やばいな…
昼過ぎから降り始めた雪は、山道に入った国道に早くもくっきりとわだちを付けていた。
その上をまるで綱渡りするように、慎重にバイクを走らせながら、僕は思わずつぶやいていた。
眠い…
無理もない。ゆうべ運良く見つけた素泊まり三千円の宿を、今朝は四時起きで出発した。
明後日からまたバイトだ、帰らなくちゃいけない。今日のうちに距離をかせいでおきたかった。
雪は一行に止む気配は無く、もう市街地まで戻ることもできそうに無かった。
…
そんなこと、もっと早くに分かってたんじゃないの?
デザイナーだ、グラフィックだなんだって、
そんな仕事で食べていける人が、世の中に何人いるって言うのよ。
母さんの言う通りだ。そんなこと、分かりきっていた。
でも、やりたかったんだ。
そう思いながら、僕は何も言えなかった。
それで、どうするの?
…
はっ、と我に返った時にはもう遅かった。一瞬眠ってしまったらしい、バイクの前輪を雪にとられ、
僕はそのまま横転した。バイクと僕の半身が雪にめり込む。
やってしまった。
徐行していたので怪我は無いようだ。のそりと起き上がり、どこも痛くないのを確認した。
僕はゆっくりとバイクを起こす。
ブルルルルル…
よし、エンジンもかかる。いける、か…?
しかしそれは間違いだったと、すぐに気がついた。
ハンドルが大きく左に曲がっている。これでは真っ直ぐに走れない。
参ったな、こんなところで…
本格的に降り出した雪のせいもあって、国道を走る車の気配もない。
ふと、少し手前で見た看板を思い出した。
確か、マツイオートって書いてあったな。オートって車関係じゃないのか。
バイクは扱ってないんじゃないか。そもそも開いてるのか。看板はあったけど、店は2km先とか?
いろんな不安が頭をよぎるが、僕に選択肢は無かった。とにかく、そのマツイオートだけが頼りだ。
真っ白に雪で埋まった道を、バイクを押して後戻りする。
手も足も顔も、冷たくて感覚が無くなりそうだ。
このまま市街地まで戻ることになるのかも、と思い始めた頃だった。
あった。あの看板だ。
すぐ横の脇道を入る。
明かりのついたガレージが見えた。僕は何かに感謝したい気持ちになった。
ガレージの入り口手前は急な坂になっていて、凍りついていた。バイクを押しては登れそうに無い。
僕はエンジンをかけ、アクセルを開きながらガレージに駆け登った。
ブルルルルルル
ガレージ横の事務所らしき部屋のドアが開いた。俺のバイクの音を聞きつけたらしい。
若い、と言っても僕よりは年上の、事務員風の女性が驚いたような顔をして出てきた。
「どうされましたか??」
「あ、すみません。」
思わず謝ってしまう。
「すぐそこで転倒して。バイク見てもらえますか?」
「えっ、転倒?!この雪で走ってたの?!」
僕は急に自分のしたことが恥ずかしくなり、ははは…と目を逸らしてしまった。
「とにかく入って!ね。」
言われるままに僕はその事務所に入った。中はログハウスのようになっていて、ところどころに電飾のライトがちかちかと光っていた。ああ、クリスマスか、と思う。なぜか懐かしい感じがした。
座って待っててね、とその女性は出て行ってしまった。僕はなんとなく居たたまれなくて、ドアの側で立ち尽くしたまま、部屋をきょろきょろと見渡した。自動車整備場らしい。つなぎ姿の従業員の写真があちこちに飾ってある。その中のひとつに目が止まった。さっきの彼女だ。
綺麗な人だな…
バタン!とドアが開いた。
驚いて振り返ると、店主らしきおじさんが入って来た。
「なに、バイクで転んだんだって??」
丸ぶちの眼鏡にひげの生えた丸い顔が僕を覗き込む。
まあまあ座りなよ、と言いながらおじさんはソファーにどかりと座り込む。
僕もその向かいの革のソファーに座った。例の彼女がコーヒーを僕の目の前に置いた。
ふんわりと甘い香りがする。
