黒を愛した男

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ブラックコーヒーはかつては『悪魔の飲み物』とさえ呼ばれていた。
まさに罪深いほどにコーヒーの濃厚な黒に、惹き寄せられた人は少なくない。
私の初恋だった男性も、そんなブラックコーヒーの黒に魅了されたうちの一人だった。

私よりも2つばかり年上だったその先輩は、大学近くの小さな古本屋で出会った。
幼い頃から本を読むことが好きだった私は、せっかくの第一志望の大学に入学したというのにサークル活動の一つも参加せずに、ひたすら大学の図書館か小さなその本屋へ通い詰めていた。
今にして思えば、せっかくの花のキャンパスライフ。
もっと青春を謳歌しておけばとつくづく後悔しているが後の祭りである。
当時の私はそんな時の価値もろくに認識しないままに、せっせと本屋通いに勤しんでいたのだ。
行きつけだったその本屋は大学からほど近い所に位置していながら、学生の多い表通りではなくあえて路地裏の奥まった場所にひっそりと身を隠すようにして在った。
店内のお客の数もたいへん限られており、自然と客同士が顔見知りになっていった。
店内はおよそ畳10畳分ほどのスペースで、その決して広いとは言い難い場所に樹海の如く所狭しと本棚が並んでいた。
もしも、今ここで本を選んでいる最中に地震が来たのなら、きっと本に埋もれて死んでしまうと何度妄想したことか。
おまけに店主の趣味なのか、学生が好みそうなコミックや流行りにのったファッション雑誌の類は一切見当たらず、街の書店ではなかなか見かけないようなマニアックな本ばかり
を中心に扱っていた。
そんな本の海の中には、決まっていつも彼が本を読んでいた。
見た目からは恐らく私よりも少し年上なくらい。けれど社会人といった雰囲気ではない。
細身の少し縁が細い黒縁の眼鏡をかけ、余程無類の本好きなのか、はたまた単純にタイミングの問題なのか、私が店に行くと高い確率で遭遇する彼は、大体店の奥にある本棚に行儀悪くも寄りかかって、主に埃が被ったような純文学を好んで読んでいた。
服装はラフな物が好きなようで、黒色のジーンズと少し襟ぐりがくたびれたシャツの姿が多かった。細身で手足が長いおかげか、本棚の高い位置にある本も軽々と捉える様子は、思わず嫉妬してしまう程である。

 
何度か顔を見るにつれて、気がつけば私は本を読んでいる振りをしながら、横目でいつも彼のことを盗み見るようになっていた。
その恋と呼ぶにはあまりにも淡い感情を自覚するのに、あまり時間はかからなかった。
けれど私は内気な性格が災いして、幾度その本屋で彼と顔を合わせていながらも声をかけることもなく、ひたすら自分の好みの本を読む振りばかりをしていたのだった。

そんな彼と初めて喋ったのは、本屋ではなく大学のキャンパスに併設されたカフェでのことであった。
その日、履修していた授業が突然休講になったため、次の授業までの時間つぶしにと読みかけの本を片手に私はカフェを訪れた。
ランチ時には学生で溢れかえって席を確保するのにも一苦労なそのカフェは、定食などのごはんメニューも充実していたが、学生たちの間では密かにコーヒーが美味しいと評判のカフェだった。
大学にあるカフェなので質より量が求められそうではあるが、最近ありがちなコーヒーエキスを使ったものなどではなく、丁寧にドリップをされているのか提供されるコーヒーは香りも豊で、コーヒーが苦手な人でも口当たりが良く飲みやすいともっぱら評価されていた。
どちらかといえば面倒臭がり屋で、けれど舌が肥えているから味にはうるさかったゼミの教授も、学生たちの稚拙な論文に目を通す際のおともにと、わざわざこのカフェに来てコーヒーをテイクアウトすると言っていた。
そんな人気のあるカフェであるが、その時に限っては中途半端な時間帯であったため学生の数もまばらで、特に人気のある外の並木が見渡せる窓際の席も空いていた。
気を良くした私はカフェで当時女子学生に人気のあったホイップした生クリームと溶かし込んだチョコをふんだんにかけたカフェラテ(コーヒー通の人ならば目を背けたくなるような代物である)を片手に窓際の真ん中の席に座った。
右側には同じく本を読む男子学生が一人座っていた。
一人で座っている多くの学生たちは携帯電話を見ているが、その男子学生に限っては年季の入った背表紙の文庫本を読んでおり、傍らにはまだ湯気の立つブラックコーヒーの入ったカップが置かれていた。
コーヒーの色とおそろいの黒縁眼鏡の横顔を見た瞬間に、気づいたら私は「あっ」と声を出していた。
それはまさにいつも本屋で見かけたあの人だった。
私の声に気づいた彼も一瞬驚いた眼をした後、軽く会釈を返してくれた。

「いつも、本屋でお会いしてますね。」

客足の少ない小さな本屋で何度もお互いの顔を合わせているので、顔見知りなるのも当たり前であるはずなのに、その時の私はただただ彼が自分を覚えていてくれた事実が嬉しかった。

