします。」
「おー、よかった。じゃあこれワイロな。」
と、先生は小さめの来客用のカップにコーヒーをいれてくれた。

先生のコーヒーを飲みながら賞は無理でもまた楽しく絵が描けそうだな、と部活が楽しみになってきた。

先生のコーヒーは甘くて子供の私にも飲みやすい味だった。

まだまだブラックコーヒーを美味しく飲むには私の舌は子供だ。

先生の紺色のコーヒーカップを見ながらぼんやりとそう思った。

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