コーヒーの香りで目覚める幸福な朝

大学時代から付き合っていた彼と結婚が決まった時に、職場の同僚たち数人でコーヒーメーカーをプレゼントしてくれた。

 

コーヒー好きの上司が良いものを選んでくれたとのことだった。私にとって初めてのコーヒメーカーだった。新婚生活がスタートし、コーヒー好きの夫は毎朝コーヒーをいれてくれた。実家の両親はめったにコーヒーを飲まなかったので私も家庭でコーヒーを飲む機会はなかったので、コーヒーの香りで目覚めるなんて初めての体験だった。
私は独身時代は、朝が来るのが憂鬱だった。朝が苦手ですっきりと目覚めることが出来なかった。けれど、夫のいれてくれるコーヒーの香りで目覚めるようになってからは、大嫌いだった朝がそれほどいやではなくなった。いやではないどころか、コーヒーを飲み必ずおかわりまでするほど楽しむようになった。コーヒーと一緒においしいパンやスコーンやパンケーキいただくことも楽しみだった。

 

コーヒーを毎朝ゆっくり飲みたいので、起床時間を早くするようになった。必然的に夜ベッドに入る時間は早くなり、充分な睡眠時間を取るようになった。朝のコーヒーのおかげで、独身時代よりも健康的な生活になった。夫は商社マンで泊りがけの出張も多かった。

 

私は夫がいない朝でも、目覚まし時計のアラームが鳴る前に目覚めて、自分でコーヒーをいれるようになっていた。コーヒーの香りが大好きになり、私の朝に欠かせないものとなった。コーヒーの香りって、どうしてあんなに良い香りなんだろう。暑い夏でも朝はホットコーヒーが良い。ついには朝が苦手だった私が、夫よりも先に目覚めて、夫にコーヒーをいれてあげるようにまでなった。
けれどとても幸せなその生活は残念ながら長くは続かず、1年ほどで終わってしまった。原因は夫の浮気だった。出張が多かったので夫の外泊を疑うことをせず、浮気に気付くのが遅くなってしまった。もっと早く気付いていたらどうにかなったのだろうかと自問自答する日々だった。いや結局どうにもならなかっただろう。残念ながら私と夫は一生のパートナーではなかったということなのだろう。

 

離婚の手続きは驚くほどスムーズだった。結婚1年で子供もおらず、住まいも賃貸でローンもなかったので、あまり争うこともなく、私たちはスムーズに離婚した。私は過去を吹っ切り新しい生活をスタートさせたかったので、住んでいた家や家具は彼に残し、私が家を出るかたちにした。そのかわり私はある程度のまとまったお金を手にすることとなった。今後私は、一生孤独に生きていかなければならないと覚悟した。自分1人で生活していくにあたり、離婚で得たお金には手を付けず節約生活をすることに決めていた。新しい家具を揃える気持ちにもなれず、実家や友人やリサイクルショップからの調達で家財道具を揃えた。時には元の夫の家に置いてきたお気に入りのテーブルやソファーが懐かしく感じることもあった。何よりもあのコーヒーメーカーだけでも持って来れば良かったかなと少し後悔した。

 

コーヒーメーカーだけでも新品を買おうかなと思ったけれども、コーヒーメーカーは新婚生活の幸せな朝を思い出させるので、買うことをためらってしまった。けれども、一度身についた毎朝コーヒーを飲むと言う素敵な習慣は、捨てることが出来なかった。とりあえずインスタントのコーヒーを買い込んだ。インスタントでもコーヒーは美味しかった。もちろんコーヒーメーカーでいれるこだわりの香りにはかなわないかもしれないけれど、朝コーヒーの香りを楽しむことは、一人でも幸せな時間だった。離婚した寂しさを紛らわすためもあり、私はこれまで以上に仕事に打ち込んだ。もう結婚も恋愛もしない覚悟だった。そのせいか仕事は順調で、とても忙しい毎日となっていった。朝7時から夜21時過ぎまで会社で仕事をするようになった。勤務時間が長くなり睡眠時間が減り、体力的に辛くなってきた。私はまた朝起きることがつらくなっていった。その状況を打破する為に、朝のコーヒータイムをいっそう充実させようと思いついた。どんなコーヒーメーカーがいいかな。以前使っていたものと同じものでも良かったけれど、違うコーヒーメーカーを探してみよう。インターネットで調べたりお店に足を運んだりして悩みに悩んだ。考えすぎると迷ってしまってなかなか購入に至らなかった。私は優柔不断ではなかったと思うがなかなか決められなかった。
そんな時会社の忘年会でビンゴがあった。二等の景品は高価なコーヒメーカーで、私が欲しいなと思っていたコーヒメーカーの一つだった。当たったらいいなと思ったけれど、そうそう上手くはいかない。コーヒーメーカーは、最近中途入社してきた3歳年下の彼の手に渡った。でもその彼は、「コーヒーは好きだけれど、家でいれるのは面倒だから使わないので」と私に譲ってくれたのだった。最近中途入社してきた3歳年下の男性だった。せっかく当たったのだからと遠慮したのだけれど、彼は譲ってくれると言った。代わりに何かお礼をと申し出たら、ではランチを一緒に行きましょうと誘われた。男性と食事をするなんて久しぶりだったので、食事に行く前はなんだか緊張してしまった。実際に行ってみると、とても話が弾んで楽しかった。驚いたことにその彼は、入社以来ずっと私に憧れていたが話すきっかけがなかったと告白してくれた。私がバツイチであることは職場ではオープンにしているので、彼も知ってはいるけどもその点は気にせず、私と付き合いたいとはっきりと申し込んでくれた。

