叶わない恋と苦いコーヒー

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叶わない恋を教えてくれたのはコーヒーでした。いまでもコーヒーの匂いをかぐだけで、あの大学時代の恋愛を思い出します。

 
彼とは学部の同級生でした。クラスが一緒で、なんとなく同じグループで遊びに行ったり、バーベキューをしたりするようになり、話の合う彼にひかれていくのに時間はかかりませんでした。グループのなかでも、私と彼は仲がいいね、付き合ったら?などとからかわれることが多く、そんなときは私も彼も必死になって否定しましたが、心のなかでは悪い気はしませんでした。いつか、グループ公認の恋人同士になるかもしれない、とひそかに思っていました。だって、私ほど彼と気が合う女の子はいないでしょ?と自信もありました。

 
しかし、結局彼は違う女の子と夏頃に付き合いはじめました。最初は信じられませんでした。その女の子は、同じグループにいるけれど控えめで目立たない子で、彼と話している姿を見たことすらなかったのです。付き合っていることを知った日の夜は、眠れませんでした。彼の隣に座るのはだれより自分が一番似合うはず、そう思って涙が出てきて、正直悔しくてたまりませんでした。

 
大学のそばに、老紳士のマスターが営む落ち着いた珈琲屋があり、下宿が近いこともありそこに入学以来たびたび入り浸っていました。一人で来ることもあれば、グループの仲間数人で来ることもあり、もちろん彼とふたりで来たこともあります。ふたりで来ても、冗談ばかり言いあってちっとも男女の雰囲気にはならなかったことが、いまさらながらに悔やまれました。
最近はひとりだね?とマスターに話しかけられました。

 
「ちょっとね、失恋しちゃって」正直に打ち明けました。マスターの醸し出す静かで落ち着いた雰囲気のせいか、いつもここで熱くて深い味のコーヒーを飲むとほっとして、素直になれる気がしました。
「いいじゃないの、失恋。そうやってどんどん深みが出て行くんだよ」
「そうやって、また。深みじゃなくて、無気力になるだけですよもう」
「そこまで憎まれ口叩けるなら大丈夫だ」
マスターはニコニコ笑ってカウンターの奥へと去っていきました。
そして、ふたたびなにかを手に持って現れました。小瓶のなかに、茶色い角砂糖が入っていました。
「普段はね、ぼくはあんまり個人的にはコーヒーに砂糖とかすすめないんだけどね。でもね、いまのあなたには砂糖を入れたコーヒーのほうがちょうどいいかもね」
そう言って、私のテーブルにそっと小瓶を置きました。

 

そのとき、マスターの背後からカップルが現れました。私は胸がぐっと締め付けられるような気がしました。彼と、あの子でした。
「あ、いたんだ」
嬉しそうに彼が言います。そして、私の向かい側のチェアに当たり前のように座りました。あの子は、ちょっと戸惑った表情を一瞬だけ浮かべましたが、すぐに笑顔に戻って「偶然だね!」と明るく言って、彼の横に座りました。
やめて。お願いだから。
私は心のなかでそう叫びましたが、彼は無頓着な様子でマスターに注文します。

 
「彼女さん?」
マスターが穏やかな顔で訊きます。
「そうです」
にこやかに返す彼。会釈するあの子。
彼は楽しそうに喋り始めました。しかも、私にばかり話しかけるのでせっかくのデートを邪魔しているようで悪いような気がしましたが、彼の隣にちょこんと座るあの子はなにも言わずに、黙ってその様子をにこやかに眺めています。
私といるほうが楽しいはずなのにね。なんでなのかな。

 
悔しい気持ちと、彼と話せる嬉しさとが混じりあいながら、複雑な気持ちで会話を続けました。
ふたりのコーヒーが運ばれてくると、あの子は「わあ、いい匂い」と香りを嗅いで、幸せそうに笑いました。それを見て、彼はあの子を満足そうに見つめていました。そのときに、彼があの子にひかれた理由がなんとなく分かるような気がしました。

 
私にはなくて、あの子にあるもの。言葉ではうまく言い表せられませんが、彼の心のピースにぴったりはまるのは、あの子なんだと思いました。表面上の言葉のやりとりじゃなくて、もっと心の奥にあるやりとりが、このふたりはぴったり合うのでしょう。

 
それを悟った瞬間に、悲しいけれど、なんとなく諦めがつきました。
確かに、そう思ったはずでした。
しかし、次の瞬間にすべてが崩れました。

 
あの子が、にこにこしながらマスターの持ってきてくれた小瓶をあけて、角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ、コーヒーに落としました。そしてくるくると匙でかきまわすと、美味しそうにカップに口をつけて飲みました。

 
「美味しい」
私は、その瞬間になにかが壊れたようでした。
「それ、あたしの」
なんで、とるの。甘いコーヒー飲まないでよ。マスターが、私だけに許してくれたの。
とらないで。
先にとらないでよ。
気づくと泣いていました。
彼とあの子は、びっくりした顔で私を見つめていました。
マスターが飛んできました。

 
「ごめん、お客さん。ちょっと帰ってくれる?お代、いらないから。本当にごめんね」
マスターは、彼とあの子を店から追い出しました。そして、箱のティッシュをテーブルに置いてくれました。

 
「ごめんなさい、マスター」
「いや、いいよ」
「あの子が、先に甘いの、飲もうとして」
支離滅裂な言動にも、マスターは黙って頷いてました。
「そりゃ悔しいよね」
そう言って、黙って新しいコーヒーを持ってきてくれました。
「ありがとう」
「ひとつ、お願いがあるんだ」
マスターが言いました。
「なんですか?」
「この味を忘れないようにね」
「この味?」
「失恋の味になっちゃうかもしれないね。しばらくは辛いかもしれない。でもね、この経験、この痛みは、いつか君のことを助けてくれることがあるだろう。だから、今日の味を忘れないようにしてほしいんだ。人生の先輩としての、僕からのアドバイスね」
私は黙って頷きました。

 
静かにカップを手に取り、コーヒーを飲みました。
苦くて、熱くて、涙の味。
忘れない。きっと一生忘れない。

 
お代は今日はいらないよ、とマスターに言われたけれども、絶対払うと言って払いました。
強情だなあ、と笑われて、「そういう風にしか生きられないから」と私も笑いました。
外へ出ると、木々の緑がまぶしく目に入ってきました。ああ、今まで目に入ってなかったんだな、と思ったときにまた涙が出そうになったけれども、ぐっとこらえて、前を向いて私は歩きだしました。

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