コーヒーの香りで始まった恋

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「本日はよろしくお願いします!」
緊張しながら、扉を開ける。
入った瞬間から、ふわぁと事務所内に広がるコーヒーの香り。
今日は某飲料メーカーの最終面接日なのです。
事務職員であろう女性が私の目の前に1杯のコーヒーを持ってきてくれました。
「コーヒー苦手なんだけどな…」
そう思いながらも、せっかく淹れてくれたのに飲まないと失礼だと思い、あまり味わらないようにして飲みほしました。
一通り、筆記試験などに取り組み終わって次はドキドキの面接です。
面接官の男性がこちらに近づいてきて、目が合った私は一瞬で恋に落ちてしまいました。
一目惚れって本当にあるんだな。
この時ふと、こんな事を思いました。
背が高く、スーツがとてもよく似合う大人の男性。
それでいて、目が猫のようにくりっとしていて笑うと小動物みたいで可愛い。
会社に魅かれて志望したはずが、この男性と一緒に仕事がしたい、という不純な動機に変わっていました。
面接は終始和やかに進み、私はなぜか絶対に受かると確信していました。
一緒に仕事をする姿がすぐにイメージできたからです。
合格の場合はお電話します。もし不合格の場合は、電話ではなく履歴書とともに書類を自宅にお送りします。
そう言われてその日は家路につきました。

プルルルル…
2日後、私の携帯に1本の電話が入りました。
着信画面には面接を受けた飲料メーカーの社名の表示。
「ぜひ、一緒にお仕事をしてもらいたいと思いまして。」
合格の電話でした。

私は面接したその日から、面接官の男性が頭から離れませんでした。
これで毎日あの人と会えるんだ。
恋愛スイッチが入ってしまった私は、新しい仕事への不安よりもバラ色のオフィス生活への楽しみしか 頭にありませんでした。

4月の第一営業日、いつも以上に気合を入れてメイクし、いざ出勤。
初日は、オリエンテーションということで、教育担当は面接官の男性。
実はここの支店長でした。

説明口調も手寧で、話もおもしろく私はますます支店長に好意を抱いていきました。
その日の仕事終わり、支店のみんなが歓迎会を開いてくれるとのことで、居酒屋へやってきました。

私は真ん中の席で、隣は支店長。
お酒も進み、支店長との会話も弾み、とても楽しい時間を過ごすことができました。
支店長は独身の38歳。
彼女はおらず、趣味はゴルフとお酒。ドライブも好きとのこと。
コーヒーが大好きでこの会社に入社して、みんなからの信望も厚く、若くして支店長に選ばれたそうです。
私との年齢差は14歳差かぁ…
引っかかる点はそこだけ。あとはパーフェクト!
私の両親は厳格で、30歳以上の人との交際は認めない、と日頃から口うるさく言われていました。
支店長はとても気さくで、真剣に話も聞いてくれて的確なアドバイスもくれる。
私にとって、非の打ちどころのない完璧な大人の男性でした。

仕事を覚えるのは大変だったけど、毎日支店長がいるから頑張れました。

ある日の夕方、一人で事務作業をしていると
「今度飲みに行こうよ」とお誘いをいただきました。
喜んで承諾をし、その日を心待ちにしていました。
約束の当日、仕事終わりに職場の近くの誰にも見つからなさそうな角で待ち合わせ。
少し悪い事をしているような、不思議な感覚でした。
「お疲れさまです」
いつもとは違うプライベートな支店長がここにいる。
今日一日たくさん飲んだであろうコーヒーの香りを漂わせながら。
あっという間に時間が経って、そろそろお酒もなくなってきた頃、支店長が言いにくそうに話し始めました。
「会社だけじゃなく、色んな顔も見てみたいな。一人の女性として好きになりました。俺と付き合ってみない?」と。
私は即答しました。
それから私と支店長は付き合うことになりました。
会社のみんなにはもちろん秘密で。
社内では普段通り、支店長と社員の関係だったのですが、仕事が終わるとカップルになれる。
誰も知らないというところが何とも言えない、もしかしたら、その感覚が心地よかったのかもしれません。
支店長には、今までとは違う大人なデートに連れて行ってもらえ、夜には安心できる温もりをもらいました。
嫌いだったコーヒーも、支店長と一緒の時間を共有するために無理して飲むようになり、今では大好きになりました。
心はすごく満たされているはずなのに、頭では、長続きはしないから私が傷つかないように、と行動していました。
支店長はバツイチで、前の奥さんとの間に子供がいたのです。
人より独占欲の強い私は、結婚するなら初婚の人がいい、と常々思っていました。

月に2度、私の嫌いな日はやってきます。
子供と会う日です。
支店長は顔には出さないけれど、その日を毎回楽しみにしていました。
前日にはお菓子屋やおもちゃなど子供の好きな物を用意し、当日には目覚まし時計よりも早く起きて準備をする。
行ってきます!と元気よく去ってしまう彼の姿を見送りながら、心の中では毎回泣いていました。

 

