大人になるということは…エスプレッソの香りが問いかけること

Pocket

大人になるということは…エスプレッソの香りが問いかけること “「僕と会いたい?」、電話口で彼は決まってこう切り出す。思えば彼はずっとそうだった。「会おうよ」とか「飲みに行こうよ」ではなく「ぼくと、あいたい?」。
うーん、そうですね、会いたいです。教えてほしいこともあるし。そんな曖昧な返事をして、私は出かける身支度をするのだった。

彼は20歳近く年上で、職場の取引先の人だった。とあるプロジェクトで一緒に仕事をさせてもらった。仕事に対しての情熱、丁寧さ、妥協のなさ、20代後半でまだその業界では若手の私は、40代後半の彼のことをいろんな面で尊敬していた。新米のくせに気が強く、上司としょっちゅうぶつかる私に「いいんだよ、女性だからって遠慮するんじゃない。僕なんてもっと気の強い女性が好みだよ」と冗談交じりに慰めてくれていた。

彼は出張でオフィスに来るたびに、若手を食事に誘っては鬱憤を晴らさせてくれていた。そして、だんだん私だけを誘うようになった。「せっかく地方から出てきたんだからさ、おいしいものが食べたいんだ。さ、もう仕事は切り上げて」。そう言って、いつもお気に入りのトラットリアに連れて行ってくれた。

そこはテラス席もある落ち着きとカジュアルさを兼ね備えたイタリアン・バルといった感じのお店だった。いつもいろんな年齢層のお客さんで賑わい、皆、お店の雰囲気や音楽、食事やお酒、食後のデザートやコーヒーを楽しんでいた。バーのカウンターの端には、いつもピカピカのエスプレッソマシーンが置いてあった。いろんなお店に連れて行ってもらったけれど、二人ともお酒はたしなむ程度なので、最後はこのお店で濃いエスプレッソかカプチーノをいただくことが多かった。コーヒー専門店ではなかったが、この香り高いエスプレッソとデザートの組み合わせも、ここで過ごす時間も、私のお気に入りになった。

当時の私は自分と仕事のことばかりで、恋愛は二の次だった。仕事もその分野では駈け出しで、知識もスキルも不足していることを痛感していたので、それを埋めようと必死だったのだ。でも本当は、弱い自分が恋愛に逃げてしまうのが怖くて、肩肘を張っていたのだ。それで、つかず離れずの曖昧な関係の男とも自然消滅に近い状態だった。仕事では気の強さを演じても、プライベートでは自分の気持ちを押し込めてしまう、ただの臆病者だった。

彼との話はたいてい仕事のことだったが、おきまりの話のネタとして、恋愛事情も聞かれていた。聞かないのも、答えないのも不自然だ。「彼氏いるの?いなさそうだよねえ」、そんな風にからかわれて、ほっといてくださいよと返す、最初はそんな表面的な軽い会話だった。彼とは年が離れているし、既婚者だったのでどこか安心しきっていた。「君にもいつか、王子様が現われるよ」そう言って、うれしそうに笑っていた。気づけばいつもじっと眺められているので、私は困ってしまい、王子様なんて古くさいこと言いますねと軽く悪態をつきながら、濃いエスプレッソの入った真っ白なカップに目を落とすしかなかった。

自分のこととなると口ベタな私の代わりに、饒舌な彼はいろんなことを話し始めた。仕事も趣味もプライベートなことも。ただ、夫婦のことになると言葉数が減った。ある時ふと真顔になって、「奥さんとは対等な関係だけど、もう冷め切ってるんだ」とつぶやいた。そしてすぐにいつもの悪ふざけをする時の顔に戻って「まあ、君もこれからそういう苦い経験もするかもね。珈琲みたいに苦い大人の経験をさ。まだ現われていない王子様とね」と冗談めかすのだった。私にだってね、いろいろあるんですよ。お互い、内に秘めた複雑な気持ちをそんなふうに茶化しあっては、ほろ苦いエスプレッソでごまかしていた。

その頃、私は思いもよらない人物から告白された。学生時代の先輩で、遊び仲間だった。意外すぎてびっくりしたけれど、そんな風に気持ちを向けられ、自分と仕事にかまけていた私も恋愛の雰囲気に引きずり戻された。先輩といてもドキドキはしないけれど、こんな風に安心感のある人とつきあえたらどんなにいいだろう、そう思った。

ある夜、いつものようにパンナコッタの焦げたカラメルのほろ苦い甘さと淹れ立てのエスプレッソの香りに酔いながら、私は久しぶりの告白に少々気持ちが舞い上がっていたのかもしれない。おきまりの話題で彼に茶化された時に、売り言葉に買い言葉で思わず言ってしまったのだ。

私にだってねー、いろいろあるんですよ。この前、先輩に告白されちゃって。いい人だし、どうしようかなって。

その瞬間、彼の表情がこわばった。店内の音楽も喧噪も消え、時間が止まったように感じた。そして私を真っ直ぐに見据えてこう言った。「そんなこと言って…。僕だってずっと君のことが好きだったんだよ」。

私も動けなかった。まさか、こんな風になるなんて。20も年上の大人の男が、私のような若いだけの何も持っていない女にこんなに真っ直ぐに気持ちをぶつけてくるなんて。顔なじみのソムリエも、すぐ横の席にいる他の客のことも、彼の眼には入っていなかった。いつものように適当にあしらわれて終わりだと思っていたのに、私はその均衡を壊してしまったのだ。いつものようにエスプレッソのカップを弄ることもできなかった。それに、エスプレッソにはいろんな感情が溶け込みすぎて、どろどろの飽和状態になってしまっていた。