「ええ、そうです。ここの文学部1年です。いつもあの本屋では純文学系を読まれていますよね。今日もそうなんですか。」

そう言った瞬間、私はしまった、と自分の発した言葉にひどく後悔した。
浮かれるあまり、頭で整理する前に言葉が先に口から出てしまったのだ。
よくよく考えれば、名前も知らない女子が自分の読んでいた本をどうして知っているのかと当然疑念が生じる。
これでは、本を横目に盗み見ていたことがバレバレで、まるでストーカーのようではないか。
自分の頬を叩きたい衝動に駆られながら私はやけくそにカフェラテを流し込んだ。
コーヒーの苦みの欠片すら無いそれは、ただひたすらに甘くてしつこかった。
彼の飲むブラックコーヒーとは雲泥の差。コーヒーとは呼べないお子様な飲み物だ。
コーヒーの苦みに憧れながらも口にすることのできない女が、それでも焦がれてクリームとチョコレートでごまかしては飲んでみたものの、結局恋愛経験値が少ないので上手く立ち回ることも、コーヒーを飲み込むことすらできない。

 

「今日は論文の資料を読んでいるんだ。君はよく村上春樹を読んでいるね。僕もあの作家けっこう好きなんだ。」

てっきり、引かれたと思い込んでいた私は彼の言葉思わず自分の耳を疑った。
自分だけではなく、彼も私が読んでいた本を知っていたという事実を信じることができなかった。

「ええ。でも、よく覚えていますね。私、友達にも影が薄いって言われるくらいなのに・・・。」

照れ隠しのつもりで自虐的な言葉を口にした私に、彼は「そんなことないよ。」と少し困ったような笑顔を浮かべてひと口、ブラックコーヒーを口にした。
コーヒーの苦みにも眉の一つも潜ませることなく、当たり前にブラックコーヒーを飲む彼は本屋にいる時よりも大人に見えた。

「君、髪を染めたりしてないだろ。うちの大学にいる女の子は皆似たり寄ったりの明るい色に髪を染めたりしているけれど、僕はあんまり染めた髪の子って好きじゃないんだ。」

だから、本屋で君を見かけた時、何の色に染められていないきれいな黒髪をした女の子がいるなって思ったんだよ。

それ以来、私と彼は書店で出会うとお互いの好きな本を勧め合ったり、時々大学内にあるあのカフェで待ち合わせて話しをしたりした。
彼はなかなか博識な学生で、私がそれまで知らなかった本の内容を熱く語って教えてくれた。
話してみて分かったことは、彼が私と同じ大学の文学部の3回生であること、夏目漱石などのなどの純文学が好きでゼミでも日本の近世作家を専修していること。
そして、好きな飲み物はミルクや砂糖を入れていないブラックコーヒーであることだった。

「もともと、あまり甘いものが得意ではないっていうのもあるけど、何よりせっかくの真っ黒なコーヒーにミルクやシロップを入れて、色が濁ってしまうのが嫌いなんだ。」

本のページを指先でめくるように、ごく自然な感じで彼はよくそう言った。
きっと、『黒』という色に強いこだわりと愛着があるのだろう。
事実コーヒーだけではなく、彼のファッションや持ち物も黒を基調としたシンプルなものが多かった。
彼自身、フレグランスの類は一切つけてはいなかったが、彼の傍にいるといつも本のインクの匂いと淹れたてのブラックコーヒーの芳しい香りがした。
だから、私も彼と一緒にいる時くらいは背伸びをしてブレンドのブラックコーヒーを注文する。好きなひとの好きなものを、私も好きになりたいがために。
でも結局、最後にはコーヒーの苦みに負けてしまい、レモン果汁たっぷりのマドレーヌや手作りの焼きプリンの方へと逃げてしまうのだけれど。

(・・・コーヒーのこの苦みが美味しく感じられる頃には、目の前にいる彼に告白できているのかな。)

同じように彼に恋心を抱きながら自分の想いを告げようとしない臆病な私は、生温い彼との関係性を逃げ道にしていた。

けれど、そんな関係性に終止符が打たれたのは、夏の前の長雨が続いた日のことだった。
全部の授業を終えた私は、降り続ける雨を鬱陶しく感じながら足早に校舎を後にしようと駅に向かっていた。
すると、同じ文学部の校舎で授業を受けていたのだろう。コンビニでよく見かけるビニール傘を差した彼が歩いていた。
彼を見つけて途端に嬉しくなり、声をかけようとした私だったが、彼と同じ傘に入っている人影に気づいた瞬間、その歩みを止めた。
彼の隣にいたのは、背がすらりと高い美しい女の子だった。しかし私にとって特に印象的だったのが彼女の肩甲骨あたりにまで伸びた色素の薄い、自然な栗色の髪だった。
透明なビニール傘のおかげで、そんな少女の方を向いて話す彼の表情が後ろにいる私にもよく見えた。
普段であれば、あまり笑顔を見せない少しミステリアスな雰囲気を持つ彼が、彼女と話している時に限っては目を細くさせ、幸せに満ちた笑みをたたえていた。
それは、ずっと彼のことを見続けてきた私が一度も見たことのなかった彼の表情だった。
たとえ二人がまだ恋人同士ではなかったとしても、彼が隣にいる彼女にどんな感情を抱いているのか、私にはよく分かった。何故なら、私は彼のことが誰よりも好きで、ずっと見てきたからだ。
それでも、黒という色に半ば執着にも似た強い愛着を抱いていた彼が、自分のそんなこだわりの色を捨てられるほどに彼女を愛おしく思っている様子に、私は何処か深い安堵を覚えていた。

結局、私の恋は彼に伝わることなく、ほんの一滴のミルクでブラックコーヒーの色が黒から茶色へと移り変わるように、儚く消え去ってしまった。
あれから時が経ち、相変わらず甘党な私は店でもブラックコーヒーよりも、カフェラテの方ばかりを注文する。それでも苦みが恋しくなると、時折ブラックコーヒーを注文することがある。
白磁のカップに映えた、波打つ深い黒を目にするたび、私はかつてこの色を愛していた初恋の青年を思い出さずにはいられない。

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