珈琲が混ざるとき

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「珈琲の液体に珈琲クリームが混ざるでしょ。そういう時に何を考えますか?」
「え?」

初めてのデートは近所の喫茶店で、私の行きつけのところだった。私が緊張しいなので、自分が普段行っているところがいいなと思ったのだ。喫茶店のマスターにはデートであることを予め伝えておいたし、あの席空けておいてね!と、お気に入りの席を頼んでおいた。デートなんて久しぶりすぎて、もう何から話したらいいんだろうと思っていたら、この話だ。

 

「僕がただクリームを注いだだけなのに、だんだんと混ざっていく。その様が美しくて好きなんです。世の中は美しいものだらけで出来ているんです。」

ロマンチックなんだかなんなんだか、よくわかるようなわからないような話を聞いていた。

彼は高校で理科の教員をしているらしい。

 

「例えば、生徒に言うんです。水たまりに水が落ちる時に、円ができるだろ?地面が平坦かとか、風がないとか条件はあるけれど、綺麗な円になっているところを見たことがあるだろう?って。世の中のものは美しいもので出来ているんだぞって言うんです。夕暮れが綺麗なのも太陽がだんだんと自分のいるところから離れていくからで、それは僕たちが操作できるものではなくって、自然が作り出しているものなんだって。そういう、自分の手には負えない何かを知りたくないか?世界の仕組みと美しさを知るために理科はあるんだぞって言うんです。まあ、拒否反応を起こして寝ちゃう生徒も結構いるんですけどね。」

 

私は根っからの文系で、高校生の時にはこういう話はもう聞こうとも思わず、寝ていたような生徒だったけれど、なぜか彼の話は面白かった。私がすっかりおばさんになったからかもしれないし、こういう変わった人を見ることに寛容になったのかもしれない。ちょっと面白いおじさんだと思えば可愛らしくも見えてくる。

「あの、次も会って貰えますか。」

私は彼の話をもっと聞きたかった。

「もちろん会いましょう。」

彼とは結婚相談所で出会った。条件には「年収400万円」「40歳まで」「長身」「離婚歴なし」「メガネが似合えば最高」「あの俳優に似てればいいな」「やっぱり年収は1000万円以上がいい」などとどんどん贅沢に、条件をつけていたけれど、そんなお花畑の私を察してか、相談所の女性は「年収400万円」「40歳まで」と言う二つの条件にだけ一致した彼を紹介してくれたのだった。相談所の女性はとても気さくで、多分60歳くらいだと思うけれど、ちょっと母を思い出させるような人だった。

 

「あなた、高望みしすぎ!女は30すぎたらね、20代と同じようにはいかないんだからね!大丈夫、そんなに条件決め込まなくても、フィーリングってものがあるから。」

ズバズバ言うけれど嫌いになれなくて、私はその相談所の女性に会いにいくのが楽しみだった。何度か通っているうちに、その女性自身は晩婚で、40歳で結婚してすぐ妊娠、出産したと言うことを知った。

「人生何があるかわからないわよね。私一生子どもなんて作らないと思っていたもの。だけどね、女の気持ちって簡単に変わるものなのよ。私はたまたま結婚できて出産もして、子どもも無事成人した。これからはね、こういう人生、結婚して自分の家庭を築きたいっていう女性たちを応援したいのよ。この仕事、楽しいわよ。あなた、楽しく生きてる?楽しく生きている人のところに人は集まるわよ。」

私は楽しく生きているのだろうか。ダメじゃないけどすごい楽しいわけでもない。結婚相談所に行ったのは、そんな凪な毎日を変えたいと言う気持ちもあったのかもしれない。

 

「あなたにはね、彼が合うと思うのよ。バツイチで身長も160cmしかないけれど、いい人なのよう。」

正直、私の条件を聞いていたのかしらと思うくらい理想とはかけ離れていたけれど、この女性が言うなら、と言うことで会ってみることにしたのだ。

帰り道、私はその喫茶店から近くに住んでいたので、彼を駅まで送って行った。だけど、彼は電車には乗らなかった。

「僕、ロードバイクが好きで。今日も10キロ走ってきました。」

初めてのデートなのに自転車で来ていたのだ。冬なのに汗かいてるなとは思っていたけれど、そう言うことだったのか。私の常識では考えられない。私なんて、普段近所はダウンジャケットにスキニーパンツにモコモコのブーツというようなカジュアルな格好だけれど、今日は珍しく化粧もちゃんとしたし、奥底に眠っていたワンピースを着てきたし、デニールの薄いタイツも履いて寒い思いをしていたというのに。でもまあそういうところも別に悪くないかなと思った。

 

「またあの喫茶店で会いましょう。あの喫茶店の、ショートケーキがすごく美味しいんです。小さくて、可愛らしいんです。可愛らしいものも好きですか?」

「美しいものも好きですから、可愛らしいものも好きです。ぜひ次はショートケーキを一緒に食べましょう。」

口の中にはまだ珈琲の苦味が残っていた。やっぱりケーキも注文しておけばよかったなと思っていた。

「いちごがどうしてこんなに美しい形になるか知っていますか?」

ショートケーキを頼んでこんなことを言う人は初めてだった。

「ミツバチがね、イチゴの花の蜜と花粉を取りに来る時に、花の周りをくるくると回るんです。それで、いちごが綺麗な形になるのを手伝ってくれるんです。ミツバチ交配って言うんですけれど。」