一度だけ、支店長の子供に会ったことがあります。
私は全然乗り気ではなかったのですが、どうしても会ってほしいとのことでしぶしぶ会いに行きました。
まだ4歳の女の子は支店長の顔を見るなり、満面の笑みで支店長に抱きつきました。
「かわいいね」
私が言える精一杯の言葉でした。
この子には敵わない。
そして、一生この子を好きになることはできない。
そう確信した瞬間でした。
顔を見るたびに、前の奥さんの顔が頭に浮かびます。
こんな思いを一生背負っていく自信はありません。

 

私は、この頃から支店長と付き合いながらも別の男性を探すようになりました。
きちんと結婚を考えられる男性…。
合コンもたくさん参加して、色々な人と連絡を取り合い、支店長にたくさんの嘘をつきました。
大好きなはずなのに、嫌いになりたい。
嫌いになりたいのに一緒にいたい。
矛盾した感情が私の中でグルグル巡るようになりました。

ある時、趣味で所属しているバスケットボールのサークルで一人の男性と出会いました。
見た目は好青年で、真面目な男性。バツはない。
支店長とは違って年も近く、甘い物が大好きでコーヒーにはミルクと砂糖をたっぷりかける、いわゆる今流行りの草食系の男性。
直観で、この男性に少し興味を持ちだしました。
理系の彼は、話してみると結構おもしろく、物知りで、実は私と同じアーティストが大好きでした。
気が合う男性は久しぶり。
そしてなにより同年代だと、気を使わずに話せて、私も無理に大人ぶる必要もないのが楽でした。
私は彼氏がいないことになっていたので、週末になるとよく誘い出してくれるようになりました。
人としてはすごく素敵な人だけど、彼としては少し頼りないような物足りないような…
どうしても支店長と比べてしまって、好きにはなれませんでした。

友達関係が2か月ほど続いたある日、いつものように週末2人で飲みに行っていると
「好きだから付き合ってほしい」
と彼から告白されました。
私は付き合うとか考えてもいなかったし、なんせまだ支店長と付き合っているので返事は保留にさせてもらいました。

家に帰ると笑顔で迎えてくれる支店長。
勝手に涙がこぼれてきました。
支店長は全て知っていたかのように、何も言わずに私を抱きしめてくれました。
全てを打ち明かそうと決心し、私は話し始めました。

 

自分はきちんと結婚を考えた付き合いをしたいこと、支店長の子供を好きになることはできないこと、それだけではなく会いに行かれるのも悲しいこと、
支店長とは結婚できないと考えていること、でも大好きなこと、実は今告白されていて迷っていること…
全て話しました。
聞いている間怒るでもなく、悲しむでもなく冷静に頷いていてくれました。

「辛い思いさせてごめんね」
支店長の最初の一言でした。
「一番幸せになれる答えを出して」とやはりここでも大人の対応。
このままでは2人とも幸せにはなれない。
別れよう、と私は決心しました。
私の答えを黙って聞きながら「わかった」と返事をし、その日は別れました。

 

私は朝まで泣きながら、泣き腫らした目をして会社に行くと、いつものように「おはよう」
と挨拶をする支店長がいました。
嫌でも毎日顔を合わせないといけないのが、社内恋愛の嫌なところ。
気まずくても普段通りに接しないといけないのはわかっているんだけど、実際避けてしまいます。
その日の昼、支店長から1通のメールが入りました。
今日、少し2人で話そう。

 

仕事が終わり、人目を避けたいつもの待ち合わせ場所で待ち合わせをし、よく2人で通ったお店へ入りました。
つい先日までは楽しい場所だったのに、こんなにも悲しい場所になってしまうのか…
支店長の口からは、会社では今まで通り普通にすること、そして新しい彼の事は支店長の耳に入らないようにしてほしいこと、などが告げられました。
その後はいつものように楽しく会話をし、食事をし、やっぱりこの人大好きだな。と改めて思う時間でした。
支店長は、私の前ではいつも大人でいないと、と無理をしていたこともあったそうです。
「大人になると、子供のようにだだをこねることもできないし、現実を受け止めないといけないんだよ」
と笑っていました。

 

私のことを一番に考えてくれてありがとう。
たくさんの経験をさせてくれてありがとう。
私は支店長に伝えきれない程のありがとうをもらいました。

あれから6年。
私の元へ1通の招待状が届きました。
前の会社の同僚からの結婚式の招待状でした。

支店長と別れた後、支店長はすぐ別の県へ転勤となり連絡もなくなりました。
私も4年程勤めあげた後、彼の転勤がきっかけとなり結婚、寿退職をし、現在は田舎で専業主婦をしています。
旦那には悪いのですが、支店長のことを忘れたことは一度もありません。
期間は短かったけれど、私にとっては夢のような時間でした。

唯一、私と支店長の関係を知っている、仲良しだった子の結婚式。
支店長も来るとのことでした。
また、話せる日が来るとは…

笑顔で支店長に会えるように、とびきりお洒落して背伸びをしなくてもコーヒーが似合う大人な女性になって会うんだから!
この結婚式での私の密かな計画はもちろん旦那さんには内緒です。

それでは、行ってきます。

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