大人な自分

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20代前半、一回り近く年上の男性とお付き合いをした事がありました。
彼は人付き合いが苦手で内気な性格で、特に女性との接し方がわからないと軽く女性不審ぽくもある人でした。
仕事の関係で知り合い、普段からのんびりペースな私は彼のペースに合わせて話を聞くようにしていたところ徐々に仲良くなりメールや電話で悩みを聞くようになりました。
やがて彼の真面目で素朴で不器用なところに惹かれお付き合いするようになったのです。
互いの家は車だと一時間半ほどの場所でしたが、
車を持たない私は電車を乗り継ぎ3時間ちょっとかけて会いに行かなければなりません。
彼は申し訳ないからと、よく車で私の家の近くまで来てくれていました。
会った時にはドライブをしながら食事する所を探し、
食後は公園などをゆっくりと散歩しながらおしゃべりをするという可愛らしいデートが中心でした。

 

突然ですが、学生時代の私はコーヒーを苦いだけで美味しくも無い飲み物だと思っていました。
刺激物が苦手で辛い・苦いもの全般が得意ではない私にとってコーヒーの苦さも不快なものの一つだったのです。
でも、自分が大人になったような気分を味わうためだけに味もわからないまま毎日飲んでいました。
砂糖やミルクをたっぷり入れても苦さの方が強く感じていたくせに、かっこつけてブラックで飲んでみたり…今思えば反対に子供っぽい行動なんですけど。

 

コーヒーへの印象が変わってきたのは二十歳頃になってからでした。
相変わらず好きになれず飲む頻度は減っていたのですが苦味には慣れ、苦痛と言うほどでもなくていました。
ある日、出先でフラッと入った喫茶店でのことです。
もう場所や店名も忘れてしまいましたがカウンターの向こうに何種類ものコーヒー豆が並んでいるお洒落なお店で、ドラマに出てきそうだと思ったのは覚えています。
店内に漂う香りに惹かれて、メニューの中で一番安いコーヒーを注文してみました。
確か、お店のその日によって味が違うオリジナルブレンドというような説明があったと思います。
もちろん美味しいコーヒーを飲みたいからではなく、その場の雰囲気を楽しむ為だけのチョイスだったので金額で選びました。
コーヒーに対して耳に入る噂程度の知識しかない私にはメニューを見てもよくわからなかったですし…。
そんな適当な気持ちで口にした瞬間、衝撃とも言える味がしました。
苦味の向こうからほのかに追いかけてくる甘み。
店内に満ちているのとはまた違う香りを感じました。
「おいしい」
苦味は変わらず感じるしいきなり好きになるわけではないのですが、
あからさまにそれまでとは違って素直に“おいしい”と思ったのです。

 

それからは【コーヒー】という一括りで飲むのではなく、香りや味の違いを楽しめるようになっていきました。
特に知識をつけたりするわけではないのですが、コーヒー自体にも意識が向いたと言いますか…。

 

話は戻り、一回り近い年上の彼とお付き合いを始めた頃。
私は自分はすっかり一人前の大人なんだと思っていました。
正確には同じ年代の友人達よりもしっかりしていて一足先に成長したつもりでした。
コーヒーの違いもわかるし、こんなに年上の恋人と付き合っているし
職場の人間関係も良好で責任ある仕事を任されるようになったし、家事も一通りこなして自分はもう何でもできるような気になっていたのです。

彼は私を気遣いとても大切にしてくれていました。
行きたい場所はないか?食べたいものはないか?常に優先してくれ、交際期間中に一度も怒られた事がありません。
新鮮なドキドキはなかったのですが、一緒にいると居心地がよく安心して眠れるベッドにいるような暖かな時間を過ごせました。
でも、あまりにも穏やかな時間の中で私は不満を覚えます。
彼は何かを計画してリードしてくれることはなく、私の顔色を伺いながら言われる事に従うばかり。
いつも「会いに行ってもいい?」「これは嫌じゃない?」「つまんなくない?大丈夫?」と聞かれていました。
会うタイミングもデートの行き先も何をするにも全て私の判断に任されたのです。

もちろん私も彼を大事にしたいと思っていました。
でも、会いに行きたいと言えば申し訳ないと言われ、食事で自分の分を払うと謝られてしまったり。
プレゼントのお礼をするとそんな事をさせるつもりではなかったんだと戸惑われてしまう事もありました。
彼も楽しんでくれるように負担をかけないように気を使ううちに徐々に何をすればいいのかがわからなくなっていきました。

 

そんな中、初めてのクリスマスが近づいてきました。
彼の仕事が年末にかけて忙しく休みが1日しかないのでクリスマスは一緒に過ごせないとの事。
休みの前日も夜まで仕事で、往復の時間も考えると昼過ぎまでの短い時間しかないが会いたいと言われました。
珍しく彼から「会いたい」と言われた私はものすごく嬉しくて
私が彼の職場近くまで電車で行き仕事が終わったら合流して一晩一緒に過ごし、
翌日の昼食後にまた電車で帰ると提案をしました。
これなら長く一緒にいられるし午後に少しは休んでもらえるかと思ったのです。

 