 

私は今は結婚は考えられないと言うことを正直に伝えたが、彼は友達からでもいいからと言ってくれた。年下の彼のまっすぐな気持ちが嬉しくて私はイエスの返事をしてしまった。ただ私の仕事は相変わらず忙しかったので、彼と会う時間があまり取れず、デートはお互いの家でDVDを見たり食事を作ったりお酒を飲んだりと言うことが多かった。彼に譲ってもらったコーヒーメーカーで、彼にコーヒーを入れてあげた。彼はミルクをたっぷり入れたカフェオレが好きだと言う。家でこんなおいしいカフェオレが飲めるなんて嬉しいなと彼は喜んだ。そんな素直な彼がとてもいとおしく感じた。ビンゴで彼にコーヒーメーカーが当たらなかったら、私たちは付き合うことは出来なかったかもしれない。私は恋愛も結婚もする気はなかったし、彼は私を誘うきっかけが見つからないと思っていたそうだ。私も前の結婚生活で、コーヒーメーカーでコーヒーをいれておいしいコーヒーをいただくと言う習慣をつけていなかったら、コーヒーメーカーを譲ってもらいたいなんて思わなかったに違いない。彼と同じように、私も家でコーヒーを入れるなんて面倒だと考えていたからだ。
彼は美味しいカフェオレのお礼にと、ドライブがてら彼のお気に入りのコーヒーショップへ行こうと誘ってくれた。私たちの住まいから車で1時間半ほどかかる、海の近くにあるコーヒーショップだった。数年前に偶然立ち寄って以来、昔ながらの雰囲気とマスターの人柄に魅了され、2、3ヶ月に一度は来ているという。私と彼はブレンドを注文した。本当に美味しいコーヒーだった。彼の言う通り、とても素敵なマスターは彼に、「誰かを連れてきてくれるなんて初めてだね」と言った。彼は照れ臭そうに、「1人になりたい時に来ていたからね」と微笑んだ。私はとてもあたたかくて嬉しい気持ちになった。離婚の経験から、もう恋愛なんてできないと思っていたけれど、こんな私でももう一度恋をしてもいいのかなと思った。というより、私はもう彼に恋をしてしまっていたのかもしれない。臆病になっている私にストレートに、でも決して押し付けがましくなくまっすぐに向かって来てくれる彼。もっと彼と一緒にいたいと思った。
その後私と彼のお付き合いは、順調に進んだ。色々なことを語り合った。お互いのことをたくさん語り合った。どんな家庭で育ったか。どんな子供時代だったか。小学校から大学までどんな勉強をしてどんな部活動をしていたのか。好きな食べ物、ファッション、趣味。将来の夢。結婚をしてどんな家庭を作りたいのか。私の以前の結婚のこと。将来どんな土地に住むのか。どんな家を建てたいか。私と彼は3歳の年齢差があるけれど、音楽の趣味がよく合った。それから食べ物やお酒の趣味もよく似ていて行動パターンがとても似ていた。
結婚を前提に付き合い、一年後彼がプロポーズをしてくれた。結婚をしたいとお互いの家族に紹介した。彼は初婚で私は再婚という点が心配の種だった。彼のご両親の立場だったら、年上で再婚の私との交際は、喜ばしいものでは無いのではとずっと不安だった。でも彼のご両親はあたたかく迎えてくださり、私はとても嬉しく感謝の気持ちでいっぱいだった。私の両親も同じ心配を持っていたので、彼のご両親にとても感謝をしていた。思えば、離婚しもう結婚も恋愛もする事はないと思っていた私に、彼のような素晴らしい存在が現れた事は、奇跡かもしれない。そして離婚を忘れるためかのように、必死に仕事に打ち込んだために、仕事でも良い結果を残すことができた。離婚したときは、彼の浮気だったと言うこともあり人生に悲観していたけれども、今また、素敵な結婚相手と巡り会うことができ、恋が出来るなんてとても不思議な気持ちだ。どちらの結婚生活でも、いつもコーヒーが私の生活にある。彼から譲り受けたビンゴの商品だったコーヒーメーカーは、私の家で活躍した後、彼との新居に引っ越し今は彼と私のものとなっている。家でコーヒーを入れるなんて面倒だと言っていた彼が、今では進んでコーヒーを入れてくれる。コーヒーって本当に不思議な飲み物だ。幸せな時もそうでない時も、いつでも私と一緒にいてくれる。これからの人生の朝は、健やかなる時も病める時も彼と一緒に、コーヒーの香りで目覚めたいと願っている。

【記事をシェアする】Share on Facebook0Share on Google+0Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn0

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA