紅茶派だった私がコーヒーを飲むようになった理由

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コーヒーによるカフェイン中毒だ。
こんな感じで子供たちに呆れられている私だが、中学の頃から23歳まではずっと紅茶派だった。
私の母も私の父も物心ついたころからずっと紅茶を飲んでいたからだ。
紅茶かコーヒーと聞かれるたび紅茶と答えるのが当たり前だと思っていた。
透明なポットに茶葉を入れ、熱湯を注ぎ茶葉が上下して動く様子が好きだった。太陽の光が透けているポットから、金色の紅茶をカップに注ぐ。するとふんわり香りが漂って、飲む前の気分を盛り上げてくれる。
年齢を重ねるたびに、紅茶派の私はどちらかというと少数派らしいと言うことに気づいてきたが、なかなかコーヒーを飲む機会はないままだった。ランチの最後のドリンクに紅茶を選ぶときに、「あ、すいません!私は紅茶で」なんていうことにも慣れてきた。

 

23歳の春、私は就職した。
初めて一人暮らしを始めた私は、日々の雑事に追われて、のんびりポットで紅茶を淹れるなんて優雅なことはできなくなっていた。

研修を初めて同期たちと一緒に、様々な場所に行くことが増えてきた。その時差し入れとして出してもらう飲み物はほとんどコーヒー。
男性が多い職場のせいか、紅茶という選択肢を挙げられることすらなかった。

 

職場のコーヒーメーカーで作られるコーヒーは大抵淹れられてかなりの時間が経過している。酸味がかなりあり、コーヒー初心者の私としては、ミルクを入れても砂糖を入れてもなかなか受け入れられる味ではなかった。

いろいろ試行錯誤した挙句、何も入れない状態で飲むのが1番だと気付いた。コーヒーメーカーで温められた時間の経ったコーヒーを飲む回数が増えるたびに、コーヒーの良し悪しがなんとなくわかるようになってきた。

研修は同じグループで回るのだが、そこにコーヒーをおかわりするやつがいた。まぁおいしい時も、とてつもなくまずい時も。コーヒーをおかわりする奴はただ者でないと私は思っていた。

その男はとても無口で普段から感情の読めない男だった。その男はいつも1番にコーヒーを飲み終え、研修先の方におかわりはいかがなんて言われていた。

私なら遠慮する所だが、彼はいつもありがとうございますと言ってありがたく受け取るのであった。なんだか遠慮がない奴だなと思っていた。

彼は研修中、基本的にずっと黙っている。ただ手を動かしている。するべきことはきっちりしているが、話し合いなどは少し苦手なようだった。ただよく状況を見ており、段取りがよく、気づけばみんなの影のまとめ役のようになっていた。

ある日研修先でランチに出かけることになった。
春なのに寒い日だった。最後のドリンクを注文するときに、みんなホットコーヒーで良い?と言う先輩が声をかけてくれた。
学生時代なら紅茶でっていうところだが、仕事先でもあり、またコーヒーに慣れてきたことだし、と私ははーいと答えた。

ところがその無口な彼は私のほうを向き、「ほんとにいの?」と言うのだった。
初めての会話に私は戸惑い、また何を言っているのわからなかった私は「いいいいいい。」とよくわからない返事を返してしまった。

なぜ彼はそんなことを言ったのか。ホットコーヒーをすすりながら、頭の中が?でいっぱいだった。

そのまま彼と会話することなくその日は別れた。帰ってからもあれは何だったんだろう。そんな思いを持っていた。

翌日も翌々日も彼と研修で顔を合わせたが、相変わらず話す事はなかった。彼を観察してみたとこり、自分から話しかけることはあまりなく、人から話しかけられると、楽しそうに話す奴だということに気づいた。

あっという間に研修の終わりの日が近づいてきた。研修が終わると、全国津々浦々の配属先になり、新人同士は会う事はほとんどない。このグループで入るのももうそろそろ終わりと思うと、寂しいなと思うようになった。

研修の終わりの日、みんなで飲み会に行こうと打ち上げの話が盛り上がる中、無口な男が突然ざわざわした中、話しかけてきた。

「飲みの後時間ある?」
この前のことが気になっていた私は「あるある」と返事した。連絡先を静かに交換した。

飲み会では上の空だった。研修仲間と別れるのは寂しかったが、この後のことがただ気になっていた。夜に初めて会うってどういうこと?!飲み会の後って結構遅いのに。そもそも何を言われるのか本当に見当がつかなかった。

会社では女性はかなり少なかった。そのため選択肢の少ない男性たちは、新入社員の女性を恋愛対象にしやすいようであった。
なんとなくのデートの誘いはあったが、それはよく話しかけられたりした後だったのでなんとなく予測がついていた。

ただその無口な男は違った。ランチの一度きりしか話した事はなく、好意も感じた事はなかった。相手の意図がわからず、ぼんやりしていたが、飲み会ということもありお酒のせいにすることができてラッキーだった。

二次会に行く人たちを見送り、少し離れてから連絡を取った。なんとなく社内の男性と一緒にいるのを見られるのが嫌だった。

電話に出た彼は、2次会へ行く人と一応店まで歩いているので、今から説明する店に行って待っていて欲しいというのだった。
説明された通りに行くと、駅の裏の小さな喫茶店にたどり着いた。
喫茶店なのに夜遅くまで開いているんだなと思いながら、バーとかでないことと、あと30分でラストオーダーであることに安心していた。