申し訳ない、自分が行くと言う彼を説き伏せて迎えた当日。
電車に揺られた私は各駅停車しか止まらない小さな駅にいました。
電車の乗り換えの関係で約束の時間よりも30分ほど早い21時頃でした。
初めての場所、彼に会いに来れた嬉しさでワクワクしていると
仕事が立て込んで1時間程遅れそうとのメールが…。
忙しいのはわかっていたので快諾し、駅周辺で時間を潰そうかと見回すと
駅前は明かりも少なくとても寂しげでガランとしている。
土地勘のない私が夜に歩き回るのも心もとないので
自販機で缶コーヒーを買いホームにあるガラス張りの待合場所へ向かいました。

 

しばらく缶コーヒーで暖を取っていると携帯が鳴りました。
「ごめん、もう少し遅くなりそう」
暇つぶしの本や音楽も持っていましたし、十数分に一本くる電車を見ながらのんびり待つのは全然平気でした。
むしろ彼に気を使わせて申し訳ないな、お仕事頑張ってるのカッコイイな、会ったらマッサージしてあげようかな♪など思いを募らせて楽しい時間であったくらいです。

 

23時も過ぎた頃、待合室に駅員さんがやってきました。
「今から来る電車が今日の最終です。」
彼からの連絡はまだありません。
最後の電車を見送った私は空き缶を持って駅を出ました。
暖房のかかっていた待合室から降り始めた雪を見ていましたが、外に出てみると風もあり身を竦めるような寒さです。
駅前に見つけた吹きっ晒しのベンチに腰を下ろし、雪の寒さに震えながらも彼からの連絡を心待ちにしていました。

 

日付が変わってから「今から行く」との連絡が!
少しして見慣れた車が私の前で止まりました。
やっと会えた!笑顔の私とは裏腹に、車から降りた彼は今にも泣きそうな顔でごめん!と謝り続けます。
「そんなのいいよ!会えて嬉しいよ!お疲れ様!」
私の言葉に彼はますます申し訳なさそうにします。
暖かい車内でほっと一息ついていると、聞きなれた質問が…
「どこに行きたい?どこでもいいよ?」
ここは彼の地元で私は初めてきた場所。しかも夜中です。
どうしたいか?と聞きなおされ、彼もお腹がすいているだろうから何か食べに行こうと提案。
結局車を走らせながらお店を探すも開いているお店が見つからず、コンビニで購入しホテルへ向かいました。
車内でも彼はずっと私に謝ってばかり。
ホテルで食事をしていても、こんなものでごめん。若い子はこんなのじゃ嫌だよね、ごめんね。
彼にマッサージをしようとすると、申し訳なくてさせられないごめん。
私はただ会いたくて一緒に楽しい時間を過ごしたくて幸せな気持ちで待っていたのに…。

翌日、どこに行こうかと聞かれて返答に困った私と戸惑う彼。
何があるのか聞くと悩み込んで返事はなく、仕方がないので公園を提案すると
ホテルから程近く大きな公園があるからと連れて行ってくれました。
天気はいいが寒かったので暖かい飲み物を買いに行き、いつものようにコーヒーを選ぶと彼が一言…
「若いのにコーヒー飲むなんてすごいね」
意味を尋ねると、若い女の子は甘いものが好きだからココアやジュースを飲むものなのに
お店でもコーヒーを頼むしブラックでも飲める。ジュースよりコーヒーなんてイメージが違うと。
確かに私も苦味は得意ではなく甘いものが好き。
コーヒーを飲む自分は大人だと思っていもいましたが…。

その一言で思ってしまったんです。彼は私の年齢を考えていつも気を使ってくれていたんだと。
彼からしたら一回り年下の二十歳そこそこの女と付き合っているのですから当然かもしれませんが、
言葉の中に“若いのに”“若い子の”がよく含まれているのです。
彼が行き先を提案しないのは“若い子をどこに連れて行けばいいのかわからない”から。
何がしたいのかを聞くのも“若い子が喜ぶ事がわからない”から。
すぐに謝るのも“若いのにこんな事させて申し訳ない”から。
彼が見ているのは私個人ではなく“若い女の子”で、まるで腫れ物に触るように扱われていたんだと感じました。

その日から徐々に気持ちが離れてしまい、お別れの時を迎えました。
最後の決定打はお別れを告げた時に
「若い子がこんなおじさんといてもつまらないかもしれないけど頑張るから
悪い所は直すからもう一度チャンスがほしい」
と言われた事でした。
この人は私個人ではなく若い女性と付き合っている事実が大切だから、
彼が何をしたら喜んでくれるのか、どうすれば大人として見てもらえるかを悩んでも無駄だったんだ…。

 

あれから長い時間がたちましたが、ふと彼との時間を思い出す時があります。
彼はきっと不器用に私の事をとても大切に思っていた結果、考えすぎてしまったのではないか?
私こそ彼の事を考えているふりをしながら、それすらも“大人な自分”に酔う材料にしていたのではないか?
苦味を好きになれないままコーヒーを飲んで大人になった気でいたのと同じように
彼自身を見ずに自分の事ばかり考えていたのは私の方なのではないか、と…。

 

今は前ほどコーヒーを飲まなくなりました。
苦味も美味しいと感じるようになりましたが気分に合わせてたまに口にする程度で、
自分で飲むよりもコーヒー好きな恋人の為に豆を買い、ドリッパーにお湯を注ぐ方が多いです。
自分が少しは成長して“大人”になれているかはわかりませんが、背伸びをしてコーヒーを飲んでいたあの頃よりは背伸びをせずにコーヒーを入れている今の自分の方が自分らしいと感じています。

思い出す度に申し訳さを感じる、ほろ苦い思い出話しでした。

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