君とコーヒーを飲んだ時間

Pocket

大学生にとっての夏休みは、学費の無駄遣いを疑いたくなるような長さだった。それでも、当時彼女がいた僕は、世間でいう「リア充」の波に乗っかって遊ぶ時間は夏休みだけでは足りないくらいだった。

 

それにしても、あの年の夏は暑かった。猛暑日が続いたこともあり、デートの途中では必ずと言っていいほど喫茶店やカフェで休憩をしないと溶けてしまいそうだった。あの日も外を1時間と歩かないうちに浅草にある喫茶店に入った。いつも通りキンキンに冷えたアイスコーヒーを注文して、テーブルに置かれた瞬間に一気飲みをする。コーヒー好きとしては、これ以上の至福はない。しかし、真正面に座っていた彼女は深いため息をついていた。
「あのさ、もっと味わって飲めないの?」
彼女は怪訝そうな顔で聞くが、コーヒー大好きな僕は「アイスコーヒーは一気飲みだよ!!それが一番美味しい!!」と自信満々に答えた。
「美味しいならいいけど…」と何かを含んだものの言い方だったが、その時は気にも止めずに彼女がゆっくり飲むアイスコーヒータイムに付き合った。

 

こんな出来事があったことも忘れた頃の冬に、彼女が僕の家に遊びに来た。手には大きな紙袋を持っていた。「なにそれ?」と聞いた時には彼女は紙袋から黒い粉末状のものが入ったタッパーを何個も取り出していた。
「本当は挽きたてがいいだろうけど、ミキサーもコーヒーミルも持ってないでしょ?」と決めつけたように言う。その通りなのだが…
彼女が持ってきたのは何種類ものコーヒー豆を挽いたものだった。
「私もそんなに詳しくはないけれど、あなたよりはコーヒーの知識はあると思う」嫌味のこもった言い方に腹を立てそうになったが、それよりも先に飲みたい欲が止まらず「どれくらいお湯沸かせば良い?」と聞きながらキッチンへ向かうが「ちょっと待って!!」と言葉だけで行動を阻まれた。

 

彼女が大量に持ってきたのは、父親が海外出張に行った際にお土産で買ってきたコーヒー豆だった。それに加えて日本のカフェで買える豆もあり、コーヒーを味合わずに飲む僕に本当のコーヒーの味を指導するために持ってきたのだと説明された。よく見みると、1つのタッパーに入っている豆の量は少なかった。「香りも違ければ、味も違うのに、ガバガバ飲むなんて、コーヒーに失礼だよ。飲み比べてみない?」
彼女の物言いは厳しかったが、ここまでするということは僕よりもコーヒーが好きで、知識もあるということを認めざるを得なかった。「ちゃんと教えるから覚えてね」と言い放った後からの彼女の手際の良さに、ただただ目を奪われてしまった。

紙袋の底から出てきたのは喫茶店で見たことのある細口のドリップポット、サーバー、ドリッパー、ペーパーフィルターなど、僕の家の雰囲気には合わない道具だった。割れるのを恐れて持ってこなかったというカップは家にあるもので代用したが、どうにも格好がつかないマグカップが見窄らしかった。
最初にカップや器具を温める作業から始まり、ペーパーフィルターを折り曲げたり、ドリップポットのお湯の温度を95℃になるよう調節したり、聞いたことしかなかった「豆を蒸らす」という技が目の前で繰り広げられ、蒸らした豆がフィルターの中で膨らんだ時は思わず拍手をしてしまった。注ぐ時にポットの先端が円を描くように淹れる理由を話している時は今までで彼女が一番素敵に見えた。

 

2回その技を拝見した後に「やってみる?」と言われて挑戦してみたものの、大雑把な僕がやると案の定お湯が「ドバッ!!」と飛び出してしまい、円を描く前に「ストップ!!」と止められ、二人で大笑いした。仕上げを彼女が華麗にした後に「これ見て」とフィルターの中を指差すと、コーヒー豆の層がゆっくりと底に沈んでいくところだった。

 

「細かい泡が表面にできていると、美味しいコーヒーを淹れられた証なの」と楽しそうに教えてくれた彼女につられて僕も笑顔になっていた。

 

一杯目のコーヒーは時間をかけて飲んだ。今までコーヒーが好きとは言え、ミルクに砂糖は当たり前だった僕が、初めて苦手なブラックコーヒーに美味しさを感じたのが、あの瞬間だった。飲み終わると次の種類の豆をドリップし、という一連のルーティーンが3、4回繰り返されていくうちに、僕のドリップ技術も向上していくが、同時に胃の調子もおかしくなってきた。

 

「今日はここまでにしておこうか」と様子のおかしいことを気にかけてくれてコツを掴みかけたところで飲み比べは終了した。彼女は後片付けまでスマートにこなして、僕のような偽コーヒー好きとの違いに駄目押し点を入れた。

 

この日から、僕たちのデートは専らカフェ巡りへと変わっていった。事前に調べてカフェに行くことなんてなかったくせに、豆にこだわってみたり、コーヒーの知識を沢山勉強した。それでも彼女の知識は上をいっていたが、一緒にコーヒーを飲む時間がこんなにも楽しくなるとは思いもしなかった。浅草でダッチコーヒーを飲んだ時の衝撃は今でも忘れない。

氷が山のように入ったグラスに店員さんがコーヒーを注いでくれて少しセレブになった気分だったし、味も夏の蒸し暑さを吹き飛ばすような爽快さで、一気飲みしたい衝動にかられたけれど、口に広がる苦味がそうさせてはくれなかった。

 

「去年は一気に飲み干していたのに、大人になったじゃん」と心を読まれた。そしてこの年に成人を迎えた僕たちは梅酒をコーヒーに加えてもらい、大人のコーヒーの嗜み方を覚えた。

「コーヒーを飲むことも幸せだけど、コーヒーを飲める時間があるっていうことが幸せなんだと思う」

と言った彼女のセリフは、僕の中の名言ランキングに堂々のランクインを果たした。

これが何年も昔の話になるだろうか。大学卒業と共に進路の違いから交際にピリオドが打たれた。都内にあるカフェや喫茶店は二人で回ったせいか、どこにいっても彼女と何を飲んだのか思い出してしまうから足を運ぶ機会が減った。

 

そのおかげと言うべきか、家でコーヒーを作る腕だけは確実に上達していき、コーヒー豆の違いもわかる今では、行きつけのコーヒー豆専門店に取り寄せまでしてもらうまでになった。すべては彼女のおかげだった。なにかと上からものを言うタイプだったが根は優しかった。愛情がなければ、口先ばかりでコーヒーを好きだと言っていた僕に、その魅力なんて教えてくれないはずだから…そう信じている。

 

今の僕が彼女よりコーヒーの知識があるか?と言われれば自信を持って「ある!!」と言い切れないが、一つだけ彼女に勝る名言を作った自信はある。浅草でダッチコーヒーを一緒に飲んだ時に言った彼女の名言のアレンジだ。

 

「コーヒーを飲むことも幸せ、そしてコーヒーを飲める時間があることも幸せ、でも大切なのは、そのコーヒーを誰と一緒に飲むか?ということだ」

社会人になった今では早起きした朝か、休日くらいしかゆっくりコーヒーを飲む時間がない。未練があるわけではないけれど、美味しいコーヒーができた時こそ「一緒に飲みたかったな…」と心の中で懐かしい思い出に浸る時間が増えていった。

 

ほろ苦いコーヒーと共に、終わってしまった君との思い出を蘇らすのも、大人のコーヒーの嗜み方なのかもしれない。

コメント