目の前のクマのような人物にすっかり緊張していた僕は、一瞬ほっと安らぐ。
こんな雪ん中バイクで走るなんて何を考えてるんだ、とおじさんは説教をし始めたが、僕はコーヒーの匂いに気を取られてほとんど聞いていなかった。
なんだっけ、この匂い…
知っているんだけど思い出せない。
おじさんがコーヒーを一口飲んだのを合図のように、僕もコーヒーを口に運ぶ。
薄いカップから伝わってくる熱が心地いい。僕はもうずいぶん長い間、暖かいものを口にしていなかったかのように感じた。そっと一口すする。
苦くない
僕は普段コーヒーをあまり飲まない。苦いのはあまり好きじゃない。けれど、彼女の淹れてくれたコーヒーは、あっさりとしていて美味しかった。
「君、大学生か。何回生なんだ?」
来たか、と思う。この質問にはあまり答えたく無かった。次に何を聞かれるか分かっているから。
「四回生?卒業ツーリングってわけか。じゃあ春からは就職か?」
「いえ、まだ決めていなくて…ゆっくり決めたいと思ってるんで。」
ぼそぼそと答える。彼女に聞かれたくなかった。彼女はおじさんの後ろ側のデスクで、何やら書類を開いたりしている。
まあ、ゆっくりしていけよ。とおじさんは言って、ガレージの方へ出て行った。
「一時間くらいで終わると思うわよ。」
そう言って、彼女は僕に笑いかけた。
「すみません。お世話になります。」
またコーヒーを口に運ぶ。すっかり冷めていた。
何をやっているんだろう、僕は。こんな季節に日本海ツーリングだなんて、全く馬鹿げている。
迷惑なやつだと思われているに違いない。
相変わらずデスクで作業を続けている彼女を、僕はコーヒーをすする度に覗き見ていた。
「もう一杯飲む?」
ふいに彼女が言った。
僕はもうとっくに空になったカップをすすっているのを見透かされたのかと焦った。顔が熱くなるのを感じた。
「え、いや、美味しいっすね、このコーヒー」
何を言っているんだ。
「でしょ?コナコーヒーだよ、ハワイの。」
嬉しそうに言うので僕はほっとする。コーヒーを淹れながら彼女が続ける。
「フレーバーコーヒーっていうやつでね、さっきのはチョコレート」
そうだ。チョコレートの香りだ。コーヒーを淹れるいい香りにチョコレートの香りが混じって、あの心地良い甘い匂いが漂い始める。
「コーヒーの木ってさ、収穫期に何回も花が咲くんだって。」
予想していなかった言葉に何と答えようか考えているうちに、彼女が続ける。
「みんな一斉に咲かないのね。それで、ひとつひとつの実が、ばらばらに熟すんだって。」
それぞれ好きな時にね、と淹れたてのコーヒーを注いだカップを僕に手渡しながら、彼女は付け加えた。コナコーヒーは、収穫期に熟した実からひとつひとつ手で収穫されるのだという。
僕はまだ行ったこともない常夏のハワイで、見たこともないコーヒーの花が咲くのを想像していた。
早咲の花はいそいで、遅咲きの花はゆっくりと。思い思いに咲いているのを想像した。
真っ赤に熟したコーヒーの実を収穫している人がいる。ひとつひとつ、丁寧に。
帽子で顔が見えないが、あの綺麗な人に違いない。
ガチャ、とドアが開く。僕ははっと目を覚ました。ソファに座ったまま眠ってしまったらしい。
「修理、終わったぞ。」
おじさんが言った。
「ありがとうございます。あの、今持ち合わせが無くって、クレジットで払えますか。」
と財布を出す。
「や、それはいいけど、君、これからどうすんの?」
街まで戻って、明日の朝出直すつもりだった。雪が止んで、きっと道路も除雪されているだろう。
そうだな、とおじさんは言って、ゆっくり行けよ、と笑った。
春になったら、またここに来たいと思った。
またここで、あのコーヒーが飲みたい。
常夏の、甘い香りのコーヒーが飲みたい。
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