いつもそばには珈琲が

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子供の頃、東北出身のワタシは、雪が積もる大晦日の凍えるような寒い夜に、 弟と近所の自動販売機で350ml・100円の甘く温かい缶珈琲を口にしました。


その瞬間から、普段は寝ているような時間に口にする、この大人の飲み物
(当時両親から、理由はわかりませんが、子供は珈琲を飲んではいけないと言われていたので)
にワタシはすっかり魅了されてしまいました。
他の飲料(当時は、甘く炭酸入りのジュース)のように、 単純に味覚だけが満たされたわけではなく、心も満たされていく (何だか自分にご褒美を与えているような不思議な感覚)感覚を得たことを覚えています。
はじめは、缶珈琲で満足してワタシも、親が新婚の頃には毎日のように稼働していたという
珈琲メーカー(家の倉庫に眠っていました)を用い、 テレビドラマのワンシーンで見た喫茶店のマスターが入れる様子を思い出しながら真似てドリップしそれを口にするようになりました。
その様子を見て両親が懐かしいね、なんて言いながらうれしそうに微笑むものですから、
喫茶店のマスター気取りで数えきれないくらいドリップしたのを覚えています。

実家を出て、東京での一人暮らしの初日の夕方。
引越を手伝ってくれた家族もみんな帰ってしまい、 ポツンと一人ぼっちになった部屋で口にした珈琲。地元の専門店で買った珈琲豆を、 木製のレトロな風貌のミルで挽いて、いつものマグカップで口にした珈琲。
これから始まる東京での生活に対する期待と不安の入り交じった複雑な感情を、
ゴリゴリという豆を挽くミルの音や、小さな部屋を包み込む珈琲の香りが支えてくれたことを覚えています。
今では、数年間の付き合いを経て、結婚した妻と毎週末には、 素敵な珈琲やその珈琲の魅力を最大限に引き出してくれそうな場所やアイテムに出逢う為に、 東京(このまち)を歩いています。
そして、そんな素敵な空に出逢えたら、ゆっくり本を読んだり、話をしたり、 敢えて何も考えない時間を作ってみたり、幸せな時を満喫します。
同じ産地や品質の珈琲であっても、それを口にした場所、店の雰囲気、天候、 そして、その人自身のその日その時の感情によって全く異なるものに感じられてしまいます。 ワタシにとって、珈琲とは単なる飲み物という分類ではないのかもしれません。
喉が渇いたから、潤したいから口にするというよりも、心を満たしたいから触れる、口にする。
そんな不思議でとても大切な存在です。

これからも、いつもそばには珈琲が。

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