やっぱりこんなこと2回目のデートで突然話して来る人なんて変だ。変だけど…なんだか嫌じゃないなと思っていた。

「イチゴの形って美しいですよね。それを人間ではなくて、蜂がやっていると言うのが素晴らしい。」

何が素晴らしいのかよくわからなかったけれど、ショートケーキは美味しかった。2回目だからって気を抜きすぎかもしれないが、私はもうワンピースを着ることはやめて、普段通りのダウンジャケットを羽織ってきた。彼は私の服装には大して気にかけていない様子だった。

「あの、吉さんはショートケーキを食べる時、まず上に乗っているイチゴを食べますか?それとも、クリームのある方を食べますか?」

彼の名字は吉田と言って、吉さんと呼んでくださいと言われていたのだ。

 

「上のイチゴから食べますね。だって一番美しいものを残しておく理由はないでしょう。」

その瞬間、売れ残りの私、と言うフレーズが一瞬浮かんだが、それはなかったことにした。

「ところで、失礼な話かもしれませんが、斉藤さんは結婚は今まで考えたことがなかったのですか?」

ああ、やっぱりその話になるか。どうして売れ残ったかを聞きたいということか…。

「はあ…出会いがなかったというのでしょうかね。あまり人と会わない仕事をしているので」

「そういえば、お仕事は何を」

「フリーランスでイラストレーターをしています。フリーで仕事をしていると、会おうと思えばいろんな人と会って、飲みに行って騒いで、ってできるんですけど、あんまりそういうのも好きじゃなくて。なるべく仕事はメールでやり取りをするし、気づいたら何日も家から出ていなかった、っていうのもザラなんです。仕事が楽しいと他のことがどうでもよくなちゃうことがあって。気づいたらトイレとデスクの往復しかしてないなあみたいな。」

斉藤というのは私の名前で、私、斉藤美智子はしがないイラストレーターをしている。フリーランスといえば聞こえはいいけれど、実際は収入が全くない月もあり、そういう時は仕方がないので単発のアルバイトをしてなんとか生活している。アルバイトは気楽だ。二度と会わない人たちと、一度きりの仕事をする。別の世界を見るとイメージも膨らんで、また仕事にも生かされる。

「好きなことを仕事にするのっていいですよね。僕は、仕事は好きなことをするのが一番いいと思っているんです。どんなことだって極めればそれを求めて来る人はいるだろうと思うんです。だから…なんとなく公務員になろうかな、とか言っている生徒を見ると悲しくなるんです。お前らもっとやりたいことはないのか?って。別に公務員が悪いわけじゃないんですよ。ただ公務員をやりたい理由を聞いたら、安定しているからとか、退職金たくさんもらえるからとかそんなのばっかりで。お金がたくさんあったって、やりたいことがなければお金も余っちゃうぞって言うんですけど。今の子たちは周りの目を気にしすぎているんでしょうかね。

 

両親が医者だから僕も医者にならないといけないんだとか、先生になってほしいっておばあちゃんに言われているからそうしようかなと思っているとか、自分の意思はないのか?自分のやりたいことをやらずに年取っていいのか?僕は君たちに理科を好きになってほしいと思っているけれど、それ以上に、自分の道を見つけてほしいと思っているんです。」

イラストレーターをしているとはいえ、それで生計を立てられているわけではない私にしてみれば、理想と現実は違うんだよ、という気分にもなったけれど、この人がここまで理科という分野、先生という職業に情熱をかけられるのはどうしてなんだろうということを考えていた。

「吉さんはどうやって進路を決めたんですか?」

「僕は、小さいころから自然を見るのが好きだったし、外で遊ぶのも好きで。田舎だったので、他に遊びがなかったっていうのもあるんですけど、蟻を観察したり、バッタを育てたり、川で釣りをしたりして、生き物や自然の中で生きてきたんです。だから、この世界のことをもっと知りたい、この現象はどうして起こっているんだろう?って考えているのはもう子どもの頃からずっとで、気づいたら理科の教員になっていましたね。僕は進路に悩むことなんてなかったし、親の言うことなんて本当聞いてませんでしたよ。

 

うち実家は商売をやっているんです。小さな本屋なんですけど…本は好きだけどそれを一生の生業にはできないなと思って、妹に任せてきて上京してきてしまいました。」

「妹さんがいらっしゃるんですね。それにしても、進路の話、素敵です。」

「そう言ってもらえるのは嬉しいです。生徒には自分の人生を生きてほしいと思いましてね。ついつい理科とは関係ない話にいつもなってしまうんです。」

彼は話しだすと止まらないんだなあ。でも、話し下手な私にはちょうど良いかもしれない。

珈琲のミルクはもうすっかり混ざって、綺麗な茶色になっていた。

私と彼の不思議な関係は、まだしばらく続きそうだ。

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