木の扉を開けると、カウベルのような大きな音カランコロンという音がした。
席に座り、温かい紅茶を注文したあと、後からもう1人来ること言うことを説明した。
なんだか緊張していた。

紅茶のポットが運ばれてくると同時に、彼はやってきた。
彼は座りながらホットコーヒーお願いしますと頼んだ。

「やっぱり」彼はそういった。
「何が?」
「紅茶派だろ。」
「なんでわかったの?」
「理由はない。」
そう言って彼は少しだけ笑った。
なぜ私を呼んだのか、そう聞こうと思ったときにコーヒーが来た。

コーヒーは香りが高く、この数週間飲んでいたものと明らかに違うようだった。
コーヒーを彼が早速飲みだしたので、聞きづらくなり、私はポットから紅茶をカップに移した。久々の香りに緊張がほぐれた。

最初数言と交わしただけで会話が途切れた。何か喋らないとと思ったけど、酔いのせいもあって思い浮かばなかったし、どうでもいいやと思った。

いい香りに包まれて、目の前に彼がいて、この時間が心地よかった。

コーヒーが美味しそうだったので、おいしそうだねと言った。
珍しく一気飲みしてなかった彼のカップには、まだコーヒーが残っていた。飲みたいのか聞かれたので、なんだか飲んでみたくなり、うんと答えた。どうぞと言われたので、カップを取って飲んでみた。

少し薄めのコーヒーは、心地よい苦味と華やかな香りがして心底おいしいなと思った。私には知らないことがたくさんあるんだなと思った。カップを返した後、恥ずかしくなり、自分の紅茶を一気飲みしてしまった。
そのまま会話もなく、ラストオーダーを告げられたタイミングで私たちは店を出た。支払いについて自分が誘ったから俺が払うと言い出した彼と押し問答したが、割り勘ということで話がついた。
この時間は何だったのと戸惑う私を知ってか知らずか、彼からは感情を読み取れなかった。
ここからどこかに誘われるのかな。いや、そんなことないかな。とりあえず先が見えなさすぎて酔いも醒めて来た。

「じゃあまた。」
そう言われて私はまた「あああああまた。」と変な返事をしたのだった。
彼は行ってしまった。

狐につままれたようとはこのことだと思った。

研修も終わり配属も決まった。彼とは電車と新幹線を乗り継いで5時間の距離になった。
あの日以来1度も会う約束もなく、連絡もなく私は新しい街で仕事を始めた。

仕事を始めて3ヶ月、もう暑い夏になっていた。私はコーヒーを選ぶことが増えてきた。なんとなく彼を思い出していた。でも、いつもあの喫茶店のコーヒーほどおいしくはなかった。

新人社員が集められて、1日だけ研修が行われることになった。私は前日に休みを取り、あの喫茶店に行ってみた。当然彼はおらず、私はそこでアイスコーヒーを頼んでみた。汗をかいた体にしみるように美味しかった。

翌日研修の会場で、彼を見つけた。思い切りって隣の席に座った。久しぶりと声をかけた。
驚いたような表情をしたが一瞬でいつもの顔に戻り、久しぶりと返して来た。

午前の研修を終えて、昔一度で行ったメンバーでランチに行った。飲み物の注文で、みんなアイスコーヒーでいい?という先輩の声がした。
彼はアイスティーを1つと声を挙げた。誰も気に留めず、オーダーは通った。
彼の元に来たアイスティは、少ししてから私のアイスコーヒーと彼の手で交換された。久々のアイスティは美味しかった。

みんなが前を歩く道で、私は、彼に声をかけた。
「ありがとう。」
「いえいえ。」
「でももうコーヒー好きになったから気を使わなくていいよ。」
また少し彼が笑った。
「研修終わったらあの店行かない?」
「いく。」

昼からの研修を終え、私はあの店に向かった。
昨日と同じアイスコーヒーを頼んで待っていた。彼は後でやってきた。

「ほんとに好きになったんだ。」
「おいしいね、コーヒーって。」
何か話すでもなくただ2人でコーヒーを飲んでいた。今回は酔っていなかったけど、無言でも気まずくはなかった。
とても心地よい時間が流れた。

彼はアイスコーヒーを飲みほすでもなく、少しずつ少しずつ飲むのだった。
「研修中は一気のみだったよね。」
私が言った。
「長く一緒にいたいからね。」
そう彼は言った。
動揺した私に、彼は続けた。
「付き合って欲しい。」
「ああああああ、はい。」
私はまた妙な返事をした。

結局その後、数年の付き合いを経て私たちは結婚した。
2人の子供は、私が紅茶派だったことなど夢にも思わないだろう。
家中にはドリッパーから漂うコーヒーの香りが満ちている。
そして数年に一度、私たちはあの喫茶店であの時と同じように、無言でコーヒーを味わう。

長年夫婦をしているから話題がもうないだけというのが実際のところだ。
しかし、ここは無言でも気まずくない良い関係を築けているということにしようと思う。

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