未熟な私は、重大な思い違いをしていた。本当の感情なんて、簡単に見せるもんじゃない。感情をぶちまけるなんて、子どものすることだ。感情をうまく飼い慣らして口をつぐむ、それが大人ってものなんだと。
しかし、そうやって感情を素直に出せない未熟な自分を正当化していただけだった。

こんなに真剣に自分にぶつかってくる人にどうやって向き合っていいのか、経験がない私は途方に暮れていた。例の男とは、曖昧に始まり、曖昧に関係を持ち、それでよいと割り切っていたつもりだった。それなのに、いつの間にか心は疲れてしまっていた。本当の気持ちを見せたら、この人は私の前から去ってしまうかもしれない。怖かった。だから言えなかった。本当は割り切ってなんかいない。いつも、その男から目が離せない自分に戸惑っていた。その男のことをもっと知りたかったし、私のことをわかって欲しかった。

私はほろ苦さを通り越して渋くなってしまったエスプレッソの味とともに、大事なことを心に刻みつけた。彼のように自分の感情から目を逸らさず、見栄や照れなどに左右されずに表現できるのが、本当の大人なんだと。

しかし、子どもの私は彼の気持ちにうまく応えられそうになかった。心の中ではまだ、こんな未熟な私に何を求めているのだろうといぶかしがったり、子どもの私にはわからない恋の駆け引きなのではと彼の心の裏を読もうとしていた。けれど、彼の本心がどうあれ、この真剣さにはきちんと向き合わなければ人として失格だと思った私は、これまで自分の心の中でもごまかし続けてきた気持ちを初めて口にした。

ごめんなさい、好きな人がいます。つきあっているわけではないけれど、好きなんです。

店を出て別れを告げようとした時、悲しい目をした彼に抱きしめられた。彼の心臓を打つ音が早かった。「わかる?自分でもびっくりするくらいドキドキしてるよ」、そう言って私の冷たい頬に自分の温かい頬を寄せた。そして耳元でこう続けた。「本当は僕の気持ちもわかってたんだろう?悪い子だね」

言葉では答えられずに、私は心の中でこうつぶやいた。そうだね、わかっていたよね。告白してくれた先輩にも失礼だよね。でも、こんな風になるなんて思ってなかったよ。こういう状況を回避するために、あなたの気持ちを牽制しようとして出た言葉だったのに。

そのまま頬を滑らせて、彼の唇が私の唇に重なった。さっきのエスプレッソの残り香が広がる。なんてやさしく、熱く、悲しいキスなんだろう。私をいたわりながら、それでいて自分の気持ちを伝えようと一生懸命で。「行かないで。僕に甘えろよ」、彼の骨張った手が私の背中を優しくなぞる。私も彼に寄りかかってしまいたかった。

それなのに私は、あの男のたばこ臭くて乱暴なキスを思い出していた。彼のキスを受けとめながら、彼があの男だったらいいのに…そんなことを考えてしまっていた。

彼には関係が冷めているとはいえ奥さんがいる、それがお互いに歯止めとなった。けれど、時折かかってくる「僕に会いたい?」というあの電話には、ずるいとわかっていながら何度か応じてしまった。

でも、私にはやらなければならないことがあった。
けじめをつけるために、あの男に会いに行った。

つかず離れずの距離でいたけれど、この男と長く続く関係が築けるとは思っていなかった。男はいつも、目を細めて私をじっと見た。その目を見れば、純粋に私のことが欲しいのがわかった。私もその男が欲しかったし、求められてうれしかった。「それでいいじゃない」とそいつの目が言っていた。本気になるのが怖かった私は「これでいいのだ」と自分に言い聞かせた。

男がそろそろ転勤でこの街を離れることは風の噂で知っていた。それを期に、言葉を使って愛情を育ててこなかった私たちの関係が終わることも。覚悟はできていた。

汚いテーブルの上には山積みの書類やモノ、それをよけて無造作に置かれた白いコーヒーカップ。中身は薄いインスタント・コーヒーだったけど、私にはあの日のエスプレッソの香りがツンと鼻をついたような気がした。

男は子どものようにソワソワして、「俺、転勤が決まったんだ」と切り出した。転勤と聞いて私がどう反応するのか、図りかねて戸惑っていた。愛はなくても、言葉が足りなくても、お互いに情はあったから、その男なりに私のことを思いやっているのがわかった。私の顔を直視できずに、下を向いたまま本を無意味に重ねてみたり、どこからか取り出した封筒をまた書類の山にねじ込んだりしているバカみたいな姿が愛しくて、ずっと眺めていたかった。でも、もう終わりの時間は近づき、私はもう子どもを卒業して大人になりたかった。そして2人でいる未来も想像できなかった。

私はコーヒーをくいっと飲み干して、男を真っ直ぐ見つめてこう言った。

あなたがいないと、さびしくなるね。

たったこれだけ、でも私がどうしても伝えたかった本当の気持ち。最初で最後の私からの精一杯の告白、そして失恋だった。不意を突かれた男は驚いて顔を上げ、言った。

「そうだね」。

新しい住所と連絡先を渡されたけど、私も男も、二度と会うことはないとわかっていた。ちゃんと顔を合わせて、笑顔で別れた。それっきりだった。

その帰り道、缶コーヒーを買って車に乗り込んだ。何かをやり遂げた後のようにどっぷり疲れていた。缶コーヒーを飲んで、私は大きな声を上げて泣いた。内臓が口から飛び出しそうなほどの大声で。
涙が止まると、子どもだった自分と決別して、急に自分が10も20も老けこんだような気がした。

あれから15年近くの時が流れた。私も転職してその街を離れ、年上の彼とも会わなくなった。あの頃の彼の年齢に私も近づいているけれど、少しは大人になれたかな。エスプレッソの香りがすると、ふと自分に問いかけてしまう。

コメント